解題:大牟田稔関係文書

執筆者

斎藤拓海・石田雅春・小池聖一・小宮山道夫

はじめに―大牟田稔氏の略歴― *1

 大牟田稔氏(1930~2001)は、昭和5(1930)年9月1日に宮崎県に生まれた。広島高等師範学校を経て、新制広島大学の第一期生として文学部に入学した。在学中の昭和25年には、梶山季之らと文芸同人誌『天邪鬼』を創刊している。そして昭和28年3月に広島大学文学部文学科仏語仏文学専攻卒業した。
 中国新聞社には、卒業前の昭和28年1月に試用社員として入社し、4月に正式に中国新聞社員となった。その後、同社の総務局総務部長、人事部長、総務局次長、編集局編集委員、広島県大百科事典刊行委員会事務局長などを歴任し、昭和61年に論説委員会主幹となった。
 さて、新聞記者としての大牟田氏に大きな影響を与えたのが、金井利博(中国新聞社論説主幹)であった。金井氏は、中国新聞の記者として広島に投下された原爆の悲惨さを告発し続けた。のちに金井氏の影響を受けた記者たちは「金井学校」と呼ばれ、大牟田氏もその一員として数えられていた。こうした大牟田氏の仕事として特筆されるべきこととしては、昭和39年に当時米軍の施政下にあった沖縄を訪れ、同地の被爆者を日本のジャーナリストとして初めて取材したことがあげられる。また、こうした報道だけではなく、昭和40年には、発足間もない原爆小頭症患者と親の会「きのこ会」の事務局の仕事を引き受け、以後35年間に渡ってその仕事を務めたのであった。
 このように新聞記者として実績を積み重ねていた大牟田氏であったが、平成3年に、元同僚で当時広島市長だった平岡敬氏から広島平和文化センター理事長への就任を打診された。これを受けて大牟田氏は、平成4(1992)年3月に中国新聞社を退社し、同年4月に広島平和文化センター理事長に就任した。広島平和文化センター理事長在任中の平成7(1995)年は原爆投下50年という節目の年に当たり、この前後には、スミソニアン博物館の原爆展問題など、さまざまなできごとが起きた。こうしたなか、大牟田氏は、平岡氏の掲げる「つくりだす平和」を実現するために、同氏と協力しながら広島市の平和行政に尽力したのであった。その後、平成11年に同理事長を退任し、平成13年10月に他界したのであった。
 本目録に所収する資料は、こうした大牟田稔氏の生涯にわたる仕事に関する文書や書籍などである。その中心は原爆被害の問題であるが、その他にも大牟田氏が文学への関心が強かったこともあり、広島の文化や文学に関する資料も多数含まれている。以下、その整理経過と概要について述べる。

*1 「大牟田稔遺稿集」刊行委員会編『ヒロシマから、ヒロシマへ 大牟田稔遺稿集』(渓水社、平成14年)、大牟田聡「表現者としてのジャーナリスト~ヒロシマと大牟田稔の関わり」『財団法人三菱財団人文科学研究助成(平成19年度)研究成果報告書 被爆地広島の復興過程における新聞人と報道に関する調査研究』(編集・発行:広島大学文書館、平成21年3月)参照。

大牟田稔氏略年譜

昭和5年9月    宮崎県生まれ
昭和28年3月    広島大学文学部文学科仏語仏文学専攻卒業
昭和28年1月    中国新聞社入社(編集局学芸部配属)
昭和30年10月    編集局整理部
昭和38年3月    東京支社編集部
昭和38年10月    東京支社編集部次長
昭和41年8月    編集局整理部次長
昭和42年3月    総務局総務部次長
昭和43年4月    総務局総務部長
昭和45年3月    総務局人事部長
昭和49年2月    総務局次長
昭和50年2月    施設部長兼務
昭和52年3月    編集委員(解説担当)
昭和54年10月    広島県大百科事典刊行委員会事務局長
昭和58年3月    論説委員会副主幹
昭和61年3月    論説委員会主幹
平成4年3月    中国新聞社退職
平成4年4月    広島平和文化センター理事長就任
平成11年3月    広島平和文化センター理事長退任
平成13年10月    死去(享年71歳)

[審議委員会等]

