執筆者
菊池達也
はじめに―今中比呂志氏の略歴―
今中比呂志氏は、昭和5(1930)年12月2日に福岡県福岡市に生まれた1(本籍は広島市)。昭和29年3月に広島大学政経学部を卒業したのち、名古屋大学大学院法学研究科へ進学し、同31年3月に修了、同7月に同博士課程を退学し、同大学法学部助手となった。
その後、宮崎大学学芸学部で助手、講師となったのち、昭和40年7月、広島大学教養部講師に着任した。以後、教養部助教授、総合科学部助教授・教授、法学部教授を歴任した。この間、研究の面では、政治思想史、特にイギリス革命期の政治思想を中心とした業績をあげた。また、学内で起こった大学紛争では、学生委員会委員としてその解決に尽力するとともに、その後の教養部の改組や大学院の充実にも貢献した2。
平成4(1992)年、定年を待つことなく広島大学を退官したあとは、金城学院大学に赴任し、短期大学部教授、現代文化学部教授を歴任した。研究以外の面においても同大学では、国際交流センター長、短期大学部長、金城学院常任理事などを務める一方、現代文化学部の創設にも関わった。
本目録に所収した資料は、上記の今中比呂志氏の経歴のうち、広島大学在任中のものが大半である。特に、広島大学で起こった大学紛争と、それを契機に実施された学内改革に関する文書が多数含まれている。以下、今中比呂志関係文書の受贈経緯および資料の原秩序、整理の経緯、資料の概要について述べる。
年月 | できごと |
---|---|
昭和5年12月 | 福岡県福岡市中央区鳥飼にて出生 |
昭和29年3月 | 広島大学政経学部卒業 |
昭和31年3月 | 名古屋大学大学院法学研究科修士課程修了(法学修士) |
昭和31年6月 | 名古屋大学大学院法学研究科博士課程中途退学 |
昭和31年7月 | 名古屋大学法学部助手 |
昭和35年9月 | 宮崎大学学芸学部助手(憲法学) |
昭和39年4月 | 宮崎大学学芸学部講師 |
昭和40年6月 | 広島大学教養部講師(政治学) |
昭和42年4月 | 広島大学教養部助教授 |
昭和47年4月 | 広島大学大学院法学研究科修士課程担当(政治学) |
昭和47年9月 | 文部省在外研究員として主として英国オックスフォード・ベリオル・コレッジに出張(昭和48年8月まで) |
昭和49年6月 | 広島大学総合科学部助教授(政治学・社会思想史) |
昭和52年6月 | 法学博士(名古屋大学)授与される |
昭和53年4月 | 広島大学総合科学部教授・大学院地域研究科修士課程担当(政治学・社会思想史) |
昭和54年10月 | 日本政治学会理事 |
昭和56年4月 | 広島大学法学部教授(政治思想史) |
昭和60年4月 | 広島大学法学部夜間部主事(昭和62年3月まで) |
昭和61年4月 | 広島大学大学院社会科学研究科博士課程国際社会論専攻(比較政治研究講座担当) |
昭和62年5月 | 広島大学評議員(平成3年5月まで) 米国ハワイ大学ロースクール(ウィリアム・S・リチャードソン)客員教授 |
平成元年10月 | 中華人民共和国・復旦大学客員教授(平成元年12月まで) |
平成2年8月 | インドネシア共和国ディポネゴロ大学客員教授(平成2年9月まで) |
平成3年3月 | ディポネゴロ大学との国際交流協定締結のためインドネシア・スマラン市に出張 |
平成3年9月 | 講義のためディポネゴロ大学、パンジャジャラン大学およびアイルランガ大学に出張 |
平成4年3月 | 交流と講義のためディポネゴロ大学に出張 広島大学法学部教授を退官する |
平成4年4月 | 広島大学名誉教授となる 金城学院大学短期大学部教授 |
平成5年4月 | 金城学院大学国際交流センター長(平成7年3月まで) |
平成7年4月 | 金城学院大学短期大学部長(平成9年3月まで) |
平成9年4月 | 金城学院大学現代文化学部教授 金城学院常任理事(平成10年3月まで) |
平成11年4月 | 金城学院大学現代文化学部特任教授 |
Ⅰ 受贈および整理の経緯
