メールマガジン No.43(2011年5月号)

リテラ友の会 メールマガジン No.43(2011年5月号)
2011/5/30 広島大学大学院文学研究科・文学部
    
□□目次□□
1.新任教員挨拶
2.今月のコラム~サンタバーバラの風に吹かれて
3.橋本敬司先生を悼む
4.文学研究科(文学部)ニュース
5.広報・社会連携委員会より
      
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【1.新任教員挨拶 】
  
○ 歴史文化学講座准教授 太田出  
 2011年4月1日に着任しました太田出(おおた・いずる)と申します。広島大学はまだ右も左もわからぬ状態にありますが、慌てずゆっくりと慣れていき、教育・研究に邁進していく所存でございますので、よろしくお願い申し上げます。
  
 広島大学に赴任する以前は、大阪大学大学院文学研究科(東洋史学)で博士(文学)号を取得した後、助手2年間、その後、神戸商科大学(後に兵庫県立大学と改称)商経学部の准教授を10年間勤めました。広島大学・東洋史学の前任の故岡元司先生は、小生にとって兄貴分のような存在であり、陰に日向にいろいろご指導を賜って参りましたが、残念ながら一昨年の10月ご逝去なされました。そして御縁もあってか、このたび故岡先生の後任として歴史文化学講座(東洋史学)の准教授として採用されることとなりました。それは極めて光栄であると同時に、本当に故岡先生のようなすばらしい研究者の後継となれるのか、心配もまた付きまとってきます。しかし院生・学生に時に厳しく、時に友人のように優しく接してあげることがご遺志を継ぐことになると思い、全力を傾けていく所存であります。
  
 小生の専門は中国近世史でございます。大学院生時代には2年間、中国北京にある人民大学清史研究所に留学し、毎日を故宮博物院に所蔵されている公文書(档案)類との「にらめっこ」で過ごしました。現在では文献史料のみによらず、フィールドワークによるインタビューをも取り入れながら、中国農村の有り様を総合的に描出しようと務めています。今後は広島大学のために少しで多く貢献していきたいと考えております。皆さま、どうぞよろしくお願い申し上げます。
  
○日本・中国文学語学講座准教授 川島優子
 この春より文学研究科(日本・中国文学語学講座)に着任いたしました、川島優子と申します。中国の白話小説、特に『金瓶梅』という明代に作られた長編小説を研究しています。『金瓶梅』というと、森鴎外の作品にも「机の下の読み物」として登場するほど「淫書」のイメージが強い作品ですが、なぜ私がそんな作品を研究することになったのか、お話しさせていただきたいと思います。
  
 『金瓶梅』をはじめて手にしたのは、大学三年生の頃、まだ文学部が東千田にあった頃のことです。中国の古典文学は、そのほとんどが男性の手によって作られたものですが、そんな男性による男性のための文学に登場する中国の「悪女」は、日本人の感覚からするとあまりにも「むごすぎる」「ありえない」という印象がありました。そこで中国文学における悪女像について調べてみようと思い、「稀代の悪女」と称される『金瓶梅』の女主人公・潘金蓮に注目してみることにしたのです。
  
 ところがいざ『金瓶梅』を繙いてみると、そこに描かれていたのは、従来の中国文学に見られる悪女とは明らかに一線を画した悪女の姿でした。ところどころ、涙が出そうになった場面もありました。悪女に感情移入している私…。悪女に限らず、それまでに中国の古典を読んで、そこに描かれている女性に感情移入をするというようなことはありませんでした。これは一体何なのか。私個人がたまたまそう感じたにすぎないのか、もしくは「作者」がそのような描き方をしているからなのか。潘金蓮像について書かれた先行研究は山のようにありましたが、私の疑問に答えてくれるものはひとつもありませんでした。自分自身で答えを探すしかありませんでした。
  