広島市議会史編集委員会委員、広島市博物館基本計画調査委員会委員、広島市博物館資料調査収集委員会委員、厚生省原爆被爆者調査委員会委員、広島県地方労働時間問題懇話会委員、国立江田島青年の家運営委員、行政苦情救済推進会議委員、広島市文化懇話会委員、広島市国際平和文化会館基本計画検討委員会委員、広島県果樹農業振興審議会委員、広島市婦人問題懇話会委員、広島県労働問題懇話会委員、「ひろしま21世紀女性プラン」策定委員会委員、合唱組曲「悪魔の飽食」広島公演実行委員会委員長、広島花幻の会代表、鈴峯女子短期大学講師(非常勤)、広島市立大学講師(非常勤)、広島県立保健福祉大学講師(非常勤)

出典:『ヒロシマから、ヒロシマへ 大牟田稔遺稿集』所収の年譜をもとに一部改訂して作成。

1. 収集の経緯および資料の原秩序

 大牟田稔氏のご子息大牟田聡氏と広島大学文書館長の小池が初めて出会ったのは、平成16(2004)年6月5日(土)に開かれた広島大学総合科学部創立30周年記念式典の席上であった。大牟田聡氏は同学部の卒業生で、OBとして式典に参加しておられた。その際に、大牟田聡氏より、広島都市高速の建設にともないご自宅がその用地買収の対象となっていること、父大牟田稔の残した大量の資料の整理に困っていることを聞き及んだのであった。そこで小池は資料の整理の助力を申し出るとともに、文書館において資料の受け入れを検討することとした。
 その後、大牟田聡氏より正式に応諾の連絡があるとともに、文書館においても受入の見通しがたっため、同年9月5日、現状確認のために小池、菅真城(文書館助手)、松尾雅嗣(平和科学研究センター教授)、川野徳幸(原爆放射線医科学研究所助手)の四名で当時広島市東区二葉の里にあったご自宅を訪問したのであった(肩書きは当時のもの)。
 さて、ご自宅において資料の状況を確認したところ、屋内の利用可能な空間には書籍や書類が所狭しと置かれていた。大牟田聡氏の証言によると、玄関脇にあった書斎に収まりきらなくなった資料は、次第に廊下や寝室、二階の子ども部屋などに置かれていったとのことであった。後に整理作業で確認したところ、こうした証言を裏付けるように晩年の資料(広島平和文化センター理事長時代のものなど)は、部屋に入りきれず箱詰めにして客間の縁側や屋外のベランダに置かれていた。(なお大牟田稔氏は、晩年、広島駅北口の商業ビルの1室を借りて事務所として使用しており、こちらにも資料の一部があった。)
 このように大牟田氏のご自宅に集積された資料は膨大であり、すべてのものを文書館に受け入れることは不可能であった。そこで現地において一次選別を実施し、大牟田稔氏の仕事と関わりの深い資料を抽出して収集することとした。すなわち(1)書類は基本的に収集する、(2)書籍・雑誌については、①核・原爆問題関係、②広島県・広島市関係、③マスコミ関係を中心に収集する、という方針を立てたのであった。
 こうした方針にもとづいて平成16年11月23日、12月5日、翌平成17年1月23日の3回にわたり、のべ18名で大牟田稔氏のご自宅ならびに事務所の資料を整理・収集した。この結果、整理箱に換算して373箱分もの資料を文書館に持ち帰ったのであった。

2. 整理の経緯

1.荒整理の実施

 上述のように資料の受け入れにあたり、現地で一次選別を行った。しかしながら限られた時間の中で作業を行ったため、十分な仕分けを行うことができなかった。そこで文書館に持ち帰り、大まかな内容を確認した。こうした作業を進める過程で、貴重な資料の存在が次々と明らかになった。そこで小池の発案により平成17年9月12日から22日にかけて、広島大学図書館において特別展示「金井学校の二人展-平岡敬と大牟田稔-」を開催した(総来場者 191 名)*2。
 さて、こうした資料の確認作業を踏まえて、文書館では「大牟田稔関係文書の整理要綱」を策定し、平成17(2005)年12月7日から本格的な資料整理に着手した。
 すなわち文書の形態に応じて、書簡、葉書、ノート・メモ帳・手帳、メモ、原稿、書類、書籍、雑誌、冊子・パンフレットに分類するとともに、書類については、さらに内容別に、文芸部記者時代、沖縄関係、原爆取材、人事関係、その他、へと細分類することとした。
 ただし大牟田稔氏の経歴を考慮して、特にきのこ会、金井利博、川手健の関係については、形態を問わず横断的に分類・整理することとした。
 以上が作業着手時の方針であったが、実際に作業を開始してみると実に多種多様な資料が含まれていた。このため分類については、数度にわたる修正を行うこととなった。また整理の過程で資料の混入が多数発見されたため、予想以上に作業時間を取られることとなった。

