解題:粟屋敏信関係文書目録

執筆者

小池聖一

 粟屋敏信氏は、広島市出身の建設官僚・政治家であり、広島大学の包括校である旧制広島高等学校、および広島高等師範学校附属中学校のご出身である。本関係文書は、粟屋氏の東京都文京区音羽のご自宅に、平成一七年(二〇〇五年)八月、石田雅春(現文書館助教)とともにお伺いし、粟屋氏ご自身から広島大学文書館に寄贈していただいた。
 以下では、関係文書の内容等を概観する。なお、粟屋敏信関係文書については、寄贈後、「仮目録」状態で公開していたが、利用者の利便性を考え、今回、本目録として再編集するとともに解題を付した。
 粟屋敏信関係文書は、五五年体制崩壊の当事者による貴重な歴史資料である。建設事務次官から政界に身を転じた粟屋氏は、宮澤自民党内閣不信任投票に賛成し、新生党に参加。その後の新進党成立と分裂のなかで太陽党政調会長に就任したが、新「民主党」には参加せず無所属となった。政治改革の時代にあって粟屋氏は、実務能力をもった政治家として活動し、一方で、政策本位の立場を貫いた行動をとった。
 本関係文書とともに粟屋氏の行動は、二大政党制が定着したかのように見える平成二三年現在の日本政治に、また、これから起こるかもしれない政界再編にも多くの示唆を与えるのではないか、と考えている。

1. 粟屋敏信関係文書

 本関係文書は、粟屋敏信氏の公的履歴にそって生成されたものである。日誌およびスクラップブックの一部は、建設省時代、官房長・事務次官時代のものが所蔵されている。これは、建設省時代の秘書が作成したものである。それ以外の日誌・スクラップブック、書類は、建設省事務次官退官後政治家に転身され、政界を引退するまでの公的記録として基本的に東京事務所で作成されたものである。日誌の一部および書類には、粟屋氏自筆の文書も含まれており、粟屋氏の政治活動が理解できる内容となっている。
 基本的に、本文書は、原秩序にそって、「1.日誌類」「2.スクラップブック」「3.書類」の三つに大きく分類している。その上で、時系列に目録化したものである。
 本格的な関係文書の内容に踏み込む前に、粟屋氏の自伝『激動の時代に生きて』(平成一七年、私家版、以下自伝と略記)にそって粟屋敏信氏の御経歴について概観する。
 粟屋敏信氏は、大正一五年(一九二六年)七月二十五日、父信夫、母行代の次男として、広島市大手町に生まれた。父粟屋信夫は、教育者であり、小学校校長を歴任し、浅野図書館長を務めた。小学校時代は、広島県一の健康優良児であり、広島高等師範附属中学校・広島高等学校時代に、剣道・サッカーに熱中した。しかし、戦時下の厳しい高校生活のなか、級友との友情は、被爆により亡くなった恩師・国文学者であった中島光風の名をとった同窓会「光風会」のもとで戦後も続けられた。
 昭和二十年四月、東京帝国大学法科大学政治学科に入学するも、四月末に召集され第五師団第二部隊(対戦車砲部隊)に配属された。八月六日の広島への原爆投下時は、高知湾沿岸で陣地構築作業に従事していた。敗戦後、帰郷。父信夫は被爆し、のちに白血病がもとで亡くなっている。その後、東京大学に復学し、昭和二三年九月に卒業し、建設省に入省した。
 建設省では、総務局総務課に配属され、福岡県庁に出向、地方行政を経験。建設省復帰後は、河川局水政課、大臣秘書官、首都高速道路公団総務部人事課長、内閣法制局参事官となり、昭和三六年、内閣法制局参事官時代には、新河川法案の作成等に従事した。そして、建設省にもどり、昭和三九年、河川局水政課長・総務課長として、新河川法施行にあたった。昭和四三年に大臣官房会計課長、翌年人事課長となり、建設省の政策官庁としての機構整備をおこなった。計画局参事官をへて、田中角栄内閣「日本列島改造」構想の具体化のため設置された、国土総合開発推進本部の首席部員となり、国土総合開発三法案(国土総合開発庁設置法案、国土総合開発公団法案、新国土総合開発法案)の作成にあたった。この三法案は、第一次オイルショックの発生のため審議が進まなかったが、昭和四九年五月から六月にかけて、新国土総合開発法案は国土利用計画法に、国土総合開発公団は地域振興整備公団に、国土総合開発庁も国土庁として国会で可決され、成立・設置された。粟屋氏は、昭和四九年六月二六日に設置されたこの国土庁初代官房長に就任している。
 田中首相がロッキード事件で退陣を余儀なくされ、成立した三木内閣の国務大臣国土庁長官に就任したのは金丸信であった。政治家との関係という点で粟屋氏は、自民党田中派との関係が密であった。昭和五一年六月、建設省官房長に就任、その際の建設大臣も田中派の竹下登であった。
 この建設省官房長以降の経歴については、「2.日誌」の項目のなかで、粟屋氏の活動を確認しつつ述べることとする。基本的に、本粟屋敏信関係文書は、この官僚時代、官房長時の昭和五二年一月一日以後から日誌は始まっている。
 以下では、関係文書の紹介、特に日誌を通じて、粟屋氏の活動について概観することとしたい。

