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医学部附属施設
Faculty of Medicine
■ 医学部附属施設 / Educational Facilities
 

広仁会館

この広仁会館は,広島大学医学部創立50周年(平成7年)を記念して,会員約5,000名を始めとする多くの人々の愛校心と情熱の昇華の帰結で建設されたものであります。
建設というものは,そこに集う人達が,そして,コンヴィヴィアリティ(共生)が,意味と価値を生み,完成させるものと思います。広仁会館が躍進する霞キャンパスの学会や情報交換,人材交流の拠点となり,さらに,いずこの客人(まれびと)も歓迎する館であってほしいと願っています。
 

日渉園
 

平成12年3月8日、新医学資料館の落成式が行われた。附属病院の病棟新築に際し、旧医学資料館は移築することになった。被爆建物ということで、前面に元のレンガを使用してほぼ原型のまま赤レンガの資料館は霞郵便局の隣に落成した。単に新築移転というだけでなく、医学資料館に目玉というか宝物が入った。それは星野良悦の木骨で、200年前に木で作られた人体骨格模型(身幹儀)である。星野良悦は、広島県で最初に人体解剖を行った医師で、二体の木骨を作り、一体は幕府の医学館に献上したのが寛政13年(1800年)である。最初に作られた木骨が、浅野藩の藩医、後藤家に伝わり、今回後藤一枝さん、智枝さん、後藤宣夫氏のご好意により医学資料館に寄贈された。この木骨は広島市指定重要文化財で、長く広島県立美術館に保存されていた。所有者の後藤家に、かつて私は日本医史学会評議員の江川義雄先生と共に譲り受けたいと申し出たが、その時は断られた経緯がある。
 平成12年1月24日、江川義雄先生、医学資料館長の片岡勝子教授と私の3人で三滝の後藤智枝さん宅を訪ねた。この時、お母様の後藤一枝さんより木骨を広島大学医学資料館に寄贈するということになり、新医学資料開館と同時に展示することになったのである。
 後藤家の祖先は、代々医家で、初め福山の水野藩に仕えていたが、後に浅野藩に召しかかえられ、後藤松眠の時、三滝に日渉園という薬草園を寛政10年(1798年)に創設した。後に松眠の子、松軒の代に逃亡中の高野長英をこの日渉園にしばらくかくまったために、藩主より7年間給料差し止めなどの咎を受けるなどの史実が残っている。
 星野良悦の木骨を後藤一枝さん、後藤宣夫氏より医学資料館に寄贈を受けると同時に、後藤家より元浅野藩の薬草園であった三滝の「日渉園」約400坪を、広島大学に譲渡していただくこととなった。今後、この「日渉園」は広島大学医学部の管理下におき、昔の記録に基づいてこの庭に薬草を配し整備することにした。
 「日渉園」は寛政10年(1798)後藤松眠(1755〜1828)が浅野藩の藩命により薬草園として開いた。諸種の薬草を栽培し、百楽園といわれたり日渉園と称されたりした。昭和20年の原爆の被害に遭い荒廃しているが、日本庭園の形で後藤家の一枝さん智枝さんが守ってこられた。松眠の子後藤松軒(1803〜1864)は長崎で吉雄塾に入門して、蘭学を研究し、シーボルトにも学び、高野長英とも親交があった。
 父 松眠も京都、長崎に遊学した医師で、浅野藩医であった。父の死により松軒25才の時広島に帰り、父の医業を継いだ。この日渉園に高野長英が逃亡潜伏したことは前述のとおり有名で、吉村昭の「長英逃亡」にも書かれている。
 子の静夫氏の時、明治4年に廃園になった。静夫氏は藩医であったが、後に大学東校で学んで帰広し、広島県立病院副院長として広島医学会(芸備医学会)に大きな貢献をした。
 今回、日渉園を広島大学に寄贈された後藤宣夫氏は、その後裔で、千葉工業大学の教授、専門は建築学である。日渉園の隣接部にロッカバレーナとベラビスタという名称の建築作品(集合住宅)を残しているが、闘病生活の甲斐なく、平成12年3月3日他界された。
 宣夫氏の御母君である一枝さん、お姉様の智枝さん、佐々木絢子さん、妹の森光子さんの一致した御決断のもとに、この度、広島大学に歴史的遺産、広島市指定史跡日渉園が移管されることになったのである。
 ちなみに、藩の薬草園で現在まで残っているものは、仙台に伊達藩の野草園があったが、既にただの草原になっており、昔の造園の跡をとどめるものとしては、日渉園は非常に重要であるとされて、広島市から文化財史跡として指定されている。しかし、現在、園内は石灯ろうや化石類など多くのものが紛失した状況であるため、後藤家の御厚意と御意志から、薬草園庭園として昔の記録をもとに復元し、総合薬学科学生の実習場所とし、更に史跡として、今後は一般公開できるよう整備をするつもりである。