科学・技術・社会の変化に応答する倫理学

岡本 慎平 助教

岡本慎平 助教
人文学プログラム 倫理学

J.S.ミルの科学思想と彼の植物学研究の包括的再検討

 ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill, 1806–1873)は、十九世紀イギリスを代表する哲学者であり、『自由論』や『功利主義』を通じて、現代の倫理学や政治哲学においても頻繁に参照される重要な思想家です。ミルは経済学(『経済学原理』)、政治学(『代議制統治論』)、フェミニズム(『女性の隷従』)など、人文・社会科学の多様な領域でも業績を残していますが、その広範な思想の根底には、経験にもとづく帰納と一般化によって人類の知識を拡大していくこと、すなわち科学の発展が、社会の発展にとって不可欠だという想定がありました。

 ミルは著書『論理学体系』において、自然現象だけでなく、人間や社会のあり方も科学的に理解できるはずだと論じました。もちろんミルが生きた十九世紀と我々の生きる二十一世紀では、世界の状況も科学的知識のあり方も大きく変わりました。しかしそれでも、ミルの思想は、繰り返し読み直されるべき価値をもっています。十九世紀は、近代科学の急速な発展に呼応して、「科学的な知識はどのように成立するのか」という哲学的問題が本格的に探究されはじめた時代でもありました。ミルは世界をどのように捉え、人間をどのように理解しようとしたのでしょうか。そして、その理解の手段として彼が構想した「科学」とは、いったいどのような営みだったのでしょうか。

 私は、ミルの植物学への関心が、この疑問を理解する糸口になるかもしれないと考えています。ミルは十代の頃から死の直前まで、ヨーロッパ各地で植物を採集し、それらを分類・記録し続けました。その成果の一部は、当時の植物学者たちからも重要なものとして認められています。従来のミル研究では、この植物学研究の活動はあまり重視されてきませんでした。とはいえ、実際に野山を探索して植物の観察、分類、記録に取り組んだ経験は、ミルの科学観や人間理解、さらには社会改良の思想を理解するうえで、重要な意味をもつ可能性があります。

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先端科学技術のELSI

 一般に「科学技術」という言葉で一括りにされがちですが、厳密に言えば、科学(サイエンス)と技術(テクノロジー)は異なる概念です。科学とは、世界の成り立ちや仕組みを理解するために真理を探究する営みであり、技術とは、そうした科学的知識を特定の目的のために活用することです。たとえ直接には何の役にも立たなくても真理を追い求めているなら科学でありえるし、何の目的や用途ももたないものを技術とは呼びにくいでしょう。科学による新たな真理の発見は、新たな技術を実現します。そして技術の発展は、それまで「できなかったこと」を「できること」へと変えていきます。
ただし、「できる」ことは、そのまま「やるべき」ことを意味するわけではありません。どのような良薬でも処方を誤れば毒になりうるように、どれほどすばらしい目的をもつ便利な技術でも、それが社会に普及し、誰もが利用できるようになったときに、必ずしも望ましい結果だけが生じるわけではないからです。

 このような問題を考える研究領域は、現在、ELSI(Ethical, Legal, and Social Issues:倫理的・法的・社会的課題)やRRI(Responsible Research and Innovation:責任ある研究・イノベーション)と呼ばれます。新しい科学技術を社会に導入するときには、それがどのような利益をもたらすのかだけでなく、どのようなリスクや副作用を生み出すのか、誰に負担が集中するのか、どのようなルールや制度が必要なのかを考えなければなりません。

 私の研究テーマの一つは、ロボットや人工知能をめぐるELSIです。ロボットやAIは、医療、教育、介護、サービス業など、現代社会のさまざまな分野で利用されるようになっています。しかし、それらを活用する際に注意すべき論点は、テクノロジーの種類だけでなく、それが用いられる状況によっても変化します。たとえば、高齢者介護で使われるロボットと、飲食店で料理を運ぶロボットとでは、配慮すべき倫理的問題は同じではありません。新しいテクノロジーをただ受け入れるのでも、むやみに拒絶するのでもなく、その可能性と限界を見極めながら社会のなかでどのように用いるべきかを考えること。それもまた、現代の倫理学にとって重要な課題の一つです。

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ビデオゲームの倫理学

 人間の活動のあり方が変われば、それに応じて、これまでの倫理では十分に扱えない新たな領域が生まれます。それは、ロボットやAIのような先端科学技術に限りません。ビデオゲーム(コンピュータゲーム)もまた、新たな倫理的考察が必要となる領域の一つです。

 ゲームをめぐる倫理的問題の一つは、ゲーム内でおこなわれる行為をどのように評価すべきかという点にあります。多くのゲームでは、暴行、殺害、窃盗、器物損壊など、現実であれば許されない行為が日常的に描かれます。そのため、このような活動を遊びとして楽しむことには倫理的な問題があるのではないか、という批判が向けられることがあります。
他方で、「ゲーム内で人を殴ること」と「現実で人を殴ること」は明らかに異なります。ゲームの中では、現実では許されない行為がルールや物語の一部として認められている場合があります。そのため、ゲーム内で何をしても現実の倫理とは別問題であって、どのようなゲームをプレイしても倫理的問題はない、ゲームはあくまでゲームにすぎないのだ、という考え方にも一定の説得力があります。

 しかし、ゲームは本当に倫理の治外法権なのでしょうか。ゲームの中で可能なことは、すべて許されるのでしょうか。私は、ゲームにも一定の倫理が必要だと考えています。球技や格闘技のようなスポーツに、称賛されるべきプレイと非難されるべきプレイがあるのと同じように、ビデオゲームにも望ましいプレイとそうでないプレイがあるはずです。
たとえば、FPSなどの対戦ゲームで、倒した相手をさらに撃ち続ける「死体撃ち」や、相手に見えるように挑発的なエモートを繰り返す行為、侮辱的なメッセージを送る「煽り」などは、たとえシステム上可能でも立派な行動とは言えません。また、ソフトウェアの改造、チートツールの使用、規約に反するハードウェアの隠れた使用などは、ゲームの公正さを損なう倫理的不正です。ゲーム内の行為であっても、他者との関係や公正さを損なう場合には、倫理的非難の対象になるでしょう。

 ゲームをめぐる倫理は、ゲーム内の行為だけに限られません。ゲームの制作、広告、ゲーム画面の配信やその視聴のすべてが、新しい倫理的課題を含んでいます。ビデオゲームが世界的な文化となった現在、ゲームを単なる娯楽として片づけるのではなく、人間の活動や社会的関係を形づくる重要な場として考える必要があります。

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掲載日 : 2026年7月21日


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