2.「1.日誌類」

 「1.日誌類」は、時期的に建設省官房長・事務次官時代と、代議士を目指して活動を行った時期に再分類できる。以下では、この二期に分けて概観することとしたい。

(1)代議士以前

①建設省官房長・事務次官時代

 この官房長・事務次官時日誌の形態的特徴は、A4判の大学ノートに和紙でカバーが施され、確認のためか、各ページの角が切り取られていることである。
 建設省時代の日誌は、秘書が作成したものであり、住宅公団問題に関連した会議が多く入っている。そして、毎日のような国会議員、知事等の陳情を受けている。大臣の行動および大臣へのレクチャーにも多くの時間がさかれている。
 昭和五二年(一九七七年)十一月十三日の朝日新聞記事に端を発し、通常国会で問題となった地方建設局による会計検査院ご馳走事件については、「11/13(日)朝日新聞」と記載され、十一月十四日の午前九時十分、翌十五日に本問題で質問にたった社会党矢田部理議員を参議院社会党控室に事前に訪ねていることが記載されている(AT010100200)。
 この日程表は、官房長としての公的記録であり、自伝にあるドイツ・ボンで行われた第四回サミット後、高橋弘篤事務次官とともに粟屋官房長が福田赳夫首相に官邸に呼び出され、大型補正予算となる公共事業の拡大を指示されたとあるが(自伝、九六~七頁)、本日程表では確認できなかった。日程表の密度は、高いものではないが、建設省における当該期の政策的重点を、調整を行う粟屋官房長の動きから理解することができる(AT010100300)(AT010100400)。
 昭和五四年七月十七日、粟屋氏は、渡海元三郎建設大臣によって事務次官に任命される。残念なことに昭和五四年七月十七日から、昭和五五年三月三十一日までの日誌は所蔵されていない。このため、事務次官就任時の動きについては、わからないが、官房長時代に引き続いて住宅公団の家賃値上げ問題、住宅・都市整備公団の創設等が事務次官時代の重要な課題であった(AT010100500)。事務次官時代は、事務次官会議が日程の中心にあることも理解できる。昭和五五年七月二十九日以降は、昭和五六年度概算要求に関する記述が増えている。昭和五五年七月二十九日・三十日、八月五日には、建設省概算要求事務次官・技監等説明および重点施策に関する幹部会議が行われ、八月八日に大臣説明、九月十一日に大蔵省主計局長説明のための次官レクチャーが行われている。そのうえで、九月十六日に大蔵省主計局長説明が行われている。懸案であった道路問題については、十月一日に大臣説明がおこなわれている。十二月二十四日の復活要求省議、二十六日の次官折衝も確認できる(AT010100500)。
 この間、広島県三次市-廿日市市間道路を国道四三三号線としての昇格をめざす豊平町長等の陳情もおこなわれている(昭和五五年十月七日等、AT010100500)。
 昭和五六年一月一日から実質的に六月五日まで記述されている日誌は、秘書が作成した日誌ではなく、粟屋氏個人の日誌である(AT010100600)。このためか、正確な時間等は記載されていない。形態も、A4判ノートから、A6変型の「GOLFDIARY」となっている。
 粟屋氏は、昭和五五年七月末以降(昭和五五年六月の総選挙以降となる)、灘尾弘吉代議士日野溝秘書と頻繁に会談しており、同時に、竹下登代議士および金丸信代議士との会談も行っていることから、政治家への動きを強めていたと理解できる(AT010100500)。日誌では確認できなかったが、当該期、広島出身事務次官が三名いた(大蔵事務次官田中敬、文部事務次官井内慶次郎、この三名とも広島高等師範学校附属中学校出身であった)。内務官僚出身であった灘尾後継に、官僚出身者がふさわしいとされ、この三名で会合を開いて粟屋氏を後継とすることとしたとされる(自伝、一一二頁)。昭和五六年日誌では、地域有力者との会合等、灘尾後継としての立候補を念頭に置いた記事が増えており、その動きが加速されていたことが理解できる。特に、日野溝秘書との連絡頻度が、一週間に一度から二日に一度の割合へと増えている。事務所と後援会設立のため広島に行く機会も増えている。

