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解題:広島大学音楽協議会関係文書目録

執筆者

水野椋太

1. 広島大学音楽協議会の概要

 広島大学音楽協議会(以下、音楽協議会と略)は、音楽系サークル(12団体)と放送系サークル(1団体)の計13団体のサークルによって構成されている学生運営団体である。「広島大学及び広く社会における音楽活動及び研究の向上、発展に努めるとともに、音楽を通じて人間向上を図ることを目的とする」という規約のもとで、各サークルが円滑に活動したり大学側との意見交換をしたりするための窓口として、音楽協議会は各所属サークルの代表によって運営されて」いる1。なお、本規約は、「音協規約」と記されたファイルに綴じられた「広島大学音楽協議会規約」第1章総則(目的)第2条にみえる(目録番号:2)。
 また、同規約第3条では、第2条の目的を達成するために、「会員一般への音楽の普及」、「音楽サークル活動の振興」、「学内、学外における演奏及び研究発表」、「その他、本会の目的達成に必要と認められるもの」の4つの事業をおこなうことを掲げており、幅広く音楽活動に取り組むことが条文からうかがえる。
 次に音楽協議会設立の流れについて述べる2。昭和24年(1949)の広島大学開学以前における包括諸学校の文化系学生団体は、広島大学移管後も活動を継続した。各学部・分校に学友会が結成されるのと前後して、さまざまな文化系学生団体が作られ、団体の多くは、教養部学友会に属した。大学紛争の過程で教養部学友会文化部は解体、紛争後には文化系サークルの全学的な連合組織が結成された。なかでも、音楽サークル協議会は全学の構成員を会員資格とする音楽協議会に発展した。
 前述の大学紛争を経て、音楽協議会の設立に至る過程に関しては、「音協とは何か」という題名が付された文書から具体的な流れが確認できる(目録番号:31、ファイル内)。そこには、大学紛争での政治活動を望まない多くの体育系サークルや音楽系サークルは自治会を脱退せざるを得なくなった一方で、単一のサークルでは当局(学生課)と直接交渉することが困難であったため、政治色のないサークルは団結し、音楽サークル協議会の成立に至ったとある。そして音楽サークル協議会は、「サークルの為のサークルによる団体」とされ、当局と連絡を持ち、承認を求め、援助を要請するための団体であった。
 その後、音楽サークル協議会は、フェニックスコンサートなどを企画するものの、実施にあたっては、会員や資金が少ないことが課題であったため、全学会員制に移行した。しかし、特典が少ないなどの理由から会員が思うように集まらず、また様々な企画運営の実施は、運営委員に過重な負担を強いるものであった。
 音楽協議会の規約には、昭和48年(1973)3月1日から施行とあり、この年、音楽サークル協議会から名を変え、音楽協議会が発足した(目録番号:2)。設立から2年目には、①音楽活動の浸透、②会員への音楽の普及、③運営委員会の強化、④協議員会のリーダーシップの強化、⑤サークル活動の強化、サークル間の協調の促進の5点を運営の方針としていたことが確認できる(目録番号:10)。このように設立当初は、様々な企画・目的を掲げ、活動に取り組んでいたが、先述したように運営委員の負担が過重であったため、活動の見直しを伴いつつ運営がおこなわれた模様である。以後、統合移転へ対処するため、サークル間の連携を重視していく活動へシフトしていくが、この統合移転時の動向については、本関係文書の重要な部分を占めるため、3.にて述べることとする。

