解題:金井利博関係文書目録

執筆者

平下義記

はじめに―金井利博氏の略歴―

 金井利博氏(1914~1974年)は、大正3年1月1日に広島県三次市に生まれた。広島県立三次中学校、広島高等学校文科甲類、九州帝国大学法文学部経済学科と進学し、昭和14年3月に九大卒業、同9月に東京朝日新聞社に入社するも11月には応召により退社した。昭和20年の終戦は「満洲」で迎え、ソ連軍による抑留を経て、日本に復員したのは昭和22年1月のことであった。
 金井氏はその後、昭和22年4月に中国新聞社に入社した。中国新聞社内での主な職務歴としては、昭和34年に編集局学芸部長、同38年に論説委員となり、同45年に定年退職、同社の理事に就任して論説副主幹となり、同46年論説主幹、同47年取締役論説担当論説主幹となり、昭和49年6月の死没直前まで活動を続けた。
 「新聞人」としての金井氏は、自ら「ワンテーマ」主義を掲げたように、1つの社会問題の本質を深く考え抜く、という姿勢に貫かれていた。その金井氏が最も情熱を注いだのが原爆報道であり、その情熱は昭和40年代に「原爆被災白書運動」や、「原爆被災資料広島研究会」の結成につながった。
 そしてこのような原爆報道に対する金井氏の姿勢は、後進の記者達にも影響を与え、金井氏を中心とする記者グループは「金井学校」とも呼ばれていた。例えば、朝鮮人被爆者問題を追った平岡敬氏や、原爆小頭症児を支援した大牟田稔氏、昭和40年の『中国新聞』特集企画である「ヒロシマ20年」に関わった永田守男氏・渡辺忠信氏、海外の放射線被曝者の取材に力を注いだ田城明氏等が「金井学校」のメンバーとしてあげられている。
 しかし、金井氏の社会活動は、中国新聞社の内側にとどまるものではなかった。その事実を端的に示すのが、「広島ペンクラブ」との関わりである。「広島ペンクラブ」は広島文化人の親睦を目的として、昭和24年4月に成立した。事務局の仕事を通じて、この団体の運営を金井氏は支えた。
 この他に金井氏は、「たたら製鉄」の研究にも功績を残した。その成果は『鉄のロマンス』(私家版、昭和30年)として公刊された。金井氏の「たたら製鉄」の研究を後押ししたのが、民俗学者・宮本常一氏であった。こうした金井氏と宮本常一氏の人間関係を背景として、『中国新聞』に「中国風土記」や「瀬戸内海」などの地域ルポが連載されることになった。

Ⅰ 資料群の概要

図 資料群の構造

 現在、確認されている金井利博関係文書について、図式化すると上記の通りである。まず資料群は、三次市の生家の土蔵に伝来したものと広島市牛田の自宅の書庫に集積されたものに大別される。
 三次市の生家の土蔵にあったものは、主として広島高等学校時代から敗戦までの期間のものである。分量としてはとりあえず大型の木箱1個と旅行用トランク2個であった。内容はノート・日記、書翰が中心であり、青年期の金井氏の思想を分析する上で好適な資料群と考えられる。これらの資料については平成26年に発見され、現在、広島大学文書館において順次受け入れ、整理中である。
 なお、この土蔵には、他にも金井家の家業に関する古文書(三次市および広島県立文書館に寄贈)や母金井時子の書翰などがあった。
 一方、広島市牛田の自宅の書庫にあったのは、中国新聞入社から死没するまでの期間のものである。分量としては現存するものを総計すると10,316点にのぼる。内容は原爆報道など中国新聞の記者としての仕事に関するものである。これらの資料については、金井利博氏の死後、満津子夫人が中心となって整理を行い、①中国新聞社に寄贈したもの、②満津子夫人が手許に残したもの、③広島市立中央図書館に寄託したもの、④遺稿集作成のために預けられたもの、に仕分けされた。
 このうち本目録に収録するのは、図において網掛けで表示した②と③に区分される資料である。ただ、いずれも密接な関係があるため、以下、それぞれのグループの概略を紹介する。
 ①に仕分けされたものは、原爆や核兵器に関する文献が中心となっている。平成11年に中国新聞社に寄贈され、同社の資料として原爆報道に役立てられている。
 ②に仕分けされたものは、履歴に関する書類、親交のあった著名人からの来翰が中心である。企画展「金井学校の二人展―平岡敬と大牟田稔」(平成21年9月12~22日)の開催に先立ち、平成21年6月に広島大学文書館が受贈したものである。
 ③に仕分けされたものは、原爆や核兵器に関するものとともに郷土資料(文学、歴史、民俗学)が中心となっている。当初は広島市中央図書館に寄託されていたが、資料群を統一的に管理する観点から平成21年5月に広島大学文書館へ移管されることとなった。
 ④に仕分けされたものは、金井氏の執筆記事の切り抜き、追悼文が中心となっている。金井氏の部下であった大牟田稔氏が、遺稿集の編集のために満津子夫人から預かっていたものである。大牟田稔氏の死後、広島大学文書館が関係文書の収集・整理を行う過程で発見された。ただ、内容を見ると満津子夫人から預けられたものの他に、大牟田氏が中心となって収集した文書も少なからず含まれている。両者の区別がつかないものもあるため、これらの文書については『大牟田稔関係文書目録』個別編(広島大学文書館編集・発行、平成27年2月)に目録を掲載し、公開することとした。

