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第72回 アプローチ①―「わからない」を実感し疑問を生み出す―

 法科大学院の授業では、双方向・多方向型の授業進行がベースとされています。受講生と担当教員とのソクラテスメソッド、あるいは受講生同士の議論がなされることで、論理的に自らの考えを展開し、他者の見解を聞きながら、論理のゆがみや飛躍等がないかを検証し、その論理性に対する感性を高めていきます。

 同時に、コミュニケーションとして、自らの主張を他者に理解してもらうためには、何が必要であるのか,どこが足りないのかを考え、立場を変えて相手の立場で説明を見直し工夫する説得の技法を学んでいきます。

 しかし、実際の教育の場がこれらの成果を上げ、受講生がさまざまな知恵を獲得するのはかなり難しくなっているように思われます。それは、受講生が司法試験の答案に書ける正解を授業に求め、思しきものを見つけると、それに満足して安住しようとすることに一因があるのではないかと考えています。勉強が効率的で迅速であるべきと知らず知らずのうちに思い込み(または思い込まされ)その学習姿勢を取り込んで(または刷り込まれて)、あるいはペーパー試験で高得点を取ることを勉強の唯一の価値と見て、丸をもらうことにばかりを目指すように意識づけられて、疑うことや考えることなく知識の授受に応じていく癖がついていることが多々あります。

 情報が氾濫するなかでは、ネット上で検索すればほとんどの問題に対する回答が瞬時に見つかりますので、正解を求めて授業を受けることも時間のロスと考えさせることとなります(もともと正解を提示しない授業は聞くに値しないようです)。必要な情報をとらえ適切に選択することがポイントとなりますが、それは「わかりやすさ」がフィルターとなり、わかりやすければそれをそのまま受け入れています。無批判に知識(情報)が授受され、認知バイアスがかかることもあるようです。学びを学ぶうえで、なかなか超えがたいハードルです。

 受講生のなかにこのような学習傾向をもつ者があることに気づくと、釈尊が、不徳をそれとわかっていて行う場合と、それを知らずに行う場合とでは、どちらが問題かと問われた法話を思い出します。不徳を不徳と知りつつ行う方が問題だと考えたのですが、釈尊は、熱した鉄を素手で触るときにそれを知らないがゆえに大やけどを負うという例を挙げて、知らずに行う方がその不徳から身を守ることなくその害にさらされると説かれています。この勉強方法が自らの学修姿勢にどのような影響を及ぼすのかを考えることができない頃から、それを是として強いられれば、学びの骨の髄まで染みこんで、それが当たり前のこととして何も考えずにそのような勉強を繰り返してしまっていることが「大やけど」なのかと思うこともあります。

 大やけどを負っても痛みがあるわけではないですので、その状態から抜け出す必要性が感じられず、むしろ安住してしまっているように見えます。ソクラテスメソッドは、安住が「わかったつもり」にすぎないことを明らかにするために対話を重ね、問答法により真理を共同探求することで、自らを吟味することが生きることであると認識させる方法論だともいえるでしょう。ソクラテスメソッドが機能しているのかどうかは、その相手方が、わかったつもりになっているところから一歩踏み出し、何かが変化することによって、正解と思しきものも普遍性を失い、必ずしも十全なものではなくなることを認識し、「わからない」と自覚しつつ、どこがわからないのかを考え、それを疑問として形成し、質問するようになっているのかどうかだと思います。

 ソクラテスは、自らの思惟活動によって生み出された知識のみがその人の真の知識だという信念を持っていたので、智慧の助産術とも呼ばれる、対話による真理の探究を可能としたと思います。

 本年もあと4日となります。毎年このころには、多くの課題が残されていることに気づいてがっくりとするのですが、それでも胸を張って顔を上げて一歩一歩前に進んでいくのだと、自らの運の良さを信じて、鼓舞しています。

 本年も、多くの皆さまからご支援、ご助力を得て、本学法科大学院における法曹養成プロセス教育をより一層充実させるよう努めてまいることができましたことに感謝申し上げます。

 2022年が皆さまにとって輝かしく麗しい1年となられますことを祈念申し上げます。


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