2. 資料寄贈・整理の経緯

 平成25年(2013)5月7日、学生支援生活グループ主任より電話連絡を受け、同月22日に音楽協議会運営委員長とともに、現状確認をおこなった。資料の内容は、昭和47年(1972)~平成11年(1999)までの音楽協議会事務局の運営関係資料(議事録、アルバム、サークルおよび行事紹介のパンフ、大学への申請など)であり、形態の大半がノートやファイル、分量は書架(180cm)2段分であった。なお、これより古い年代の資料は廃棄されたとみられる。
 また、平成11年以降の資料がほとんど残されていない理由について、音楽協議会運営委員長によれば、現在電子データの形で保管しているとのことであり、紙媒体の文書自体を保存してこなかった可能性が高い。但し、整理・目録作成後には平成11年以降の資料も数点確認された(目録番号:252~254)。資料の受け入れが無い場合は廃棄するとのことであったため、同月30日付で寄贈手続きを取り、当館が確認した資料全点(ブルーケース8箱分)を受け入れる形となった。
 寄贈後、当館で整理・目録作成をおこなった。現状確認の際、資料は無秩序に積み上げられていたこともあり、資料のまとまりが有する意味合いなどは無いものと判断した。そのため整理方針としては、年代順に並べ替え、整理していくこととした。結果、263点の資料が確認され、全点目録化した。

3. 主な内容

 本関係文書は、加盟している音楽系サークルの動向が確認できる貴重な資料である。大きく分類すると、統合移転に関する資料と音楽協議会の運営に関する資料の2つに分類できる。以下では、いくつかの資料を紹介する形を取り、本関係文書からうかがえる音楽協議会の具体的な動向について述べたい。

①統合移転関係資料

 大学紛争を乗り切り、発足した音楽協議会が直面した次なる課題は、広島大学の統合移転であった。このことは、本関係文書の多くがこの統合移転に関するものであることからも、うかがえる。
 本関係文書のなかで最も古いものが、「47~49年.移転前調査等(計画・大学調査)」と付けられたファイルである(目録番号:1)。ファイル内には、昭和47年(1972)9月付の「広島大学キャンパス候補地選定資料」などが綴じられている。なかでも「筑波新大学の生活環境問題」と付けられた資料では、「法人化する学生宿舎」、「管理と地元の事で難航する文化施設」の文言にマーカーで線が引かれており、注目される。ここから音楽協議会は、同時期に設置が進められていた筑波大学の事例を参照するなかで、特に学生宿舎や文化施設の処遇に関心を寄せていたとみられる。
 統合移転構想が具体的に進むと、音楽協議会など文化系サークルは、課外活動施設の処遇を巡り、活動していく。昭和55年(1980)2月22日付の「広島大学統合移転に関する質問書」では、4階建、2800㎡規模の課外活動施設の建設が予定されていることを知らされ、納得していない様子が文面から読み取れる(目録番号:23、ファイル内)。これは、当初文化系サークル3団体で必要面積4300㎡(うち音楽協議会は約2534㎡)を要求していたことに対して、要望通りに行かなかったことによるものとみられ、以後2800㎡の場合における課外活動施設の使用案を検討している(目録番号:31、ファイル内「昭和56年度音協シンポジウム資料」)。また同資料からは、課外活動施設の管理運営について、活動主体である学生側に委ねるべきだという要望を大学側に提出したことがわかる。このように、サークル活動の活動基盤である課外活動施設の取り扱いについて、音楽協議会は所属サークルの意向を取りまとめ、大学側と交渉していた。
 そして、昭和57年(1982)3月に工学部が西条キャンパスに移転したことで、音楽協議会は、西条キャンパスで活動をおこなうため、「西条キャンパス活動委員会」と呼ばれる特別委員会を設けた。これは、音楽協議会の西条支部と位置づけられるものであり、西条においての練習場やBOXの確保をおこなうことを目的としていた(目録番号:62、ファイル内「我楽多ポストNo.6」)。なお、本特別委員会の設置は、音協規約第18条の記載に基づくものである(目録番号:2)。
 また、工学部の移転に伴い、新たな問題が生じることとなった。それは、サークル活動に際してのキャンパス間移動であり、例えば、吹奏楽部は当時、広島市内の東雲で練習をおこなっていたため、西条キャンパスに移転した工学部生は練習の際、東雲まで移動しなければならなかった(目録番号:62、ファイル内「GARAKUTA POST 昭和57年度第7号」)。さらに、同資料内からは、工学部の移転に続き、他学部の移転が進むにつれて、新入生と上級生が分かれてしまい、練習に制約がかかる事態や工学部生に対する交通費支給の問題などの検討課題が確認できる。
 統合移転は、昭和57年3月の工学部移転から13年後の平成7年(1995)3月に全学部移転が完了するが、この間、音楽協議会は前述の検討課題に対処し続けた。また、平成5年(1993)の総合科学部移転は、広島市内と西条の人数比率の逆転をもたらし、新入生のほとんどが西条で生活することもあって、広島で活動する上級生は新入生の勧誘などで苦労した模様である(目録番号:210)。
 全学部の統合移転完了後は、サークル構成員が集まりやすくなったことで、サークル活動が円滑になり、統合移転過渡期にみられた問題のほとんどが解消に向かった。一方で、広島市内の活動拠点を失ったことで、他大学との交流の減少や練習場所確保の問題が生じた。特に練習場所確保の問題は、統合移転構想が持ち上がった頃より、検討が積み重ねられてきた長年の課題であった。統合移転後の状況を見る限り、この問題は現実のものとなり、引き続き重要な検討課題として残されたといえる(目録番号:231)。