②政治家をめざして

 昭和五六年六月十日、粟屋氏は、建設事務次官を退任し、本格的に政治家にむけての活動を始めた(しかし、昭和五六年六月十日から、昭和五八年三月十四日までの日誌は残されていない)。この間、日本商工会議所会頭永野重雄を会長とする後援会を設立し、広島と東京に事務所を構えた。同時に、広島第一選挙区内各市町村に後援会作りをすすめた。
 残された日誌は、選挙区活動を行っていた昭和五八年三月十五日から十二月十三日までの「Diary」であり、粟屋氏の直筆で、一日一頁、時間も記載された日程表となっている(AT010100700)。形態は、B5判の大学ノートである。ただし、四月二日から四月二十二日、六月二十四日から七月十四日、七月十九日から八月二日、九月六日から九月二十一日、九月二十八日から十月二日、十月十四日から二十九日までのように記載がない部分もおおく、それ以外でも飛び飛びに記載されており、毎日記載されていたわけではない。灘尾後継としての準備に関する記述が散見され、竹下登・金丸信との連絡が頻繁に行われている。東京事務所と広島事務所との間を往復。東京では、選挙区内市町村関係者・企業および関係省庁の関係者との会談が重ねられており、日野溝秘書との連絡もほぼ毎日行われている。しかし、灘尾後継としての準備を進めつつも、灘尾弘吉の引退表明が十月にずれ込んだため、表立った地元での活動が困難であったことも、東京事務所との往復という選挙活動となった背景にあると考えられる。そして、この昭和五八年十二月四日、総選挙が公示され、灘尾後継として無派閥で最初の選挙戦に臨んだ。しかし、十二月十八日に行われた投票の結果は、広島市内の運動不足と田中ロッキード事件判決の影響もあり、当選まであと約四千票、一〇五、一〇七票の次点にとどまり落選した。
 昭和五九年一月四日から昭和六〇年一二月三十一日までの日誌・「スケジュール表」(AT010100800~AT010101700)は、東京事務所の秘書により作成されたものである。形態は、A4判の大学ノートである。記述は、東京事務所が管轄していた東京での粟屋氏および夫人の行動管理を中心としている。このため、広島事務所での行動に関する記載がないため、記述は大半が空白となっている(この日程上の空欄は、粟屋氏が地元選挙区での活動量を示すものでもある)。飛び飛びとなっている。「スケジュール表③」(昭和五九年五月二十一年~八月五日)(AT010101000)には、後に粟屋敏信著『明日への道標』(新国政調査会、一九八五年)として出版される書籍の企画が添付されている。出版日程は、自民党総裁選との関係から設定され、また、出版記念パーティや、選挙前にPR用のビラとしても使える(「今回:大原亨→「社会保障の話」の活用が眼についた。(どこへ行っても貼ってあった!)」との記述がある)、とされている。東京事務所は、竹下登と連絡をとり、創政会の人脈を使った後援会作りをサポートしていた。具体的に、橋本龍太郎の講演とセットとなった粟屋敏信医師後援会の発会式や、竹下登の時局講演会(昭和六〇年九月十三日)等が行われている(AT010101600)。また、「来訪者日誌」(AT010101800)は、昭和六〇年一月より、東京事務所への来訪者に関するメモであり、名刺が多数貼付されているが、その多くは建設業関係者である。
 昭和六一年に入ると総選挙の機運が濃厚になってきた。このため、東京事務所で作成されている本日誌のほとんどが空欄状態となっている。これに対して、広島事務所での活動は、活発化しており、昭和六一年四月一日および五月一日の部分に挿入されていた広島事務所の日程は、集会・総会および春子夫人を中心とする婦人会活動も含め、スケジュールは埋め尽くされている(AT010200100)。なお、この日誌から、大学ノートではなく、A4判のラッキー印「GLORIANOTE」が使用され、代議士時代を通じて使用された。
 同年四月一日には、広島県議・広島市議の状況に合わせて、粟屋氏のために竹下登大蔵大臣が懇談会の席を設けている。五月二十五日には竹下登大蔵大臣を中心とした時局講演会も広島でおこなわれている(このスケジュール表も添付されている)。
 そして、昭和六一年六月二日、臨時国会が召集され冒頭解散となった。日誌にも「臨時国会召集 解散 14:12 衆議院議長サロンにて解散」との記述がある(AT010200100)。そして、六月九日、自民党本部にて公認証書を受け取り、六月二十一日の告示、七月六日の衆参同日選挙が開始された。日誌は、七月一日から二十一日まで、実質的には、六月二十二日からの部分が空欄ないし、日誌自体存在しない。選挙関係の書類として別途作成されたためと思われる。七月六日の投票結果は、一六八、二〇一票のトップ当選であった。