本資料は、平成18(2006)年6月6日に今中比呂志氏より寄贈をうけたものである。寄贈時の資料は、今中氏ご自身の手により、紙・封筒・袋等でテーマ別に仕分けがなされており、合計81個のまとまりを構成していた。そこで整理にあたっては、今中氏の整理意図を尊重し、そのまとまりを崩さずに形態別で大分類を定め、1.書類、2.ノート、3.新聞、4.書籍・雑誌等の4つに分類し、基本的に年月日順で配列した。また、このうち1.と4.については、後述するように小分類を設定し、目録採取した。なお、まとまりの中には、時期が離れている資料や、異なる内容のものが一部混在しているが、その場合、まとまり全体の性格を吟味したうえで、各小分類に振り分けた。
Ⅱ 資料の概要
次に、今中比呂志関係文書の概要を紹介する。本目録に所収している資料は、1,513点であり、上述した整理の経緯を経て、平成28年3月現在、下記のように分類・整理されている。
1. 書類-1,437点
(1) 宮崎大学時代-52点
(2) 広島大学教養部時代(授業・試験・セミナー・大学祭等)-110点
(3) 大学紛争(エンタープライズ佐世保入港問題)-33点
(4) 大学紛争(バリケード封鎖解除前)-713点
(5) 大学紛争(バリケード封鎖解除後)-46点
(6) 大学紛争(他大学視察)-45点
(7) 大学紛争(大学紛争史・回顧録)-21点
(8) 統合移転関係-44点
(9) 広島大学生活協同組合設立関係-8点
(10)教養部改組・総合科学部発足関係-206点
(11)社会科学研究科創設関係-103点
(12)広島大学法学部・金城学院大学時代-56点
2. ノート-3点
3. 新聞-35点
4. 書籍・雑誌等-38点
(1) 書籍-2点
(2) 雑誌-4点
(3) 学内刊行物-32点
以下、大分類・小分類の項目に沿って説明する。
1. 書類
書類には、ノート、新聞、書籍・雑誌等を除いた文書を採録した。また、紙・封筒・袋等で分けられたまとまりを崩さなかったため、ノート、新聞、書籍・雑誌等、あるいは物品がまとまりに入っていたとしても、書類として採録すべき文書が混入していた場合、書類として扱った。
(1)宮崎大学時代
今中氏は、昭和35年9月、宮崎大学学芸学部に助手として採用され、同39年4月、同大学講師に就任した。ここでは、その期間における資料のまとまり1点を採録した。主なものとして、当該期に問題となっていた、大学管理法案に関する資料、特に新聞記事や学内刊行物が多数収録されている。
(2)広島大学教養部時代(授業・試験・セミナー・大学祭等)
今中氏は、昭和40年6月、広島大学教養部講師に、同42年4月、同助教授に着任した。ここでは、その期間における、授業や試験、セミナーや大学祭といった、教育活動・大学行政等を中心とした資料のまとまり5点を採録した。なお、広島大学法学部時代の資料も数点含まれているが、原秩序としてのまとまりを尊重し、一括して採録した。
(3)大学紛争(エンタープライズ佐世保入港問題)
広島大学における大学紛争のきっかけの一つであった、昭和43年1月の米原子力空母エンタープライズの佐世保入港に関する資料のまとまり1点を採録した。「教養部教官若手の会」が発行した「会報」や、今中氏と同僚であった伊藤虎丸氏が作成した「大学自治と学生問題-エンタープライズ問題-」(原案)など、教養部教官の入港問題への対応に関する資料などが所収されている。
(4)大学紛争(バリケード封鎖解除前)
広島大学では、昭和44年2月11日、教養部が無期限ストに突入したのち、紛争が全学的に広がっていった。また、同24日、一部学生によって教養部新館が封鎖されたことを端緒とし、次々と建物がバリケード封鎖されていった。ここでは、同年8月17日に実施されたバリケード封鎖解除までの資料が含まれるまとまり17点を採録した。今中氏はこの当時、学生委員会の広報委員会委員として紛争解決に奔走しており、それに関する資料が多数含まれている。その他にも、学生の要求・見解を示した文書やビラ、それに対する大学側の措置などを記した資料などがある。なお、バリケード封鎖解除後の資料も数点含まれているが、原秩序としてのまとまりを尊重し、一括して採録した。
(5)大学紛争(バリケード封鎖解除後)
バリケード封鎖解除後に作成された、大学紛争に関わる記述がある資料が含まれたまとまり7点を採録した。バリケード封鎖解除後も引き続き起こっていた暴力事件や、大学警備に関する資料などを収録している。なお、バリケード封鎖解除前の資料も数点含まれているが、原秩序としてのまとまりを尊重し、一括して採録した。
(6)大学紛争(他大学視察)