 そもそも中国文学に描かれる女性というのは、ある意味たいへんわかりやすい形象を持っているように思われます。悪女なら悪女、良妻賢母なら良妻賢母という、どこかパターン化された女性描写というものがあると言ってもいいかもしれません。しかし『金瓶梅』に描かれているのは、そうした枠をはみだした重層的な女性たちの姿でした。そしてそれは決して結果論ではなく、『金瓶梅』は最初からそのような女性たちを描くことを意図して作られた作品だったということが、その後の研究を通して見えてきたのです。
  
「女性をどう描くか」という視点から見ると、『金瓶梅』は中国文学における転換点にも位置づけられる作品だといえるでしょう。『金瓶梅』の百五十年ほど後に誕生した『紅楼夢』という作品は、中国を代表する文学作品として今なお絶大な人気を誇っていますが、その『紅楼夢』とて、『金瓶梅』の(もっと言えば『金瓶梅』の女性描写の)影響を受けて作られた作品のひとつです。
  
 『金瓶梅』は江戸時代に日本へやってきました。伝来当初から「淫書」として扱われてきたと考えられていた『金瓶梅』ですが、江戸時代に作られた資料を詳細に調べてみると、当時の日本人にたいへん学問的な態度で読まれていたことがわかりました。中には、読書会を開き、音読をしたり文法の解説を加えたりと、上級者用の中国語のテキストとして『金瓶梅』を読んでいた人たちもいました。『金瓶梅』が「淫書」として定着するのは、曲亭馬琴以降、明治時代に入ってからのようです。
  
 最近ではこのようにもっぱら日本における『金瓶梅』の受容について研究を行っていますが、『金瓶梅』最大の魅力はなんと言ってもその重層的な女性描写にあります。これからの研究人生において、大学三年生の頃のあの感動とわくわく感を忘れることなく、その魅力を発掘し続け、皆さんに伝えていければと思っています。
  
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【2.今月のコラム~サンタバーバラの風に吹かれて 比較日本文化学講座教授 河西英通】 
  
  
 総合人間学講座の河西です。3月下旬から米国のカリフォルニア大学サンタバーバラ(UCSB)に来ています。サンタバーバラはロサンゼルスの西北、クルマで約2時間のところにあります。アメリカには何度か来ていますが、西海岸は初めてです。「カリフォルニアの青い空(It never rains in California)」という曲をご存じでしょうか。かなり以前のヒット曲ですが、まさにその通り、こちらに来て40日以上が過ぎたというのに、傘をさしたことがありません。広島以上の青空です。キャンパスは太平洋に面し、授業の合間にサーフィンに興じる学生もいます。広大と同様に学生の移動手段は自転車ですが、フラットな地形ゆえ、スケートボードの利用者も大勢います。ほとんどがキャンパス内の寮や、Isla Vistaと呼ばれる学生街のアパートから通っているなか、安い家賃を求めて、バスで一時間もかかる町に住む学生もいるようです。
  
 こちらでは毎週木曜日の午後、日本学を専攻する博士課程後期の学生向けに日本のナショナリズムに関するゼミを開いています(スポンサーは国際交流基金とUCSB )。前もって文献を添付ファイルで送り、読了を前提に約3時間ディスカッションするというスタイルです。受講生の日本語能力は低くありませんが、かなりハードなようです。というのも、アメリカの学生はしょっちゅう本を読んでいます。食堂でもバスのなかでも、とにかく本を開いています。ある学生は毎週700ページ読まなくてはならないと悲鳴をあげていました。こうした状況にさらに日本語文献が加わるわけですから、大変でしょうが、私は情け容赦なく毎回約50ページ(少ない?)の日本語テキストを送りつけています。
  
 さて、3月11日の東北大地震に私たちは大きな衝撃を受けましたが、こちらでも日本人学生会などが休みなく募金活動を行っています。私もささやかながらお手伝いをさせてもらい、5月3日夕方から開かれたAmerican Indian Student Association主催のパネルディスカッション「Japan Aftershock and Energy Colonialism in Our Indigenous Communities」のパネリストとして、地震発生後今日に至るまでの日本の情況、エネルギー政策と地域社会の問題などについて発言しました。
  