(2)代議士時代

①自民党時代

 代議士となり、粟屋氏が初登院を果たした昭和六一年七月二十二日から始まる日誌は、活動の中心が東京に移ることとなったため、記述が充実している。
 日誌は、同じ筆跡で二冊作成されている。一冊は東京事務所用、もう一冊は粟屋氏が確認用に所持していたものと考えられる(平成四年よりは、東京事務所用のみ所蔵)。
 粟屋氏は、社会労働委員会に所属、陳情者も官僚時代と異なり、私企業関係者、広島地域の自治体関係者が中心となっている。また、金曜日に地元入りし、月曜日に東京に戻って来る、金帰月来の一週間を送っている。活動の中心が東京に移ったため、金曜から日曜日の行動予定についても記入等がある。また、この日誌では、各種代議士会・委員会・部会・集会・勉強会の日程が組み込まれる中、「上京」「出」「欠」「代理」「電報」「済」等の判が付いている。「上京」とは、地元市町村長・議員等の来訪者に対してのものである。衆議院の建設委員会に入らなかったが、自民党政務調査会内の建設部会等に必ず出席している。日誌からは、自民党政務調査会の各部会に積極的に参加していることが理解できる。添付資料には、「62年度予算編成の日程」、中曽根行政改革の目玉であった「国鉄改革特別委員会への国対委員会応援体制」とともに、「道路財源確保陳情計画」「粟屋敏信先生激励と国会見学参加者」等地元との関係のあるものも多く挟み込まれている。昭和六一年十一月二十一日には、老人保健法等の一部を改正する賛成討論のため本会議の檀上にたっている。特に臨時国会会期末の予定は、過密である(AT010200200)。
 昭和六二年七月四日、竹下派「経世会」の旗揚げに粟屋氏は参加する(AT010200600)。七月二十八日には、経世会第一回政策局会議(座長は小渕恵三)に出席している。この七月以降、日誌には三日に一日の割で経世会の会合が開催されていたことがわかる。そして、中曽根裁定により、次期総裁が竹下登に決まった十月二十日、粟屋氏は、当日予定されていた会合等に参加せず自民党本部で見守り、その夜は竹下邸に行っている(AT010200600)(AT010200700)。
 竹下登は、十一月六日の第百十臨時国会で内閣総理大臣に指名された。この時期、間接税の導入が焦点となっており、粟屋氏も自民党税制調査会に参加している(この間接税は消費税として昭和六三年六月十四日、自民党は税率3%消費税導入の税制抜本改革大綱を決定。政府は、消費税導入等六法案を提出し、十二月二十四日に成立している)。
 昭和六三年には、交通安全対策特別委員会で昭和六三年五月十二日(AT010201000)と十月十二日に質問を行っている。後者では、潜水艦なだしお事件を取り上げている(AT010200900)。中国自動車道三県同盟会の陳情や、可部バイパス整備促進等の道路整備関係の陳情も受けている。
 昭和六四年一月七日、昭和天皇崩御、皇太子明仁親王の即位とともに、元号が十四時三〇分、「平成」と決まったことも記入されている。粟屋氏は、十五時すぎに弔問記帳のため宮殿「北溜記帳所」に向かったが、その際の「○弔問記帳について」と「自動車標識」のコピーが日誌に添付されている(AT010201200)。一月十九日、午後二時三〇分、平成元年度予算、大蔵原案が内示されたため、二〇日と二一日の両日は、三〇分刻みで自民党の各種部会・議連・委員会等に出席している。粟屋氏は、一月二一日の拝礼の儀、二月六日の殯宮の儀、二月二十四日の大葬の礼に参列している。
 四月二十五日、日誌には赤ボールペンで「※11:30記者会見 竹下総理退陣表明」とあり、同日の午後二時、経世会の緊急総会が開かれ、粟屋氏も出席している。そして、四月二十七日、予算委員会で自民党単独採決により平成元年度予算が採決された。四月二十八日、衆議院本会議で単独採決が行われた。
 平成元年七月二十三日、第十五回参議院選挙は、リクルート事件等による政治不信、社会党・マドンナ旋風により、自民党は惨敗した。粟屋氏も、七月五日の出陣式以来、投票日まで基本的に広島選挙区に張り付いていた(AT010201400)。同様に、平成二年二月十八日投票の二期目の選挙についても、社会党大原亨の引退、秋葉忠利の出馬、公明党から参議院議員塩出啓典の出馬により激戦となったため、一月三日から基本的に選挙区に張り付いている(AT010201600)。粟屋氏は苦戦したものの、二期目の当選を果たした。
 粟屋氏は、バブル経済にともなう地価高騰問題について、衆議院予算委員会で平成元年十月十三日に質問に立ち、十二月十四日の土地基本法制定にも関与。平成二年二月二十七日の第百十八特別国会では当選二回にもかかわらず予算委員会委員となっている。
 平成二年八月二日のイラクによるクウェート侵攻に始まる湾岸戦争に対して、粟屋氏は、日本が安全保障面で責任を分担すべきであるとの持論を、平成三年二月二十一日に衆議院予算委員会の一般質問で述べている(AT010202000)。この湾岸戦争および佐川急便事件にともなう金丸信自民党副総裁の議員辞職に伴う政治不信の増大、そして、経世会の亀裂が顕在化し、政治改革を目指して粟屋氏は、羽田・小沢グループに属し、「改革フォーラム21」に参加した。粟屋氏は、キャピタル東急で行われていた「小沢派」の会合に出席していた。日誌で最初に確認できるのは、平成四年十月二十六日午後七時であり、翌二十七日午後七時には翌日の経世会総会を前にした「小沢派緊急総会」がキャピタル東急で開催され、粟屋氏は、出席している(AT010202500)。その後も、連日の羽田・小沢派の各種会合に出席。粟屋氏は、「改革フォーラム21」の規約作成にも関与した。「改革フォーラム」の文字は、平成四年十二月十一日に「12:00 出21世紀改革フォーラム 意見交換会(愛知サロン)」との記述が最初であり、十二月十八日午前九時、キャピタル東急にて羽田孜を代表とする「改革フォーラム21」の結成式を迎えた(AT010202500)。「改革フォーラム21」の活動は、平成五年一月十一日、羽田代表の街頭演説が新宿西口バスターミナルで始まり、勉強会も精力的に行われた(AT010202600)。粟屋氏は、衆議院予算委員会・憲法調査会、厚生労働委員会とともに、「改革フォーラム21」の各種会合、勉強会(小沢一郎と二回生議員の懇談会)等に参加している。また、四月二十四日には、羽田代表一行の広島講演会を行っている(AT010202600)。そして、六月十八日、宮沢内閣不信任案への対応をめぐり、「改革フォーラム21」では、午前八時と午後零時に全体会議が開催され、午後五時の緊急総会で不信任案賛成を決め、午後六時半からの本会議で粟屋氏は不信任案賛成の投票を行った。結果、宮沢内閣不信任案は可決され、衆議院の解散となった。粟屋氏は、六月二十二日に自民党を離党。翌二十三日の新生党結成とともに、その一員となった(AT010202600)。

②新生党時代

 平成五年七月十八日開票の総選挙では、苦戦を強いられ、最下位で当選。八月六日、細川連立内閣が成立。粟屋氏は、地方行政委員会委員長に選出された。新生党時代の日誌は、自民党時代と比較した場合、次の諸点で特徴がある。第一に、当初、自民党時代の部会がなくなったため、各省の官僚が直接面会に来ている(AT010202700)。建設省関係者以外、粟屋氏が地方行政委員会委員長であるため、自治省および大蔵省会計課長との面会が多い。部会システムは、平成六年にはいってから、新生党内に設置され、復活している。粟屋氏は、この部会に網羅的に参加している。第二に、党務も、自民党時代は自民党党務と閥務があったが、新生党の党務のみとなっている。第三に、粟屋氏への陳情は自民党時代と大差ないが、県知事・市町村長が直接面会に来ていること。第四に、メディアの取材が増加している。第五に、自民党時代より、夜の会合が減少している。反面、予算編成に関する各省官僚の訪問は頻繁である(AT010202700)。第六に、平成六年に入ってからは、連立与党内の各党政策調整会合が増えている(AT010202800)。日誌から粟屋氏は、細川連立内閣において中心課題であった政治改革調査会へは地方行政関係に限定して参加し、予算を中心とした実務面を担当していたことが理解できる。また、広島県選出の代議士として、原爆援護法プロジェクトチームへの出席率は高い。平成六年四月八日の細川首相の辞意表明にあたっては、各マスコミよりの取材が多かったことが伺える。四月二十五日、羽田孜内閣の発足にあたっても、マスコミ取材が多いが、日誌には、新会派「改新」の結成に至るような会合については記されていない(AT010202800)。そして、平成六年六月二十三日の羽田内閣不信任決議案をめぐり、六月二十四日の日誌には「24日~29日禁足令」との赤ボールペン字での記載がある(AT010202800)。そして、六月二十五日に羽田首相の辞意表明。村山内閣が成立している。
 新生党が野党となったため、日誌の記載量は減少している(AT010202900)。平成六年十月二日から十六日まで行われた広島アジア競技大会で、粟屋氏は推進国会議員団の座長を務めていた(AT010202900)。粟屋氏は、平成六年十二月十日の新進党の結成に参加した(新生党は十二月九日に解党)(AT010202900)。