*2 菅真城「広島大学文書館企画展示「金井学校の二人展―平岡敬と大牟田稔―」の記録」『広島大学文書館紀要』第8号(広島大学文書館、平成18年3月)参照。

2.目録作成にあたって

 荒整理の後、分類した資料毎に目録の作成を開始した。荒整理による資料の分類後も異なる形態・内容の資料が多数混在しており、その移動を行いながらの目録作成作業となった。すなわち大牟田氏が1点の封筒に多数の資料が封入している場合があり、異なる内容の資料が混在している場合も多かった。この場合は大牟田氏の意図をくみ、原秩序をできるだけ維持しつつ目録を作成していった。
 書類の場合、初期は整理封筒を分割して枝番号で処理したが、整理封筒の分割をせずに目録の内容欄に詳細な資料内訳を記入して処理する形式へ変更し作業を進めた。その後、作業の効率化のためにさらに内容欄を削除し、内訳資料を枝番号に分割する形へと再変更した。
 このように記述形式が時期によって変遷したため、仮目録の完成時には目録の項目が不統一であった。そこで本目録の刊行に際しては、当然ながら様式の統一作業を行った。ただ、完全に統一出来ない部分もあったため、目録には若干の形式の違いや表記の揺れが残存していることをご留意いただきたい。
 たとえば、書類のうち、枝番号の幹となる資料には、資料全体を綴じていたファイル類を採録したものと、資料全体の概要と枝番号資料の点数などを採録したものの両方がある。
 また、書類以外の資料で 1 点の封筒に多数の資料が混在している場合は、備考欄に添付資料として入力する形で処理した。ただし内容があまりにも異なる場合や添付資料としては多すぎる場合は、枝番号として項目を分割した。
 さて、次に書類以外の資料について整理の概略を紹介しておく。すなわち手帳、ノート、メモは判明する限りの年月日順に配列した。伝言メモなど発信・受信が存在するものは発信者と受信者を目録の作成欄に記述した。
 原稿は、大牟田氏の執筆原稿、大牟田氏以外の執筆原稿、執筆者不明原稿に大きく分類し、その上で原稿の表題によって五十音・アルファベット順に配列した。
 書簡、葉書は荒仕分けした後、一通ごとの目録を作成した。大牟田氏宛、大牟田氏以外宛、差出人不明に大きく分類し、その上でそれぞれの差出人ごとに五十音・アルファベット順に仕分けして判明する限りの年月日順に配列した。
 チラシ・パンフレットは表題によって五十音・アルファベット順に配列した。
 写真は、完全に撮影状況のわかるもの、撮影状況の一部がわかるもの、撮影状況不明なものに仕分けした。個々の写真・フィルムはデジタルカメラで撮影して画像データ化し、目録にはそのファイル名を反映させた。
 書籍は、その内容ごとに地域、戦争・紛争、原爆・被爆、広島文学、ジャーナリズムなどに仕分けし、配列した。
 冊子は、表題によって五十音・アルファベット順に配列した。雑誌は、表題によって五十音・アルファベット順に仕分けし、号数で発行年月日順に配列した。
 整理過程で、整理要項段階には無かった新聞記事、音声・映像資料、物品資料を再分類し、それぞれ配列した。

3. 資料の概要

 次に大牟田文書全体の概要について紹介する。上述のような整理経緯を経て、現在では大牟田文書は次表のように分類・整理されている。以下、大分類の項目にそって説明する。(なお、目録は本冊も含め四分冊で刊行する予定となっている。これについては「収録巻」の欄に示した。)

大分類 小分類 収録巻
1. 書類 (1)被爆者関係
(2)原爆・被害調査
(3)平和関係団体・機関
(4)原爆展・原爆遺跡
(5)原爆慰霊施設
(6)原水禁運動関係
(7)原子力発電関係
(8)原爆報道
(9)平和行政
(10)広島文学関係
(11)中国新聞関係
(12)広島市政・県政関係
(13)審議会関係
(14)韓国・朝鮮関係
(15)教育関係
(16)諸団体関係
資料編1
2. 手帳   資料編2
3. ノート  
4. メモ  
5. 原稿  
6. 書簡  
7. 葉書  
8. チラシ・パンフレット  
9. 物品  
1. 書類 (18)金井利博
(19)川手健
(20)「川手健を語る会」
個別編
2. 写真  
3. 新聞抜粋記事  
1. 書籍   書籍編
2. 冊子  
3. 雑誌  
4. 音声・映像資料  

