医系科学研究科 疫学・疾病制御学 田中 純子 教授

広島大学では、「特に優れた研究を行う教授職(DP:Distinguished Professor)及び若手教員(DR:Distinguished Researcher)」の認定制度を2013年2月1日に創設しました。DPは重点的課題に取り組むべき研究を行う特に優れた教授職、DRは将来DPとして活躍しうる若手人材として、研究活動を行っています。

田中純子教授 インタビュー

肝炎ウイルスの疫学的研究で得たエビデンスから
日本と世界におけるウイルス肝炎の撲滅をめざす

疫学は「人間の集団」にフォーカスする医学分野

私は「疫学」を専門としています。疫学は、医学を大きく「臨床医学」「基礎医学」「社会医学」の3つに分けたときの社会医学に含まれる学問分野です。人間集団に有事が発生した際、たとえば、新型コロナウイルスのパンデミックが起こった際に、感染規模や程度、つまり人に与えるインパクトを把握すること、また、疾患の原因を探り、自然史(進行度)を解明すると同時に、対策の必要性の有無を判断し、対策が必要であればその方策や社会的な対策立案のためのエビデンスを提示することが学問としての役目になります。

私が長年研究対象としてきたのが「肝炎ウイルス」と、それに起因するウイルス肝炎、肝臓がんの疫学です。その研究に取り組むようになったきっかけは、約30余年前、非A非B肝炎と呼ばれたC型肝炎ウイルスの研究を国外と競っていた日本側のAUグループの若手の一人であった吉澤浩司先生が、私の所属していた衛生学研究室の教授として広島大学に着任され、指導を受け始めたことです。丁度、血液を介して感染する肝炎症例の大部分の原因と思われるC型肝炎ウイルスの遺伝子が発見された時期(1989年)と重なります。血液を介して人から人へと感染するC型肝炎ウイルスについて、その感染経路の頻度や一般集団での有病率・新規感染率、病態自然史、肝発がん率、検診としての検査方法、肝炎対策など、調査と研究を続けてきました。

B型肝炎ウイルス(HBV)とC型肝炎ウイルス(HCV)の電子顕微鏡写真

さて、疫学の研究では、「サンプリングバイアス(偏り)を限りなく低減させたうえで、データ・情報を多く集めること、そして疫学指標を明らかにすること」がとても重要です。例えば、我々が実施した、肝炎ウイルスに持続的に感染している人の割合(有病率)を把握するための研究では、日本赤十字社初回供血者集団の情報や健康増進事業住民検診による肝炎ウイルス検査情報を厚生労働省肝炎政策研究班を通じて提供して頂き、全数調査として全国規模でのC型肝炎ウイルスやB型肝炎ウイルスの感染状況を解析してきました。これらの成果は、日本のウイルス肝炎の感染状況の参考値として国際間比較に引用されています。

2030年までに世界でC型肝炎の撲滅をめざす

日本は肝がんによる死亡率の高い国の1つです。肝がんによる死亡数は1970年頃から右肩上がりで増加しましたが、2002年の年間3万人超をピークに減少に転じ、現在では年間約2.5万人となっています。肝がんの主な原因は飲酒というイメージがあるかもしれませんが、実は、肝がん死亡の6〜8割(2002年)はB型または、主にC型肝炎ウイルスの持続感染が原因です。B型またはC型肝炎ウイルスに持続感染した場合でも、多くは無症状のまま経過し、数十年後に肝がんなどに進展し症状が現れるケースが多いので、感染状況や感染後の自然史の把握が困難でした。そこで、医療機関で長期フォローをしているC型肝炎ウイルスに持続感染している患者さんの長短さまざまな情報を元に、数理モデルにあてはめた解析(Markovモデル)により、感染後の経過年毎に慢性肝炎、肝硬変、肝がんの推定発症率を提示しました。感染後、40歳には肝炎を発症していなくても、自然経過(無治療)では、30年後には高率に肝がんを発症することが明らかとなりました。つまり肝疾患の進行がなくても、感染の有無を知ることで早期治療導入による重症化を防ける可能性があります。また、このように自覚症状がなく自身が知らずに社会に潜在している肝炎ウイルス感染者の規模(人数burden)を2000年時点で240-300万人であり、その8割は40歳以上であると報告しました。これらは、40歳以上の住民検診に肝炎ウイルス検査(B型肝炎ウイルスとC型肝炎ウイルス)が取り入れられる根拠エビデンスの一つとなりました。2009年に公布された「肝炎対策基本法」では、「一生に一度は検査を受けましょう」がスローガンとなっています。2011年、2017年、2020年に我々が行った受検率に関する国民調査では、国民の約7割(B型肝炎ウイルス)、約6割(C型肝炎ウイルス)が検査を受けており、その割合は上がってきています。

C型肝炎は、ワクチンは開発されておらず、感染するとウイルス排除の根本的な治療薬がない難病でしたが、近年、副作用も少なく、体内のC型肝炎ウイルスを駆逐する経口薬が開発され大きく状況が変わりました。HBワクチンなどを用いた感染予防対策と効果的な抗HCV経口薬の普及を背景に、WHO(世界保健機構)は2030年までにウイルス肝炎を撲滅する目標を掲げています。C型肝炎は天然痘に次いで人類が克服する感染症になることが期待されています。2020年のノーベル生理学・医学賞は、C型肝炎ウイルスの発見によりその後の診断や抗ウイルス薬開発につながった3人の英米人に与えられましたが、ウイルスの発見から30数年で撲滅をめざすところまでの道筋ができたことは、人類の素晴らしい偉業だと思います。

日本における肝炎ウイルス持続感染者数の予測(2015-2035年)。C型肝炎ウイルス(HCV)、B型肝炎ウイルス(HBV)ともに減少していくのが見て取れる。

アジアやアフリカの若い医師、研究者たちに疫学研究を指導

日本では、肝炎ウイルス持続感染者数が減ってきましたが、アジアやアフリカ地域は世界でも有病率が高い地域です。現在、私は、カンボジアやベトナム、ブルキナファソ出身の国費留学生を大学で受け入れ、肝炎ウイルスに関する疫学について、調査や分析方法を指導しながら国際共同研究を進めています。彼らは帰国後、第一線の医師や研究者、医療行政官として母国の人々の健康のために働く優秀な人たちです。私たちも国際貢献としての大きなやりがいを感じながら、彼らと国外調査を行っています。一緒に取り組んでいる調査は、肝炎ウイルス遺伝子型別の疫学分布や有病率、母子感染対策の効果調査等です。

疫学では大規模な集団データや試料を扱いますが、そのデータの一つ一つには、懸命に生きる人々や患者さん一人ひとりの命が宿っています。そのデータの重みを常に感じながら、さまざまな専門分野を持つ研究者たちとともに、これからも世界からの肝臓疾患の撲滅をめざして研究を進めていきたいと思います。

最後に、ここ2年ほどは新型コロナウイルスの疫学研究にも関わっています。有病率や重症化、自然史など不明なまま、調査を計画し行っていく感覚は、C型肝炎ウイルスが発見された直後の当時の感覚を思い出させます。疫学という学問・研究分野は、疾病対策にとって重要な分野の一つであり、もっと多くの人に知っていただきたいと思っています。

カンボジアにおけるB型肝炎ウイルスによる母子感染に関する疫学研究の現地打合せの合間の一コマ

田中純子教授の略歴および研究業績の詳細は研究者総覧をご覧ください。


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