③新進党時代

 小選挙区制度にもとづく二大政党制を強く意識した新進党であったが、日誌のなかでは、粟屋氏の仕事の中心は、地方行政委員会であった。
 一方、粟屋氏は、灘尾弘吉の後継として日華親善に熱心であった。新進党でも、平成七年二月二十八日、日華議員連盟の設立に関与している(AT010203100)。また、平成七年七月二十三日に行われた第十七回参議院選挙では、菅川健二元広島県教育長を推した。菅川氏の名が日誌に最初に見えるのは、平成七年五月十八日である(AT010203100)。この間、平成六年および平成七年十二月の新進党党首選挙で、粟屋氏は、羽田党首実現に向けて努力したが、実現できなかった。
 平成八年十月二十日、初めての小選挙区選挙が行われ、粟屋氏は当選している。翌十月二十一日、粟屋氏は、帝国ホテルで行われた羽田孜グループの会合に参加(AT010203300)。その後、毎日のように羽田グループの会合が行われた。そして、政党助成法との関係から、十二月二十六日、粟屋氏素案による結党宣言にもとづく、太陽党の結党をみたのであった。太陽党は、衆議院議員十名、参議院議員三名、合計十三名でのスタートであった。

④太陽党時代

 粟屋氏は、太陽党において政務調査会長に就任。NHKの日曜討論等に出席し、多忙となった(AT010203400)。平成九年は一月から民主党との政策会議があり(一月十六日。週一回、定期化している一月二十九日)、橋本自民党内閣の予算案に対する新進党との協議会・懇談会も頻繁に開かれている(新進党との協議会も二月十日の協議会より定期化している。ただし、七月以降、日誌には両党との協議会の記述は見られない(AT010203500)。粟屋氏は、二月四日、予算委員会で代表質問も行っている。二月五日の箇所には、「平成9年度各省庁所管の予算説明日程」が添付されている。三月二十七日、太陽党として羽田党首とともに、沖縄米軍基地の使用継続問題で視察を行っている。粟屋氏は、「日米安全保障条約の実施に伴う土地使用等に関する特別委員会」で特別委員に就任し、質問を行っている。太陽党は、特別措置法の改正案に賛成。安全保障政策について太陽党および粟屋氏は、日米安全保障の新ガイドラインでも賛成の立場にあった。また、財政構造改革の推進等に関する特別委員会委員として、医療保険改革についても質問を行っている。平成九年十二月二十七日の新進党解党に伴い(AT010203500)、一月六日から、六党政策会議および三党政策会議に参画し、六党間で院内会派「民友連」をスタートさせるとともに、平成十年一月二十三日、太陽党・国民の声・フロムファイブで民政党を結党した。その際、粟屋氏は、政策担当者として政策のすりあわせを行い、日曜討論では「民主友愛太陽国民連合政策責任者会議座長」として出席している。

⑤民政党から無所属へ

 粟屋氏は、民政党・民友連の政策担当者として各種政策会議に参加していたが、民政党内では自民党に対抗するため民主党との統合を目指す動きも顕在化していた。粟屋氏は、三月十八日午後四時からの統一準備会(元大蔵大臣久保亘座長)、組織・規約・財政作業委員会等に参加している。そして、平成十年四月十三日、院内統一会派「民主党」が届けられたが、粟屋氏は、佐藤恵氏とともに、新「民主党」に参加せず、無所属となることを、四月二十三日午前十時半からの記者会見であきらかにした(AT010203600)。新民主党は、四月二十七日午後四時に統一大会を行った。日誌には、「欠」との判が押されている(AT010203600)。
 無所属となった粟屋氏の日誌は、記載量が減少している。属していた文教委員会、憲法調査委員会推進議連の日程の他、佐藤恵や、民主党に参加した代議士との会談が記載されている。特に、羽田孜や、畑英次郎との関係は、日誌を見る限り継続していたと考えられる(平成十年七月二十二日、AT010203700)。同様に、竹下登との関係も続いていた(ご夫人が挨拶伺いをしている)。一方で、粟屋氏は、無所属の会合に参加している(五月二十一日、AT010203600)。この無所属の会合には、粟屋氏の他、園田博之、笹木竜三、土屋品子、中田宏の五人で構成されていた。自民党に対する関心も高く、平成十年七月二十四日の自民党第十八代総裁に小渕恵三が選出されたことを投票数ととともに、赤ボールペンで日誌に記されている(AT010203700)。無所属となった粟屋氏は、より地元・広島に対する活動を強め、岸田文雄自民党代議士、斉藤鉄夫公明党代議士等、広島県選出の国会議員との交流も盛んに行っている(岸田文雄、斉藤鉄夫両代議士との「三人会」が度々開かれている)。平成十一年一月三十一日の広島市長選挙では、大田晋氏を応援し、秋葉忠利氏に敗れている。この選挙では、粟屋氏の依頼で、羽田民主党幹事長、菅民主党代表の応援演説が行われている(AT010203800)。

