大学院先進理工系科学研究科 井上克也教授(化学)

広島大学では、「特に優れた研究を行う教授職(DP:Distinguished Professor)及び若手教員(DR:Distinguished Researcher)」の認定制度を2013年2月1日に創設しました。DPは重点的課題に取り組むべき研究を行う特に優れた教授職、DRは将来DPとして活躍しうる若手人材として、研究活動を行っています。

井上克也教授は自身を「化学者」ととらえますが、教授は分野の垣根を超え、一見全く共通点がない科学的コンセプトを組み合わせた学際研究を行っています。教授は20歳の時、分野をまたぐ研究を将来の夢として抱いていましたが、実現できるとは考えていませんでした。

井上教授の主な研究テーマは磁性とキラリティで、ユニークな分子の性質を個々の電子レベルに至るまで、化学と物理学を組み合わせて調査します。

井上教授は現在、広島大学大学院先進理工系科学研究科の特に優れた研究を行う教授職(DP)として、キラリティと磁性の両方を持つマテリアルの性質を研究しています。井上教授の研究室はこれまでに数々の卓越した研究成果を出していますが、教授は「我々の研究室は、普通の化学研究室ですよ」と控えめに語ります。

井上教授は、東京大学での大学院生として研究生活を送ったときに、有機または非金属の材料を使って磁性について研究しました。ある種の有機材料はキラリティという特殊な性質を持ちます。キラリティとは、人間の右手と左手のように、分子の構成は同一にもかかわらず、その鏡像を重ね合わせることができない性質のことを指します。教授が大学院生だった1980年代の後半、キラリティを持つ有機分子と磁性を持つ有機分子の両方を組み合わせて研究する研究者はいませんでした。

 

「当時、磁性とキラリティは、科学分野ではまったく違う分野ととらえられていました。そのため、そのどちらかのトピックを選択しなければならなかったのです。学部では磁性を選択し、大学院では他の研究室の様子も見て分野を変えようかと思いました。キラル有機合成の大家であった名古屋大学の野依良治教授と話したところ、野依教授の研究室に来るよう誘われました。大変難しい決断だったのですが、最終的に東大にとどまることに決めました」

井上教授は、キラリティの科学を“右手と左手”の区別がある分子の研究だと説明します。同一の原子の組み合わせを持つ分子でも、“右手”か“左手”かによって全く異なる化学的性質を持ち、医療分野や工業分野での応用に影響を与えています。

 

野依教授は2001年にキラル分子の研究でノーベル化学賞を受賞し、井上教授は1993年に有機分子の磁性に関する研究で博士号を取得しました。

「キラリティと磁性に関する研究アイデアは消えかけていたのですが、自分の心の奥深くではキラリティについての関心は消えていませんでした」と井上教授は語ります。

博士号を取得したのち、井上教授は名古屋市近郊に位置する岡崎国立共同研究機構(のちの自然科学研究機構)の助教授に就任し、同機構で研究対象を多機能磁性体に広げました。多機能磁性体とは、磁性と電界を同時に持つ物質のことです。

「どうやったら磁性体内で電界を発生させることができるだろうかと考え、キラル磁性体の構造を使うことを思いつきました。1999年当時は誰もキラル磁性体の研究を行っていませんでしたが、2016年の最初の8カ月間に、キラル磁性体についての論文が500本以上出版されています。すごい数です!」と井上教授は、この研究分野の急成長に感嘆します。

井上教授の研究は、同機構に所属していた他の教授との運命的な会話によってさらに広がっていきました。

「私たちはお互いによく知っていたのですが、仕事の後の飲み仲間で、研究仲間という訳ではありませんでした。2002年に彼が職場を去ることになり、最後の晩にお互いの研究分野について語ろうということになりました。彼の専門は理論物理学で私が研究していたキラル物質とは縁遠い分野だったのですが、彼が私の研究テーマに惹かれたのです。彼が九州工業大学に異動した後、共同研究を開始しました」

その後、2004年の終わりに井上教授は広島大学に異動し、教授に就任しました。

「10年間勤務した岡崎国立共同研究機構は気に入っていましたが、環境を変えたかったのです」

理論物理学者の友人との研究は、2005年に共著論文として 国際学術誌“Progress of Theoretical Physics Supplement”に出版され、井上教授にとってはキラル磁性体研究の刺激的なスタートとなりました。ついに、井上教授は、関心を持っていたキラリティと磁性とを結びつけることができたのです。

「キラリティを制御する新規材料の設計にあたっては、磁性または非磁性、金属または非金属のどちらを使うか、といった選択をしますが、これが実験の一番面白いところです。原子をどのように組み合わせるかを考えて、これまで存在しなかったものを創造する訳ですから」

「2005年に論文を出版した時、キラル磁性体はまったく新しいコンセプトでした。今では、世界中で約50の研究グループがこのトピックだけに専念して研究を進めています」(2016年インタビュー当時)

これまで井上教授は、海外のさまざまな大学でのサバティカル(研究休暇)の機会に、国際研究所で共同研究を重ねてきました。

井上教授は2004年より広島大学に所属し、海外でのサバティカルや共同研究の経験も豊富。

1999年から2005年にかけての初期の論文に加え、井上教授が熱っぽく語るのが、2011年にスコットランドのグラスゴー大学で最先端のローレンツ透過型電子顕微鏡(Lorentz Transmission Electron Microscopy:TEM)を使って得た研究結果です。ローレンツ顕微鏡は、非常に高い倍率で磁区の写真を撮影でき、電子のスピンの向きまでも読み取ることができます。

「キラル磁性体のスピン構造を直接観察できて、驚嘆しました。スピン構造は強固で安定していたのです!観察したサンプルのサイズは20ミクロンでした。これは個々の電子を観察するのに比べれば、量子空間では巨大なサイズです。ですが、すべてのスピンが整列していました。この安定性のため、磁界共鳴や磁気抵抗、光学特性といった、キラル磁性体の新たな性質の数々が検討できるようになるわけです」

井上教授は、キラル分子について最新の知見が、1方向に透明な材料や、コンピュータプロセッサでの情報伝達の代替法などにいずれ応用されるようになると考えています。未来のコンピュータは、電子信号の代わりに磁性キラリティの“右手と左手”に基づく磁気信号を使う可能性もあります。

かつてキラリティと磁性がそうであったように、一見縁遠いように見える異分野の研究を組み合せることによって、キラル磁性体の応用分野が広がるでしょうか、という問いに対し、井上教授はためらいなく「もちろんです。そうした可能性は十分あります。実現するのを見たいですね」と答えました。

井上教授の研究グループのウェブサイトは、日本語・英語・中国語でご覧いただけます。

<https://kotai.hiroshima-u.ac.jp/>

キラル磁性分野を急成長させるきっかけとなった井上教授の論文全文に関する引用情報の詳細は以下の通りです。

Kumagai H, Inoue K. A chiral molecular based metamagnet prepared from manganese ions and a chiral triplet organic radical as a bridging ligand. Angewandte Chemie-International Edition, 38, 11, 1601-1603, 1999.

このインタビューによるオリジナルの記事は2016年9月に広島大学研究企画室所属のCaitlin E. Devorが執筆したものです。井上教授の写真は広島大学広報グループの提供で再利用しています。本記事の内容を再利用する場合は、広島大学への帰属を明記してください。

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