Ⅱ 整理経緯

 このように金井利博関係文書は、文書の性格に応じて分散して保存されてきたが、平成21年に最初の資料を受け入れて以降、関係者のご理解のもと、広島大学文書館に再集積されることとなった。ただ、資料の来歴が異なること、その過程において関係者の手により選別や仮整理が行われていることを踏まえ、本館では資料群を統一的・横断的に整理するのではなく、それぞれのグループの状態に応じて整理することとした。
 ②金井満津子氏手許分については、受け入れ時において、文書群としてのまとまりはみられず、個別に分けられた状態であった。このため内容に応じて分類した上で採録した。その際に封筒の中身で細目録の必要のものは適宜、採録をおこなった。
 ただ、本目録の編集にあたり、③広島市中央図書館旧蔵分と整合性をつける必要が生じた。そこで改めて仮目録を見直し、③広島市中央図書館旧蔵分に準じて分類を一部修正した。
 ③広島市中央図書館旧蔵分については、先述のように平成21年5月に広島大学文書館が移管を受けた。整理にあたっては、この移管時の状態に即して、まず形態別に大分類を設定し、(1)原稿/メモ、(2)書翰、(3)書類、(4)新聞、(5)定期刊行物、(6)小冊子、(7)写真、(8)書籍、(9)雑誌、(10)物品の10種類に仕分けした。
 さらに、点数が多く、かつ、内容による分類が可能な場合は、中分類を設定した(大分類別の中分類の有無と項目については、Ⅲで後述)。その分類を前提に、目録採取した。掲載順は基本的に年月日順で配列した。ただし、整理の都合上、年月日順に配列しなかったものもある。
 こうした一連の作業を踏まえ、最後にID番号として資料に通し番号を付するとともに、原秩序の状態を示すために整理番号を付したのであった(詳しくは凡例を参照)。
 

Ⅲ 資料の概要

 さて、上述の整理経緯により、「金井文書」の金井満津子氏手許分は8種類、中央図書館旧蔵分は10種類の大分類がある。さらに必要に応じて中分類を設定した。各資料の内容/採録方針/中分類の在り方について説明する。分類基準や大分類別の採録方針は、満津子氏手許分と中央図書館旧蔵分で共通している。