⑥「無所属の会」時代

 総選挙にむけて公職選挙法で不利となる無所属議員の間で対策が協議された。日誌では、平成十一年十一月十六日、山王飯店での会合が確認できる(AT010203900)。この動きは、参議院の無所属議員で構成された参議院クラブとの連携・合流となるが、参議院クラブ代表の椎名素夫議員とは、十一月二十九日にTBR313号室で会談している(AT010203900)。その後も断続的に会談がもたれ、十二月十四日、新政党「無所属の会」が発足、十六日に記者会見が行われた。
 「無所属の会」議員として、また、代議士としての最後の選挙は、平成十二年六月二十五日の総選挙であった。自民党の檜田仁氏を抑えて当選している(AT010204000)。
 この選挙期間中の六月十九日、竹下元首相が亡くなり(粟屋氏は、七月二十九日の島根県掛合町立体育館で行われた合同葬に参列している。AT010204100)、当選後、自民党からの誘いもあったが、無所属の会に粟屋氏はとどまった。
 平成十二年十一月二十日の「加藤の乱」・森内閣不信任決議案提出にあたっては、粟屋氏に各方面から電話、面談、取材が行われていることが理解できる(AT010204100)。粟屋氏は本会議を欠席。平成十三年三月五日の不信任決議も粟屋氏は、棄権している(AT010204200)。
 平成十三年四月二十六日、小泉純一郎が首相となるなか、粟屋氏は引退を決意し、その後継として平口洋氏を推すこととした。後継者となった平口氏とは、平成十一年八月二十八日、予算説明で会っていることが日誌に出ている(AT010204100)。それ以降、断続的に会っていることが確認できる。平成十四年三月二十九日、広島リーガロイヤルホテルで平口洋後援会の発足にあたって粟屋氏は実質的な後継指名の挨拶をしている(AT010204400)。平成十五年九月三十日午後三時、広島全日空ホテルにて、正式の引退表明記者会見を行った(AT010204700)。そして、平成十五年十月十日の衆議院解散とともに、議員生活に終止符をうったのであった。
 無所属の会時代、粟屋氏は、憲法改正、安全保障問題に関心を寄せ、靖国問題としての国立追悼施設に反対するなど活動を行っている。

3.「2.スクラップブック」

 粟屋敏信関係文書のスクラップブックは、大きく二つに大別される。一つは、「(1)総選挙関係」と題した選挙関係のスクラップブックであり、選挙の趨勢に関する新聞等の記事をスクラップしたものである。いまひとつは、「(2)その他」として分類しているが、事務次官用および出身の建設省関係のスクラップと、太陽党成立に関するものである。

