第69回 広く浅くの錯覚と画一化への執着による輪廻

法科大学院での学修が自分自身の学習法とは違うことに気づかなかったために、ひたすら頑張ったのに成果につながらず自信を喪失しかかったという声を聞きます。

「自分が経験した受験勉強というのは、試験に合格するために勉強するのだから、それに必要なことのみをやればいいと割り切っていた。しかも、試験時間は問題数に対してかなり厳しい設定となっているから、その場で考えるというより、同種・同根の問題練習で得た解法を速やかに再現して正解を導くことが重要だと言われ、そういうものなのだと思った。それが受験戦略的勉強なのだと。」

「初めは、どうしてこう解くのだろう、なぜなのかと考えることもあったけど結局わからないし、そのうち勉強に追いついていくのに追われて、1つ1つの問題にあまり時間をかけられず、解き方を覚えていくのが精いっぱいになり、むしろ考える時間が無駄でもったいないと思った。いくつもの科目について試験に出そうなところをつぶすといっても、結構、網羅的なので、これをカバーするには、記憶量にも限界があるから必要最小限の情報に絞り込み、解法や結果を覚えて、広く浅く勉強するほかないです。」

「これは受験勉強だけだろうと思っていたけど、大学に来てからも、授業科目はいろいろたくさん履修しなければならず、単位を取るための学習は一夜漬けとかこれまでの学習をもっと先鋭化させたものにならざるを得なかった。受験戦略が単位修得戦略になっただけで、やっていることは同じこと。このための受験勉強だったのかと思った。」

受験を重ねてきた学生は、小学生の頃から塾に通い、試験に対する学習法を無意識的に刷り込まれて当然のことと思い込んでいるところがあります。受験合格などの成功体験を得たと感じていることから、何か重要なステップを省いていないかと疑問を持つことがないほど馴染んでしまっていることもしばしばです。

大学教育が「広く浅い」ものとなっているとの批判があります。広く浅い勉学と受験向け学習とが結びつくと、広く浅いだけに結論とおぼしきものがすぐそこにあるように見えるので、それに手を伸ばしつかみ取れば勉学が終わると思うようです。試験においてはつかみ取ったものをそのまま投げ返す(=正解と思うものを迅速に再現する)ことも容易です。試験で高得点できてしまうと、結論をそのまま記憶しただけなのに「わかった」「理解した」気にさせてしまいます。高等教育が学修の落とし穴になりかねません。

他方、法科大学院の教員からも、学生が法曹を目指すのであるから論理性を重視する学習姿勢を修得していることを前提に、これに磨きをかけ、ここというところで意味をとことん追求する学修を実践したかったのにという嘆きを聞きます。

授業には、どう考えたのかというプロセスよりも、結局どうなるのかと終着点ばかりを確認したがり、結論を簡潔にまとめて答案に書けるように教えてほしいという貪り・驕り・愚痴に何らかの妥協をするものも現れます。

教える側も学習する側もお互いに不満足な状態に陥るため、ともに学ぶ愉しみや悦びはいつの間にか消えてしまいます。人間関係までギスギスしがちです。

学生の中には、身についた学習法によって得た知識を器用に整えて、問題事例等に合わせて修正し、論理的な思考プロセスとして示すことができる者がおり、実際、司法試験にも合格しています。そのような学生は学習の巧みさを自覚していることが多いので、それを修正しようとするアドバイスを拒絶あるいは強く抵抗します。学習の修正は本人が納得したうえで実践・反復することが不可欠ですので、本人がその必要に気づかずそれなりに満足しているのであれば、しばらくは無理に干渉せず見守り、次の機会が来るのを待ちます。

法科大学院は専門職「大学院」ですので、学びの姿勢を見直して、より思考を深め、原理を探り、統合を目指す学修を体験して欲しいと考えています。この学修体験がなければ、司法試験合格を目指すだけの受験産業と(量的な差があるだけで)変わらなくなってしまうでしょう。

これまでの学習法を全く否定するものではありません。ただその学習法に止まっていてはプロフェッショナルにはなれないので、学びの機会を見つけ学習体験を得ることで、学修法へと進化させて欲しいのです。将来法曹として活動していくのにもう1つ2つ壁を越え飛躍してほしいと期待する学生には、プロセス重視の学修法(=論理展開プロセスを論理の積み重ねとして1つ1つ批判的に分析し検証することを繰り返し、これを通じて学修の転移と省察の思考癖を修得するよう導くこと)を、方法論としてではなく、一緒に実践しながら学ぶ機会を設けます。

「そういえば正解と思しきものを無批判に受け入れているなあ」と気づけばよいのですが、「自分は十分に考えている」、あるいは「そのような疑問をもって論理を追うのも、そもそも疑問を持つのも自分には無理で、やはりこれさえ書けばどんなときでも大丈夫というものを探して覚える方が向いている。」として学修法としては切り捨てられることも多いのが現実です。気づきを得た学生も1、2年間でプロセス重視の学修法を修得するのは時間が足りないようで、途中で諦めてしまう学生もあります。これは非常に残念です。もっとうまくこの学修法を修得させられる工夫はないかと考えています。

                                        To Be Continued.


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