第60回 “prayer is not enough”

 「祈りをもっと集めよう。」

 ダライ・ラマ法王のタイムズ誌への投稿のタイトルです。ここでの「祈り」は仏法修行者としての祈りだと思います。ダライ・ラマ法王はご自身を「釈迦の沙門 ダライ・ラマ」と称されます。これは釈尊の説かれた仏法を、出家して修行する者であることを意味します。
 
 仏法修行者の祈りは、懺悔と感謝から、すべての人々が一人一人自らの悪因(不徳)により悪果に苦しむことなく、善根を積み善果を得、仏法との縁を得てそれを成就させることを願うものです。

 それはあらゆるものの動きが縁起の法に従い、苦しい状況があるのはその苦しみのもととなる原因があるからであり、その因を助長する縁が引き寄せられて現状を生み出すとします。縁起の法は理の法門です。

 悪因があっても縁が生じなければ悪果は生じないとも言えますので、仏法では「縁」を重視します。その縁がどのような性質のものであるのかを掴むことは、それが自分の持つ因と結び付いていかないようにする上で大事でしょう。ダライ・ラマ法王が「自分は宗教家だと見られるが、科学者の眼を持っている」と述懐されると聞きますが、このような意味かもしれません。

 新型コロナウイルス感染拡大についても、縁起の法に照らして見れば、このウイルスが縁です。ウイルスの感染の態様等を見ることで、いかなる因を助長するのかがわかりそうです。最近の新聞記事によると、新型コロナウイルスは細胞の防御を乗っ取って感染していく、つまり、さらなる感染を防ぐためにウイルスを排除すべく免疫機能が働く際に不可避的に生じる現象に乗じて新たな感染が起こるそうです。

 誰もがこのウイルスに感染しておかしくはない感染拡大(・蔓延)段階では、できる限り人との接触を減らし、三密を避け手指殺菌消毒(手洗い)を頻繁に丹念に行いマスクをする等の予防対策を徹底させた上で、このウイルスが縁とならないようにその動きとは異なる方向の意識を行動とともに表すこともあってよいのではないでしょうか。免疫機能はもちろん不可欠の生命機能です。しかし、願いとしてみると、自分自身が生き残るという「自分だけが」という欲求でしょう。

 そこで、自分が感染しないようにと願う折りに、家族が感染しないように、自分の友たちが感染しないように、有縁無縁の皆さんが感染しないように、また、感染された皆さんが早期に回復・治癒されますよう願いましょう。ダライ・ラマ法王や釈迦の沙門と一緒に祈り、すべての人々に回向するのも1つです。

 一方で、内田樹『サル化する世界』(文藝春秋)を読んでいて、2つの指摘にハッとしました。倫理が「他者とともに生きるための理法」であり、「この世の人間たちがみんな自分のような人間であれと自己利益が増大するかどうかを自問すればよい」とされた後で、

 「渋滞している高速道で走行禁止の路肩を走るドライバーは他のドライバーたちが遵法
  的にじっと渋滞に耐えているときにのみ利益を得ることができる。全員がわれ先に
  路肩を走り出したら、彼の利益は失われる。だから、彼は『自分以外のすべての人
  間が遵法的であり、自分だけがそうでないこと』を、つまり、『自分のようにふる
  まう人間が他にいない世界』を願うようになる。」

 また、学校に競争原理を持ち込むと、同学齢集団内部での相対的な優劣を競うことから、周囲の学力を引き下げる努力の方が費用対効果が高いとされるなかで、

 「みごとなほど知的な会話をしていない。」「そうやってお互いの知的リソースを富
  裕化するという作業はまったくしていない。おしゃべりの内容は、『そんなこと知
  っていても、試験の点数が1点も上がることのない話題、話し相手の知性が少しも
  活性化しない話題』に限定されています。もう、みごとなほど。無意識にやってい
  るんですよ、そういうことを。同学齢集団の競争相手たちの知性が活性化すること
  を本能的に回避しようとしている。そういうことを社会全体でやっている。」

 確かに周囲を見てみると、そのような行動が目につきます。あらゆる人に博く愛しき心を持つどころか、自分自身の生命力や知的エネルギーを削ぎ落とすことを無意識的にであれ欲するような行動をとるというのは、縁起の法に照らすと本当に怖いことです。

 新型コロナウイルス感染終息後の社会がどうあるべきかとして、他者への配慮を軸に自らの行動を戒め助け合うことが提唱されますことは、明日への大いなる希望です。


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