②音楽協議会運営関係資料

 本関係文書には、音楽協議会の運営に関する諸資料も多く存在している。これらの資料の内容は、①で述べた統合移転への対応を協議するものも多いが、ここでは音楽協議会の運営のあり方や取り組みの特徴がうかがえるものを紹介する。なかでも、まとまったものとしては、サ活と呼ばれるサークル活動環境局に関する資料があげられる。
 サークル活動環境局は、音楽協議会の組織のうち、運営委員会のなかに設けられた一部局であり、局員は、音楽協議会に所属するサークルから選出された。サークル活動環境局の目的は、「音協に所属する各サークルがその活動を行いやすいように環境を整備すること」であった(目録番号:67)。しかし統合移転が現実的になると、「統合移転問題を各音協サークルの個々の立場からの考えを発展させ、音協全体の問題として考えていくところ」とあるように(目録番号:86、ファイル内「昭和62年度音楽協議会シンポジウム」)、統合移転問題への対処が活動の柱となった。このことは、本関係文書におけるサークル活動環境局の資料の多くが、統合移転問題への対処に関する資料であることからもうかがえる。そして移転完了後には、次なる課題として練習場所確保の問題へ対処していた様子が確認できる(目録番号:246)。
 また、サークル活動環境局の実施する行事に、リーゼミと呼ばれるリーダーズゼミナールがある。本関係文書のなかにも、このリーゼミに関係する資料が多数存在し、それによると、1年間に春、夏、冬の3回おこなわれ(目録番号:110など)、各サークルの代表者や構成員(主に新入生)を対象としていた(目録番号:206、ファイル内「夏リーゼミに関するアンケート2」)。リーゼミの資料を見渡すと、これも統合移転に関する内容が多く、とりわけサークル棟など課外活動施設の使用に関するものが中心である。すなわちリーゼミは、サークルの練習場所問題を各サークル構成員に周知、共有させる場であったといえ、統合移転期のサークル活動環境局の重要な取り組みの一つと捉えられる。なお、リーゼミの配布資料は、漫画やアニメのキャラクターを描いたものも多く、当時の学生の嗜好がうかがえる点で興味深い。

 以上、一部の資料を紹介するかたちを取り、広島大学音楽協議会関係文書を概観してきた。特に、統合移転期の動向について、大学側ではなく学生側の視点からどのように統合移転に向き合ってきたかが、うかがえる点で非常に貴重な資料である。したがって今後、広島大学の歴史を検討する際に、重要な資料となりうるといえ、多くの人々に活用されることを期待したい。

 

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1「広島大学音楽協議会について」(広島大学音楽協議会、http://hirodaionkyo.teacle.jp/about/、最終閲覧日2021年2月22日)。
2広島大学50年史編集専門委員会・広島大学50年史編集室編『広島大学の50年』(広島大学、1999年)。


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