  他のパネリストであるチュマシュとアパッチの方からは、リザベーションにおける環境破壊、現代資本主義における人権破壊などを告発する発言がありました。あらためて21世紀社会が抱える共時的課題を突きつけられた夜でした。この様子はビデオ化されますので、後日、ご覧いただけるかと思います。前日の5月2日には来学中のハーバード大学のアンドリュー・ゴードン教授(日本史)と地震による史料損失・保存運動について意見を交流することも出来ました。今回の東北地震が国際的問題であり、復興と再生を世界が注視していることを思い知らされました。
  
 ところでUCSB (州立大学)も日本の国立大学法人と同じような財政難にあります。研究室の電話は取り除かれ(抗議の意味も込めて糸電話が各室を結んでいます。もちろんジョークですが)、給与も平均8%カットされたようです。他の州ではテニュア制を廃止する大学も出てきそうだとも聞きました。「もはやUniversityではなく、Factoryだ」との嘆きの声が耳に残ります。
  
 しかし、ここの学生たちは元気です。先日行われたAssociated Students(学生自治会)の会長選挙はなかなか活発で、立会演説などもやっていました。アメリカ流草の根民主主義のトレーニングといえるでしょう。大いに勉強もするが、週末のパーティも賑やか。日本でUCSBといえば、青色発光ダイオードの開発者中村修二氏が有名ですが、私が所属する歴史学部も全米州立大学ではトップクラスです(大学自体のランキングも上位です)。厳しい環境にはあるが、有能な教授たちの熱い指導のもとで、日本学の若き学徒が育っています。素晴らしいUCSBから広大が学ぶ点は少なくないでしょう。6月下旬に帰ります。報告会も計画しています。
  
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【3.橋本敬司先生を悼む】 
  
 病気治療中でありました橋本敬司准教授が、平成23年5月16日(月)お亡くなりになりました。享年51歳という若さで突然に天国へ旅立たれました。謹んで哀悼の意を捧げます。
 ここに、生前の橋本先生を偲ぶべく、市来津由彦先生にご執筆いただいた追悼文を掲載致します。
  
『橋本敬司先生を悼む』応用哲学・古典学講座教授 市来津由彦
 本年4月以来療養中であった中国思想文化学分野の橋本敬司先生は、5月16日午後10時30分頃、永眠された。同19日12時より告別式がおこなわれ、先生の御霊は時間を越えた世界へ旅立たれた。
  
 中国思想文化学分野では2月15日に予餞会をおこない、その時点では先生は明るく談笑しておられた。その予餞会散会後に違和感があったとのことで何回か検査をし、卒業式前日、分野の野間文史教授と市来に、なお検査中ということと新年度前期を先生の療養にあてるための対策を立ててほしいとの要請の連絡があり、両名は急遽、授業関係その他の策を立てて療養に専念していただくようにした。3月末に先生は一度来校されて、山内研究科長と野間教授に会われ(市来はやむを得ざる用事で不在)、その後、療養に入られた。市来は、半年、一年単位で今後の展開を安直に楽観的に想像しており、しばらくしたらお見舞いに行こうなどと身勝手に思っていたところへの、ほとんど突然の訃報であった。
  
 橋本先生とのはじめての出会いは、1998年に市来が広島大学に配置換となったその5月の日本中国学会中国四国地区学会であった。翌年、橋本先生も中国思想文化学講座(当時)に配置換となり同僚となった。それからの長くも短いほんの一瞬の12年であった。
  