(1)総選挙関係

 粟屋氏にとって最初の選挙となった第三七回衆議院選挙は、結果として苦いものであった。その理由としては、政治不信の中で、「田中派」とのレッテルを張られたことにある。スクラップブックには、「広島経済レポート」昭和五八年十一月十五日号の「隠れ田中に非ず」との記事もスクラップされている。一区は、灘尾弘吉の引退により、公明党福岡康夫氏、無所属保守の桧田仁氏も立候補したことにより、大原亨・岸田文武・灘尾弘吉で三議席を分け合っていた広島一区が激戦区となっていることが理解できる。粟屋氏に対する評価は、灘尾票の流出を食い止め、元建設次官の肩書から建設業界に浸透しつつあり、比較的有利との評がでていた(「競り合い過熱」『中国新聞』昭和五八年十二月十日)(AT020100100)。終盤においては、「大原・粟屋に勢い」との評がでていたものの、結果は次点での落選であった(「混戦のまま終盤」『中国新聞』昭和五八年十二月十五日)(AT020100200)。
 昭和六一年の第三八回衆議院選挙は、参議院選挙との同日選挙となるのか、中曽根首相の思惑も絡み解散風が二月から吹いていた(AT020100300)(AT020100400)。
 六月二日解散、七月六日投票となった同日選挙で、粟屋陣営は、灘尾後継と竹下陣営の二つを看板に、同じ自民党の岸田文武とは「建設対通産」の戦いをしつつ(「決戦ダブル選 1」『中国新聞』昭和六一年六月三日)、基本的には、公民協力の公明党の福岡氏を対象に選挙戦を進めた。中盤では、当選圏に迫る勢いと指摘され(「競り合い過熱」『中国新聞』昭和六一年六月二八日)、終盤では、「有利」とされていた(『朝日新聞』昭和六一年七月三日)(AT020100500)。結果は、自民党は大勝し、広島一区では粟屋氏は空前の一六万八千票を獲得してトップ当選、岸田氏も当選した(「感涙…初当選の粟屋さん」『中国新聞』夕刊、昭和六一年七月七日)(AT020100600)。
 第39回衆議院選挙も、大原亨代議士の引退に伴う知名度の高い秋葉忠利氏の出馬、参院からの鞍替えの公明党・塩出啓典氏の出馬により、激戦が想定されていた(AT020100700)。そして、二期目の粟屋陣営は危機感を募らせていたことが報じられている。選挙は、平成二年二月三日公示、十八日投票であったが、秋葉氏が一歩リードするなか、粟屋氏は塩出氏に急追される展開であったが、何とか次点の塩出氏に約六千票の僅差で当選した(AT020100900)。
 第40回衆議院選挙は、新生党からの出馬であった。広島一区には、日本新党の新人中原好治氏が出馬、系列県議の河合克行氏が自民党から出馬。さらに、自民党は父の地盤を引き継ぐ新人・岸田文雄氏、公明党からも新人・斉藤鉄夫氏が出馬したことで定数が一増えたものの、激戦であった(AT020101000)。終盤、七月十四日の中国新聞の情勢判断では「粟屋・岸田がリード、秋葉に斉藤・中原が迫る」とするものであった。七月十八日投票の結果、粟屋氏は、最下位ながら当選したのであった(AT020101200)。
 第41回衆議院議員選挙は、最初の小選挙区選挙であった。新進党・粟屋氏は、広島二区から立候補した。スクラップブックは、区割りに関する情報から入るとともに、広島三区で増原義剛氏が立候補した件についてもスクラップしている。広島二区は、自民党空白区となる可能性があったが、結果として、広島二区には、秋葉氏も立候補して現職二名、そして自民党公認として県議であった桧田仁氏が立候補し、三つ巴となった(また、羽田派・興志会の解散関係記事についてもスクラップしている(AT020101300)。広島二区は、さらに共産党候補に加えて、新社会党から前参議院議員翫正敏氏が秋葉候補に対抗する形で立候補したため、激戦区となった。そして、衆議院解散とともに、十月八日公示、二十日投票が決まり、選挙戦が開始された(広島二区は、中国新聞紙上で定点観測がされていた)。粟屋陣営は出遅れが指摘され、終盤の情勢も、粟屋・桧田が一線に並び秋葉が追う混戦模様であるとされていた(「衆院選終盤情勢」『中国新聞』平成八年十月十六日)(AT020101600)。投票の結果、新進党としては広島県で唯一、小選挙区で粟屋氏が勝利したものの、重複立候補により、次点・次々点の桧田・秋葉両氏も当選となり、小選挙区から三人の代議士が誕生した。
 粟屋氏本人として最後の選挙となった第42回衆議院議員選挙については、無所属の会からの出馬であり、現職二人のなかから一人を選ぶ選挙であった。前回との大きな違いは、公明党支持票であり、連立の組み替えにより、その行方が注目された(「迫る衆院選 現職2人激しい前哨戦」『中国新聞』平成十二年一月六日、AT020101800)。しかし、自由党の連立離脱、小渕首相が脳梗塞で倒れ死去、森新首相のもとで、六月十三日公示、二十五日投票となった。森首相の「神の国」発言などがあり、混沌とした選挙となった。広島二区では、「桧田・粟屋氏譲らず」と横一線の戦いで終盤を迎えていた(「衆院選中国地方の終盤情勢」『中国新聞』六月二十一日)。結果は、粟屋氏が桧田氏に一万二千票の差をつけて勝利した(AT020102000)。

(2)その他

 「(2)その他」のうち、「事務次官用」と背表紙のある二冊のスクラップブックは、粟屋氏個人を対象にした記事および発言・原稿によって構成されている。「事務次官用 1」は、昭和五一年八月一日『職員』第一六二号の「“ふるさとづくり”」が官房長時のものである他は、事務次官就任時のプロフィール紹介記事、業界新聞等での発言等である。内容的には、「大都市を“忘れ難き故郷”に」との持論を展開したものが中心である(『日本経済新聞』夕刊、昭和五四年十月二十九日)(AT020200100)。「事務次官用 2」は、公共事業を巡る発言が中心となっている(AT020200200)。「SCRAP帳建設省関係(読売・朝日・日本経済新聞)」は、退官後の建設省関係記事をスクラップしたものである(AT020200300)。「新進党より太陽党へ発展」とのスクラップブックは、羽田新党としての太陽党の設立過程に関するものであるが(AT020200400)、挟み込まれていたのは、建設省時代の新聞・書簡である(AT020200401~AT020200406)。

4.書類

 「4.書類」は、基本的に東京事務所でまとめられた資料群である。しかし、整理はA4判のバインダーおよびクリアファイルで行われているが、余り良いとはいえない。内容は、①東京事務所で使用された名簿、連絡先などの書類、②派閥・政党の設立経緯関係書類、③政策関係文書、が中心となっている。

(1)自民党時代(AT030100000)

 「久恵会」(会長小渕恵三)(AT030100100)、「経世会」(AT030100200)は、名簿と案内である。
「政策フォーラム21」(AT030100300)には、「政策フォーラム21」の規約原案(コピー)が含まれ、関係の新聞記事も含まれている。「改革フォーラム21発足関係資料」(AT030100400)には、平成四年十月二三日の経世会最高幹部会原田憲座長からの小渕恵三が会長となったとの通知から、羽田派が形成された過程の概略に関する資料である。

(2)新生党時代(AT030200000)

 「新生党」(AT030200100)は名簿関係、「新生党」(AT030200100)には、基本政策案等、新生党設立関係の資料が綴られ、解党関係の資料が挟みこまれている。「地方行政委員会」(AT030200300)は、地方行政委委員会で審議された法律案、議事に関する書類で構成された雑多な書類群である。
 「改革」(AT030200400)は、会派「改革」関係資料である。

(3)新進党時代(AT030300000)

