第37回田中伸和教授

バイオのつぶやき第37回田中伸和教授
田中伸和教授
田中 伸和教授

染色体機能学研究グループ(広島大学自然科学研究開発支援センター)

 

(2018年8月)

 私は司馬遼太郎の小説はほとんど読んだと思う。稚拙な表現であるが、司馬作品はどれも読み進めるうちにどんどん主人公の生きざまに魅了されていく。代表例は何といっても「竜馬がゆく」の坂本竜馬であるが、あまりに有名すぎて言うに及ばない。司馬作品の中には珠玉の短編も多い。私が多数の短編の中で最も心躍るのは「アームストロング砲」である。

 「アームストロング砲」は肥前佐賀の最後の藩主である鍋島閑叟(直正)が主人公であるが、藩校弘道館に集めた優秀な家臣たちの凄まじい生きざまも垣間見られる。佐賀藩は異国の侵略に対抗できるよう、自藩の軍事水準を欧米並みに引き上げることに注力した。件(くだん)の「アームストロング砲」は当時のイギリスの最新兵器で、砲身の後ろ側から炸薬の入った椎の実形の砲弾を詰める方式で、砲身内部にらせん状の条線(施条)を設けたことで砲弾が回転しながら発射されるため、命中率が格段に優れ、射程距離も飛躍的に伸びた。しかし、20発ほど撃つと砲身にひびが入るので正式兵器には採用されなかった。鍋島閑叟はこの「アームストロング砲」に目を付け、藩きっての優秀な家臣を集め、幕府の目を逃れてひたすら研究した。佐賀藩の特殊性を言うと、「武士道というは死ぬことと見付けたり」という「葉隠」の精神で、主君の命令は絶対であったこととともに、非常に閉鎖的であったので、この研究は全く幕府の知るところになかった。この間、イギリスから「アームストロング砲」を購入して徹底的に調べ上げ、自前で砲身の精煉用の炉を作り、概ね1年半後に自力で国産の「アームストロング砲」を作りあげてしまった。ほかにも独力で鉄砲や軍艦を作った。閑叟ラボの一大プロジェクトであったといえよう。今では、既存の発明物を手に入れ、徹底して調べることでまがい物を作ることはよくあるが、そこに新たな工夫を加えない限り性能は劣る。自前の「アームストロング砲」もそのようなものだったかもしれないが、異国の言葉とその意味を理解しながら、設計図もなく、よくわからない新型兵器の原理や構造などをとことん調べ上げ、短期間でそれなりのものを作り上げたことは驚嘆すべきである。佐賀藩はまさに日本の近代工業勃興の先駆けといえ、明治の日本の躍進の原型はここにある。

 鍋島閑叟は本当に異国を対抗するためだけに自藩の兵器の近代化に努めたのか?私はそうでないような気がする。閑叟は聡明であるとともに凄まじい勉強家であり、とにかく攘夷のもとに理想とする洋式軍を作り上げるため一意専心した。しかし、その実、知的好奇心の権化だったのではないか。

 今の学生諸君は、とても便利な時代に育ち、分からないことがあればネットを引けば大概調べられる。そうでなくても、先生に聞けば丁寧に教えてもらえる(これは教員の仕事ではあるが)。実験においても便利なキットが販売され、それらをマニュアル通りに使えばそれなりの結果は出る。でも、そのキットと同じようなものを作れといわれたら、おそらく戸惑うだろう。しかし、それでは困る。どんな原理で何を使ってどのようになれば、この結果が得られるかということを、閑叟ほどでなくてよいが、自分なりに一度は考えてみてほしい。そういう考え方こそが学生時代の研究の中だけでなく、将来もずっと役に立つ。

 後日談である。鳥羽伏見の戦いの後、鍋島閑叟は自分が作り育てた佐賀藩の洋式兵器と洋式軍隊を惜しげもなく薩長土率いる官軍に与えた。小説には江戸城無血開城の後に上野に立てこもった三千の彰義隊は、件の「アームストロング砲」2門から放たれた「たった12発の砲弾」で壊滅させられたとある。小説ならではの誇張もあろうが、ともかく国産「アームストロング砲」の威力は示された。もっとも、佐賀藩そして己の知の結晶が異人でなく同胞に使われたことは果たして閑叟にとって本望であったかどうか。これは私の勝手な憶測である。

 

参考文献:司馬遼太郎、新装版 アームストロング砲、講談社文庫 pp325-375(2004) 


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