1. 金井満津子氏手許分

(1)原稿/メモ
  • 金井利博氏の履歴書が複数含まれている。金井氏の経歴を知る上で重要である。また金井氏没後、大江健三郎氏や梶山季之氏から寄せられた弔辞の原本も含まれている。
  • 封筒入りとバラのものに分け、それぞれ年代順に整序した。
  • 中分類はなし。
(2)書翰
  • 書翰は、金井氏宛の葉書・封書のものが主であるが、中国新聞社宛、広島ペンクラブ宛、金井氏の遺族宛のものも含まれる。時期的には、終戦後の昭和24年頃から昭和48年のものが含まれるが、昭和30年代のものが特に多い。発信者で特筆されるのは、梶山季之直筆書翰が多いことである。
  • 発信者50音順で整序した。同一人物は年月日順で整序した。
  • 中分類はない。
(3)書類
  • 書類として採録した資料の多くは、金井氏自身によりテーマ別に整理されていたと思われる。内容的には広島高等学校の同窓会関係資料や、広島ペンクラブに関わる。
  • 1つの封筒内に複数の資料が入っていた場合は、大分類の順に整序し、さらに年月日順に並べ替え、枝番を付けた。
  • 中分類は、以下の4種類である。
    ①「広島高等学校」 ②「広島ペンクラブ」 ③「歴史・民俗」 ④「その他」
(4)新聞
  • これは金井氏の執筆記事と思われる(平岡敬氏談)。「中国新聞」では署名記事の慣習がなかったため、金井氏の執筆記事と判明することは重要である。
  • 年月日順に整序して目録採録した。
  • 中分類はなし。
(5)定期刊行物
  • 定期刊行物は、冊子形態で定期的に刊行された資料であり、かつ、頁数が少ないなどの理由で雑誌と分類するにはそぐわないと判断した資料である。
  • 件名の50音順で整理し、同一件名の場合は年月日順で整序した。
  • 中分類はなし。
(6)小冊子
  • 小冊子として採録したのは、冊子形態の不定期刊行物、かつ、頁数が少ないなどの理由で書籍と分類するにはそぐわないと判断した資料である。
  • 年月日順で整序して、目録採録した。
  • 中分類はなし。
(7)書籍
  • 書籍として採録したのは、冊子形態の不定期刊行物である。
  • 作成(著者名)50音順で整理して、目録採録した。
  • 中分類はなし。
(8)物品
  • 上記(1)~(7)のいずれの分類にもそぐわない資料を物品と分類し、目録採取した。
  • 内容により大まかに整理し、それぞれ目録にとった。
  • 中分類はなし。

