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第70回 広く浅くの錯覚と画一化への執着による輪廻(続)

学修法は、各自の人生をより豊かに知的刺激にあふれたものとするために、学びの機会を活かして智恵を得ていく手段だと考えています。学びが人の器を大きくします。器量が大きくなった分だけ、より幅広くより深く考えられることから、より多くの知見を得ることができます。今までは気づかなかったり見逃していたりしたことなどに目が留まり、それが新たな学びの機会を提供します。このチャンスを掴むか逃すかは学びの主体の力量に依ります。

「一合マスで一升は計れない」と言われる通りです。学びの機会に多くを得られるはずであるとしても、その人の器を超えるものは溢れてしまって、器相応の分のみがその人に残るだけです。勉学の成果を問うのは、どれだけの点数が取れるかというペーパー試験対応の学力を確認するだけではなく、それ以上に学びの器量がどれくらい成長しているのかを観ることでもあります。

何かの目的を達成するために必要と思うところで器を閉ざしてしまえば学びもそこまでです。自分は器量がそれなりにあるとのうぬぼれがあれば、学ぶべきことはすべて学んだとしてやはり器を閉ざしてしまうでしょう。学びは、所定の目的あるいは自己満足のレベルで終わってしまい、もっと多くを学べたのではないかという反省にはつながらず、学びの深化は期待できません。

慢心は慚も愧も失わせます。慢心は徳を積む振る舞いも不徳をまき散らす行為に変えてしまいます。行為者は徳を積んでいるつもりですからますます慢心が強くなっていきます。まさに悪循環です。人間の態度は長所か短所かの一方に決まって評価されるのではなく、長所とみられるか短所とみられるか(例えば、やるべき行動が明らかであるにもかかわらずすぐには動かないことが慎重と言われるか鈍重と言われるか)は、その人の徳分がそのいずれかに見せるのです。徳があれば長所と見せます。不徳が積もれば短所と映るので、人心は離れるでしょう。

それゆえ、不知の知は貴重です。自分の器量に気づかせるソクラテスメソッドは学ぶ者の姿勢を正す意味でも有益な学修法だと思います。常によりよくあることが求められるプロフェッショナルは、知を深める学びをいつでもどこでもなす知恵を修得していなければならないでしょう。その修得の前提として自らの行動を省察する謙虚さと反省の技法が必要です。

法科大学院も大学院として、学生一人一人に対して、学びの姿勢を見直して、より思考を深め、原理を探り、統合を目指す学修を体験させようとする場合、学生それぞれのこれまでの学習経験や思考の癖などを見ながら、どうすれば学びを深める学修体験を積むこと(その前段階として物事を鵜吞みにせずに疑問を持って検証することなどを指導することが必要になっているのですが)ができるのかを考えます。当然、学生によって学びを深める学修体験に誘うプロセスは違ってくるので、個別指導を行い、取り上げる事例が違いますし、同じであっても取り上げる順番を異にすることもしばしばです。

しかし、どうもこれに違和感を覚える学生が多いのです。一方で、「画一化」信仰とでもいうのでしょうか、皆と同じように教わっていなければ安心できないようです。他の学生の学習プロセスが自分と違う場合に、隣の芝生が青く見えるのでしょうけれども、自分が劣位にあるという妄想に苛まれるようです。学びを深める学修体験を得、重ねることが重要なので、それを優先するプロセスを作っているのですが、学生には「違う」ということが不安を招いています。刷り込まれた学習経験は頭での理解を超えて、学びを変えていくことに心情的なハードルを生み出してしまいます。

他方で、個別指導が当たり前と素直に応じる学生もあるのですが、そこでは受験勉強において個別指導を受けていた経験が支えになっているようです。なんだかんだと理由をつけて門をくぐることができないよりはありがたいのですが、これはこれで、すべてをこちらに預けて、完全なるスプーン・フィーディングを求めてきます。学びは自らが主体的に活動することで得られるのに、言われたことを言われたとおりに行うだけでは困ってしまうのですが、教える側の苦悶など気にしていない様子です。

学びを深める学修プロセスでは、広く浅く学習させることもありますが、それは個々バラバラに見える知識から原理を探し「統合」させることを意図しています。しかし、ここでも個々バラバラに見えるにすぎない知識をまさにつなげることなく覚えてしまって、得意げな様子を見せます。

これまでの学習経験が、学びを深める学修経験を積むのに支障となっているのです。ただ、学生も自らの主体的な選択によってそのような学習を修得したわけではなく、それとは違う学修のプロセスを見る前に学習姿勢を刷り込まれ固められてしまったともいえるので、被害者的な側面もあります。諦めず投げださずに続けるしかありません。

次回は「省察(2)」です。

 


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