 

1.「資料編 1」所収資料

(1)書類
 書類は17項目に分類し、採録した。被爆者、原爆、平和に関係する幅広い資料のほか、理事長をつとめた広島平和文化センターの関係資料、梶山季之、山代巴、広島ペンクラブなど広島の文学関係の資料、沖縄の被爆者取材、広島県大百科事典編纂、人事・労組・健保などの中国新聞社関係の資料、審議委員をつとめた各種審議会の資料などがある。特に大牟田氏が事務局をつとめたきのこ会の関係資料は貴重である。
 なお、「きのこ会」および沖縄被爆者関係の資料については、財団法人三菱財団人文科学研究助成(平成19年度)研究成果報告書『被爆地広島の復興過程における新聞人と報道に関する調査研究』(編集・発行:広島大学文書館、平成21年3月)において先行公開しているので、同報告書の解題も参照していただきたい。

2.「資料編 2」所収予定資料

(2)手帳
 手帳として採録したのは、大牟田氏の取材メモ帳、スケジュール帳、日記帳などである。ただ大牟田氏は目的に応じて明確に使い分けていたわけではなく、1 冊の手帳に取材メモ、スケジュール、日記の内容が混在していることも多い。またメモ、新聞の切り抜き、写真、書簡・葉書のほか、取材関係の領収書や交通機関の乗車券などが手帳にはさみこまれ、大牟田氏の取材の様子がかいま見える資料となっている。手帳は途中までしか使用してないものや全くの未記入で資料を挟み込んでいるだけのものもある。

(3)ノート
 ノートとして採録したのは、大牟田氏の取材ノートや大学での講義ノートのほか、日記や雑記などとして使用されていたものも若干あった。ノート毎に厳密に内容を分類して使用しているのではなく、一定期間の事項を多岐にわたって記述しているものが多い。挟み込み資料も豊富で、ノート本体の内容に関連したメモ、取材過程での入手資料・乗車券・領収書、書簡・葉書、写真などが見られる。手帳同様、途中までしか記述が無いものや資料を挟み込むだけの未記入のものも見られる。

(4)メモ
 メモとして採録したのは、大牟田氏の取材メモ、文書の下書きメモや雑記メモ、断簡などで大半の年月日が不明である。メモ帳に記述したもののほか、反故紙や日めくりカレンダーに記した1枚もののメモも多数ある。なお 1 枚のメモに数項目を記述する場合も見受けられ、目録の件名などに反映するよう努めたが、不十分な部分もあると思われる。利用にあたってはご注意いただきたい。

(5)原稿
 原稿として採録したのは、大牟田氏本人の執筆原稿、大牟田氏以外の人間が執筆した原稿で大牟田氏の手元にあったもの、執筆者不明の原稿などである。大牟田氏の原稿では、中国新聞記事・社説の原稿、雑誌への寄稿原稿、講演・スピーチ原稿、編集過程での校正原稿などがある。このうち中国新聞の社説や一面下のコラム欄天風録など論説委員時代の原稿が多く見られる。中国新聞の場合、こうした社説や一面コラムは無署名であるため、
こうした原稿がなければ、大牟田氏の執筆分を特定することは難しい。
 また、大牟田氏以外の原稿では、大江健三郎、小久保均、太田洋子などのほか、平岡敬の市長コメントや平和宣言の草稿などが見られる。いずれも中国新聞や広島平和文化センターの職務の関係で大牟田氏の手許に残ったものと推測される。

(6)書簡
 書簡として採録したのは、主に大牟田氏宛の書簡のほか、電報、FAX などである。宛先が大牟田氏以外の書簡、差出人不明書簡も含まれていた。差出人・内容ともに多岐にわたり、大牟田氏の幅広い活動と交友関係がうかがわれる。
 なお、公人としての大牟田氏の活動を示すため、差出および宛先ともに可能なかぎり肩書き(中国新聞社社員、広島平和文化センター理事長、きのこ会事務局など)を並記するようにした。

(7)葉書
 葉書として採録したのは、主に大牟田氏宛の葉書であり、宛先が大牟田氏以外の葉書、差出人不明葉書も含んでいる。書簡同様に差出人・内容ともに多岐にわたり、年賀状や挨拶状など形式的なものや親族との私信も多く含まれている。