2. 広島市立中央図書館旧蔵分

(1)原稿/メモ
  • 原稿/メモとして採録したものの多くは無記名のため、作成者不明である。原爆報道に関する資料については、金井氏の署名が入ったものもある。時期的には、昭和20~40年代に散らばっている。特に重要と思われるのは、「広島ペンクラブ」についての資料である。前述の通り、金井氏はこの組織の運営に関わっていた。その活動ノートや、内部の会議記録なども残されている。
  • 採録方針は金井満津子氏手許分と同じ。
  • 中分類は以下の3種類である。
    ①「中国新聞社」 ②「広島ペンクラブ」 ③「その他」
(2)書翰
  • 書翰は、金井氏宛の葉書・封書のものが主であるが、中国新聞社宛、広島ペンクラブ宛のものも少なからずある。時期的には、終戦後の昭和24年頃から金井氏が死没する直前の昭和48年のものが含まれるが、昭和30年代のものが特に多い。発信者で注目されるのは、民俗学者・宮本常一氏よりの書翰が多く含まれることである。
  • 採録方針は金井満津子氏手許分と同じ。
  • 中分類はなし。
(3)書類
  • 書類として採録した資料の多くは、金井氏自身によりテーマ別に整理されていたと思われる。書類を入れた封筒に表題が記されている事例が、しばしば見られたことから、それは裏付けられる。内容的には、中国新聞社での職務に関わるものが多いのは当然だが、「原爆白書運動」や「原爆被災資料広島研究会」などの資料も含まれている。
  • 採録方針は金井満津子氏手許分と同じ。
  • 中分類は、以下の13種類である。
    ①「中国新聞社」             ②「原爆白書運動」
    ③「原爆被災資料広島研究会」       ④「被爆者団体」
    ⑤「海外の平和運動」           ⑥「広島ペンクラブ」
    ⑦「フレンドシップセンター」       ⑧「被爆者実態調査」
    ⑨「新生活運動・少年労働者保護」 ⑩「YMCA(ヒロシマ研究の会)」
    ⑪「ABCC」              ⑫「地図」
    ⑬「その他」
(4)新聞
  • 新聞として採録したのは、スクラップや切抜などが主であるが、切り貼りせずに保管されていたものも、少数ながらある。おそらく、金井氏が記事執筆のために収集したものであろう。時期的には、昭和38年以後、40年代前半に集中している。
  • 資料の保存形態に即して中分類を作成し、年月日順に整序して目録採録した。
  • 中分類は、以下の4種類である。
    ①「スクラップブック」     ②「切抜(テーマ別封筒)」
    ③「切抜(バラのもの)」      ④「切り貼りしていない新聞」。
(5)定期刊行物
  • 内容的には、中国新聞社の「社報」にあたる資料が多くを占める。
  • 採録方針は金井満津子氏手許分と同じ。
  • 中分類はない。
(6)小冊子
  • 内容に即して中分類を作成し、さらに年月日順で整序して目録採録した。
  • 採録方針は金井満津子氏手許分と同じ。
  • 中分類は、以下の15種類である。
    ①学術文献     ②原爆関係    ③国内政治       ④国際政治
    ⑤学校教育     ⑥社会教育    ⑦文化財・史蹟     ⑧文学
    ⑨農業       ⑩鉄工業     ⑪宗教         ⑫軍事・宇宙
    ⑬芸術・観光    ⑭写真文庫    ⑮目録・出版案内
(7)写真
  • 写真として採録した資料の数は少ないが、「広島ペンクラブ」と「日本ペンクラブ」の関係者による記念写真や、芸術関係の写真、あるいはプライベート旅行の写真などが含まれている。
  • 年月日順に整理して、目録採録した。
  • 中分類はなし。
(8)書籍
  • 書籍として採録したのは、冊子形態の不定期刊行物である。金井氏が購入したものと、関係者から寄贈されたものが混合されている。金井氏は書籍に、伝来経緯や読後の感想を書き込んだり、参考資料を挟み込んだりすることが多く、それが資料群としての価値を高めている。そのため、それらの情報はできうる限り目録に反映させた。
  • 形態に即して中分類を作成し、さらに作成(著者名)50音順で整理した。その上で、同一著者の場合は年月日順に整序して目録採録した。
  • 中分類は以下の5種類である。
    ①「単行本」 ②「新書」 ③「文庫」 ④「名簿」
(9)雑誌
  • 雑誌として採録したのは、冊子形態の定期刊行物である。書籍と同様に、伝来経緯や読後の感想の書き込みがまま見られるので、目録に反映させた。
  • タイトル(件名)の使用言語に着目し、まず日本語→英語の順で整序した。その上で、日本語タイトルは50音順、英語タイトルはアルファベット順で整序、同一件名のものは、巻号順で並べて目録採録した。
  • 中分類はなし。
(10)物品
  • 上記(1)~(9)のいずれの分類にもそぐわない資料を物品と分類し、目録採取した。
  • 中分類はなし。

おわりに―今後の見通し―

 以上、「金井利博関係文書」の整理経緯、その資料群としての概要について述べてきた。前述のように金井利博氏は、平岡敬氏や大牟田稔氏の「新聞人」としての在り方に影響を与え、そこでの関係は「金井学校」とも呼ばれる記者グループの形成につながった。そして、「金井学校」の記者達はそれぞれに独自の観点から原爆報道を深めていった。彼らの報道活動への着目は、同時代における広島の言論空間の特質解明にも繋がってくるだろう。
 広島大学文書館の「平和学術文庫」には、この「金井利博関係文書」のみならず、「平岡敬関係文書」・「大牟田稔関係文書」が整理の上で保管されている。さらに文書館には「梶山利之文庫」も整備されている。
 以上のような資料群を組み合わせることで、新たに発掘できる歴史的事実も多いだろう。広島大学文書館所蔵の上記資料群を活用した研究の進展が期待される。


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