 ひとりの先生の身の中に何人かの橋本先生がおられた。明るいさわやかな笑顔で学生に対する橋本先生がおられた。頑固でかたくなな橋本先生がおられた。なにごとにも一生懸命でひたむきな橋本先生がおられた。時には惑う橋本先生がおられた。分野の教育と学生指導においては、分野教員は3名でいつも情報を報告し検討しあっていた。勉強面、生活面での学生の多様化の中で、これでいいのかと戸惑い迷いながら、3人は卒業生、修了生を送り出し続けた。卒論、修論では結果としては先生が一番多く指導にあたられた。教育面でも生活面でも、学生をはさんでの問題では学生の心にふれるゆえに逆に情緒的であってはならず、同僚という立場は、信頼はあっても原理的に友人というものにはなりにくい「協力者」というものだが、橋本先生は充分以上によき協力者であった。深くよく応えてくれていた。これからも応えていただけるはずであった。
  
 奥様の話では、最期に、大学へ行くべく着替えようとされたとのこと。先生の御霊がもはや時を越えた世界で微笑んでおられるのは言葉の上ではわかっているのだが、わたし市来の魂魄は、つい一週間前まではいたはずの、かならずや復帰するはずの、はずであったこの協力者を追いかけて、今、むなしく彷徨っている。これまでの、そしてこれからあるはずであった日々を思い、…ただただ残念である。
  
 橋本先生は、研究面では難しい課題に果敢に挑戦しておられた。
 中国思想文化学と名乗っているわが分野は、科研費研究の分野分類では「中国哲学」に対応する。江戸時代以来の漢学世界と明治近代の接触、そして近代主導による前者の改変、近代の視点との融合としてこの分野は形成された。この形成事情をひきずり、戦前は広義のこの分野の研究の一部は「国民道徳」発揚や「国体」論とも関わりを持った。その反省のもとに戦後のこの分野の研究は始まったが、近代の言葉を使用して語るその言葉の「近代」性の吟味という根本にまでは及ばないままのところがあった。
  
一方、西洋思想において20世紀になり言語論的転回と呼ばれる事象が起こり、近現代哲学の再吟味がなされはじめ、80年代以降、その動向が日本語母語者知識人教養世界にも翻訳を通して一定程度普及した。橋本先生はこの問題に多大の関心を寄せられたようで、先生の研究の全体軌跡は、中国思想を今に語る言葉を検討し、さらに対象たる中国古代思想の言葉そのものの吟味に向かわれようとしていたように見受けられる。
  
 90年代はなおその意欲がやや先行するもののように今からすれば見えるが、中国戦国時代の資料について、90年代の半ばに、近代の思想史研究をかなり書き換える可能性がある革命的ともいえる出土資料の発見が中国でなされ、伝世の文字資料の言葉がゆさぶられるこの状況に対し、先生も00年代に入り深い関心を払っておられたようであり、テキスト文字と言葉に密着して吟味する目、また先行研究を検討する力量が、近年、格段に鋭く豊かになられていたように見える。
  
さらに、この90年代末からはインターネットとメールが研究の開示と連絡のツールとして普遍的に機能するようになり、日本の従来の一国内「中国学」的な研究枠組の有効性がどんどん希薄化し、中国、台湾、欧米の研究者との国際的交流が、ほとんど突然にだが、ごく普通のこととなった。そうした国際交流の場に参与すると、中国、台湾あるいは欧米の研究には、中国哲学の現代的意義といった課題に強い関心があり、日本の従来の研究動向とは、良し悪しということではなく、異なる部分があるのが見える。
  
 西洋現代思想と共振しつつ吟味するという当初の思索を深めつつ、研究対象資料の革命的変化と研究環境の変動という、以上に述べた潮流に邂逅された橋本先生は、00年代後半にはまさに魚が水を得たがごとくに、研究交流の場を台湾、北京、韓国、米国に広げてご自身の中国古代思想研究の成果を発信し、また国際的環境の中で研究課題を思索するようになられた。先生が海外出張から帰られる度のひとこと談話を立ち話で研究室で聞くのが、わたしには楽しみになっていた。この3月末に中国学の全国学会組織である日本中国学会の企画で、「中国学の新局面」と題する第1回若手シンポジウムが開催され、先生はその企画委員になっておられた。それは、以上の活動の様子をみていた学会に依頼されたものであろう。
  