大学紛争が活発であった昭和40年代、学生委員会の広報委員会が中心となって行っていた他大学への視察や、他大学の紛争関係資料を含んだまとまり1点を採録した。東京大学、東京教育大学を視察した際の資料が中心で、他にも、大阪大学や岡山大学などの資料が含まれている。
(7)大学紛争(大学紛争史・回顧録)
大学紛争の総括や回顧録などを含んだまとまり2点を採録した。具体的には、闘争を行っていた学生及び団体や、その解決に奔走した教員の資料が含まれている。
(8)統合移転関係
広島大学では、大学紛争を契機として学内改革が進められた。その際に、改めてキャンパスの狭さが障害として認識されるようになった。そこで昭和48年2月8日に賀茂郡西条町御園宇地区(当時)へ統合移転することを決定した。以後、昭和57年に工学部が移転したのをはじめとして、実際に移転計画が完了するまで、24年もの歳月が費やされた。ここでは、統合移転計画が作られる過程やその後の実際に移転する際の資料が含まれたまとまり1点を採録した。
(9)広島大学生活協同組合設立関係
広島大学では、昭和43年8月頃から生活協同組合(生協)設立運動が活発化し、同12月に生協設立発起人会が結成、昭和46年11月1日に生協設立が認可され、同15日から営業が開始された。ここでは、昭和45~46年における生協設立運動に関する資料が含まれたまとまり1点を採録した。
(10)教養部改組・総合科学部発足関係
昭和49年6月7日、広島大学総合科学部が設置された。ここでは、教養部の改組や総合科学部の設立、さらに、同学部発足後の運営に関する資料が含まれたまとまり4点を採録した。
(11)社会科学研究科創設関係
昭和61年4月、広島大学では、大学院地域研究研究科(修士課程)、大学院法学研究科(修士課程)、大学院経済学研究科(修士課程)が改組され、大学院社会科学研究科(博士課程)が設置された。ここでは、その創設に関連する資料が含まれたまとまり2点を採録した。なお、教養部改組・総合科学部発足に関わる資料も数点含まれているが、原秩序としてのまとまりを尊重し、一括して採録した。
(12)広島大学法学部・金城学院大学時代
今中氏は、昭和56年4月に広島大学法学部教授に着任し、平成4年に退官後、金城学院大学に赴任した。ここでは、昭和56年以降の資料が含まれたまとまり5点を採録した。法学部ゼミナールや、岡本総合科学部長刺殺事件に関する資料等が収録されている。
2. ノート
今中比呂志氏が作成したノート3点を採録した。どれも、大学紛争に関わる内容で、IH2000000100とIH2000000200には、昭和44年におけるバリケード封鎖解除前後の会議や団交、起こった出来事、予定等のメモが、IH2000000300には、昭和47年に起こった授業料値上げ問題に関する新聞切抜、団交のメモ等がそれぞれ記載・添付されている。
3. 新聞
新聞として採録した資料は35点あり、その中には、切抜・抜粋されたもの、スクラップブックも含まれる。なお、一部の資料に、新聞の内容とは関連しない文書が挟み込まれているが、原秩序としてのまとまりを尊重して、新聞に分類した。
4. 書籍・雑誌等
書籍・雑誌等として採録した資料は38点あり、書籍、雑誌、学内刊行物の3種で構成した。
(1)書籍
大学紛争に関する書籍2点を採録した。
(2)雑誌-4点
広島大学外で定期的に刊行された出版物4点を採録した。
(3)学内刊行物-32点
広島大学で刊行された資料32点を採録した。
おわりに―今後の見通し―
以上、今中比呂志関係文書の全体像を概観してきた。本目録に採録されている資料は、広島大学における大学紛争の実態を研究するうえで、貴重なものと言える。また、大学紛争後に実施された、統合移転、広島大学生活協同組合設立、教養部改組と総合科学部・社会科学研究科の創設など、広島大学の諸改革に関するものも多数含まれており、広島大学の歴史を研究するうえでも、重要な資料となりうる。本資料が多くの人々に活用されることを望むものである。
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1以下、今中比呂志氏の略歴は、主に、「今中比呂志先生略歴及び業績」(『広島法学』第16巻第3号、広島大学法学会、1993年)、「今中比呂志教授略歴」(『金城学院大学論集』通巻180号、社会科学編第41号、1999年)を参考にした。
2山本敬三「献呈のことば」(前掲『広島法学』第16巻第3号)。