 「新党準備委員会」(AT030300100)は、新進党の成立過程において基本政策委員会に属した粟屋氏の手許資料である。基本政策委員会を希望した粟屋氏は、平成七年十月五日、基本政策委員会に、小さな政府と民営化を中心とする経済システム導入、国家安全保障基本法の制定を提案。十一月二四日の「基本政策委員会最終報告書」(「綱領(案)」、「当面する重要政策(案)」)を所収している。十月一四日から十一月八日までに五回開催された「国家理念・総論部会」の論点メモ・議事メモ等も所収されている。
 「新進党」(AT030300200)は結党大会・新進党規約関係等の書類であり、「新進党所属委員会等」(AT030300300)は、粟屋氏が所属した地方行政部会等の名簿等が所収されている。「新進党広島県支部連合会」(AT030300400)には、新進党広島県連の会長であった粟屋氏の第四一回衆議院総選挙に向けた資料であり、表書きに新進党団体渉外委員会よりの「中国ブロック広島県第二選挙区用(歯科組織選対マニュアルを含む)」「佐藤公治氏関係」「総支部・県連関係」「推薦証」等とある基本的に封筒ごとに整理された資料が綴られている。
 「新進党議員政策研究会関係資料」(AT030300500)は、平成七年九月十三日に配布されたものである。このなかには研修会の式次第とともに、「金融問題対策プロジェクトの経過に関する事務局報告」「宗教法人法の改正論議」「「改革」か「停滞」か-’95年参議院議員選挙特別公約と発表政策」「新進党ブックレット①21世紀への改革ビジョン」「現行の党政策決定システム」等が所収されている。
 「新進党本規約作成関係資料」(AT030300600)は、平成七年九月二一日から十一月十三日の両院議員総会で決定された「新進党規約」にいたる過程の案が所収されている。具体的には、新進党党首の公開国民投票制度に関する案等である。
 「新進党政権構想(案)関係資料」(AT030300700)は、平成八年一月上旬に、新進党政審会長愛知和男から送られてきた「新進党政権政策構想(案)」とこれに対する粟屋氏が一月十日にファックスにて返信した修正意見のコピーを所収している。
 「新進党議員政策研究会関係資料」(AT030300800)は、平成八年七月四日の研修会で配布されたものである。このなかには研修会の運営要領とともに、「政策研修会 パネラーレジュメ」、新進党「明日の内閣」政策審議会「政策提言・談話集(96年上半期)」および、PHP総合研究所「政策提言 日本再編計画 無税国家への道」(平成八年六月)等が所収されている。

(4)太陽党時代(AT030400000)

 「太陽党」(AT030400100)には、「太陽党党則」、平成八年十二月二六日の太陽党立党羽田孜党首挨拶原稿(コピー)、「結党宣言(素案)」「基本綱領(素案)」の原稿二種(コピー)、承諾書、支部証明書、太陽党参加挨拶(原稿・コピー)が所収されている(「太陽党結党関係資料」AT030400300にも同様の修正文案が所収されている)。
 「太陽党大会」(AT030400200)には、平成九年四月十八日に行われた太陽党大会パーティの収支報告や、パーティ券に関する書類、その際のメッセージ等が所収されている。
 「民友連」(AT030400400)には、平成十年一月十二日の「第一回民友連両院議員総会」資料、一月九日付の政策責任者宛「政策会議の構成、任務、運営等に関して」、「統一会派結成宣言(案)」(コピー)等が所収されている。
 「民政党」(AT030400500)には、結党関係・「民政党結党総会資料」(平成十年一月二三日付)、支部関係の資料等が所収されている。

(5)無所属の会時代(AT030500000)

 「無所属」(AT030500100)には、無所属となった際の報告挨拶状の名簿や名刺が所収されている。

(6)その他(AT030600000)

 その他(AT030600000)には、衆議院の委員会および新進党の「明日の内閣」閣僚としての「辞令等」(AT030600100)、後援会に配布した「国会報告、暦」(AT030600200)や、議員活動の過程で法案賛成等に際して行った署名の写しを所収した「署名関係」(AT030600400)がある。また、粟屋氏本人の原稿も所収されている(AT030600600)。
 粟屋敏信関係文書は、以上、概述してきたように幾つかの特徴がある。時期的には、戦後日本政治の転換点であった五五年体制の崩壊と、その後の二大政党制への移行過程における政党の離合集散の一端を明らかにする。しかし、当該期、政治改革に目が向きがちであるが、事務次官出身で実務能力を有する粟屋氏は、衆議院の委員会および官僚との連絡調整によって政権を下支えする役割を担った。同時に、新生党に多い粟屋氏のような政治家は、新党立ち上げにあって基本政策立案の中枢を担うことともなったのである。建設省官房長・事務次官時代、自民党時代、新生党時代、新進党時代、太陽党時代、無所属の会時代で資料の粗密があることも、属した政党の与党・野党といった立場に対応しており、興味深い。具体的には、資料の整備状況から羽田首相期は、資料を整備するどころではなかった粟屋氏の立場が理解でき、一方、野党・太陽党時代の資料は相対的に整備されており、政策中枢にあって基本政策に心を砕いていたことが理解できる。そして、日誌から、国会の委員会を表とするならば、自民党政務調査会の部会が実態として政策過程において重要な役割を担っていたことも理解できる。そして、新党においても、結果的に自民党政務調査会のシステムを踏襲していくが、このシステムは実務能力に長けた政治家の存在を抜いては考えられなかったともいえよう。政治家としての粟屋氏は、その特性ゆえに、結果として「民主党」「自民党」の二大政党となる過程で、基本政策における一貫性を重視し、無所属を決断したとも言えるだろう。このことも、当該期の日本政治が「数」から「政策」に重点を移行しつつあった状況を明らかにするものと言えよう。
 最後となったが、粟屋敏信関係文書を利用した、より綿密な日本政治研究が行われることを期待している。


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