 こうした10年の活動の全体がそろそろまとまる段階となり、この4月からは申請していた個人の科研費研究も新規採択となり、まさにさあこれからというときの悲報であった。野間文史教授のご定年を目前にして、研究の面でも前述した研究室運営の面でも、たがいにいよいよ真の「協力者」と成るべく力を合わせていこうというその矢先のことであった。
  
 広島大学の人生をともに生きるはずであったこの協力者の、唐突に見えなくなったその背中を追いかけて、わたしの魂魄は、やはり彷徨っている。しかし、今はこう言わねばなるまい。わたしばかりではなく、えにしを結んだ皆とともに。
 ほんとうにありがとうございました、橋本敬司先生。 2011年5月23日 謹んで記す。
  
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【4. 文学研究科(文学部)ニュース】
  
○「白熱教室JAPAN」が広島大学にやって来る!  
 NHK教育テレビでお馴染みの「白熱教室JAPAN」の収録が広島大学大学院文学研究科で行われます。
【収録日】 平成23年6月26日(日)
【時間】 13:00~16:15(開場12:00,開演12:30)
【場所】 文学研究科B204大講義室(リテラ) [広島大学東広島キャンパス内]
【テーマ】 「ヒロシマで正義とケアを編み直す」
【講師】 東京大学大学院 教育学研究科教授 川本隆史(かわもとたかし)氏
【進行】 NHK広島放送局 伊東敏恵(いとうとしえ)氏 
  
  →詳しくは、文学研究科HPをご覧ください。

○講演会「現代文学における広島と長崎」講師:作家・田口ランディ
【日時】2011年7月20日(水)午後(12:50~16:05)
【場所】文学部 B204号教室(リテラ) [広島大学東広島キャンパス]
  
  →詳しくは、文学研究科HPをご覧ください。
  
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【5.広報・社会連携委員会より 井内太郎】
 
「端午の節句 ~ 柏餅vs 粽(ちまき) ~」
  
柱のきずは おととしの
五月五日の 背くらべ
粽(ちまき)たべたべ 兄さんが
計つてくれた 背のたけ
  
 この歌詞、一度は口ずさんだことがおありでしょう?中山晋平作曲 『背くらべ』の歌詞です。しかし、考えてみますと、なぜ端午の節句に「粽」を食べるのでしょうか。この日に「粽」を食べると答えた人は、もしかすると関西出身かもしれません。なぜなら、関東では「粽」よりも、「柏餅」が親しまれているからです。
  
 そもそも平安時代に中国から端午の節句が伝来した時に、「粽」を食べる習慣も伝えられ、全国に広がっていったと言われています。「粽」とは、一般に餅団子を茅(ちがや)という木の葉で包んだものですが、いまからおよそ2300年前の中国の詩人である屈原に因む故事に由来しており、魔除けの意味があります(興味のある方は調べてみてください)。その後、江戸時代に「端午」が五節句のひとつとなった際、江戸では柏餅が広まり、こうして関西の「粽」文化と関東の「柏餅」文化ができあがっていったのです。
  
 柏餅の「柏」は、神社で「柏手を打つ」という言葉からもわかるように、いにしえより神聖な木とされてきました。また端午の節句に餅を柏の葉で包むのには、人々のもう一つの願いが込められています。柏の葉は、新芽が出ないと古い葉が落ちないという特性があって、これを「子供が生まれるまで親は死なない」=「家系が途絶えない」という縁起に結びつけ、「柏の葉」=「子孫繁栄」という意味を込められることになったのです。
  
 今だからこそ、日本の子供たちを守り育て、古き良き日本文化の伝統を彼らに継承していって欲しい、そのような思いをこめて「端午の節句」についてお話ししてみました。本年もメルマガなどを通じて、文学研究科の「知の営み」の情報を発信し、皆様とともに知的財産を共有できればと思っています。本年もよろしくお願い致します。 
  
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オーナー:広島大学大学院文学研究科長  山内廣隆
編集長:広報・社会連携委員長  井内太郎
発行:広報・社会連携委員会

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