(8)チラシ・パンフレット
 チラシ・パンフレットとして採録したのは、大牟田氏の許に送られた催し物の案内ビラ、署名・支援依頼ビラ、博物館や映画の広報パンフレットなどである。平和・原爆、広島の地域・文化活動など大牟田氏に関係の深いものをとりあげた。

(9)物品
 物品として採録したのは、文書資料以外のかばん、カメラ、印鑑、ネームプレート、パスポート、腕章などである。中国新聞社時代の日本記者クラブ会員証、取材時に使用したと思われるかばん、ボールペン、職務分析士資格証などのほか、川手健を語る会で使用した横断幕、略年譜、写真パネルなどがある。

3.「個別編」所収予定資料

(1)書類
①金井利博
 ここで採録したのは、中国新聞記者金井利博の関係資料で大牟田氏の手許に残されていたものである。金井は『核権力』を著し、原水爆被災白書運動を提唱したほか、広島の文化活動にも深く関与したジャーナリストで、大牟田氏に大きな影響を与えた人物である。金井から大牟田氏への伝言メモや金井執筆の原稿のほか、死後の編集局葬や追悼文集の関係資料などがある。

②川手健
 ここで採録したのは、川手健の関係資料で大牟田氏の手許に残されていたもののうち、第1次整理によって目録化したものである。川手の日記、原稿、メモや川手が結成に関わった原爆被害者の会の関係資料、川手宛の書簡・葉書などが含まれている。これらは「川手健を語る会」に関連して大牟田氏の手許に集められたものと推測される。

③「川手健を語る会」
 ここで採録したのは、川手健の関係資料で大牟田氏の手許に残されていたもののうち、第2次整理によって目録化したものである。こちらは大牟田氏も関わった「川手健を語る会」の関係資料が主であり、会の案内書簡、会で発行された小冊子の原稿、連絡先のメモなどが含まれている。

(2)写真
 写真として採録したのは、大牟田氏の取材・出張などの仕事の過程で撮影された写真、中国新聞の紙面に使われた編集段階の写真のほか、広島県大百科事典編集に使われた写真などである。裏書きなどで詳細がわかる写真は少なく、撮影された日時、人物、場所などが不明なものも多い。

(3)新聞抜粋記事
 新聞抜粋記事として採録したのは、新聞資料の中から大牟田氏が原稿の執筆資料など何らかの意図で特定の記事を切り抜きなどして抜粋したと思われるものである。大牟田氏の幅広い取材・執筆内容に対応してその内容は多岐にわたる。

4.「書籍編」所収予定資料

(1)書籍
 書籍として採録したのは、大牟田氏所蔵の書籍のうち、地域、戦争・紛争、原爆・被爆、広島文学、ジャーナリズムなど大牟田氏の仕事に関係の深いものである。大牟田氏自身が購入したもののほか、その広い交友関係から寄贈されたと思われるものも少なくない。

(2)冊子
 冊子として採録したのは、書籍・雑誌以外の冊子形態の資料であり、主に報告書、ミニコミ、フリーペーパーなどである。中国新聞内部の発行物や広島県内の平和団体・文化サークルの発行物が多数含まれているほか、広島県内への修学旅行に関係した冊子類もみられる。

(3)雑誌
 雑誌として採録したのは、大牟田氏の膨大な所蔵雑誌の中から原爆・平和、広島、マスコミ関係など大牟田氏の仕事に関係の深いものが主である。広島県内の平和団体や文化サークルが発行した同人誌のほか、大学や高校の文芸誌なども含まれる。原爆関係などの特定記事を目的として入手したと思われる単発の雑誌も多くみられる。

(4)音声・映像資料
 音声・映像資料として採録したのは、6㎜テープ、カセットテープ、VHS テープ、CDなどの録画・録音媒体である。RCC の取材録音テープ、テレビ番組の録画テープ、市販のVHS・CD などで、新藤兼人、栗原貞子などのインタビューテープのほか、大牟田氏が平和文化センター理事長としてインタビューを受けた際の録画テープが含まれている。

おわりに―今後の見通し―

 以上、大牟田稔関係文書の整理の経緯とその概要について述べてきた。現時点で約53,000点の資料が確認されている。これらの資料をすべて1冊の目録に掲載することは不可能であるため、本目録では、大分類の書類に含まれる資料14,066点の目録を掲載した。次年度以降、順次目録を続刊し、数年の内に完全公開を実現する予定である。本資料の公開によって、原爆や核をめぐる諸問題、ならびにヒロシマの文学やマスコミに関する研究の一助となることを期待している


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