私は、インド・ヨーロッパ語族に属する「サンスクリット(語)」あるいは「梵語」と呼ばれるインドの古典語の文法を中心に研究しています。インドの仏教経典はサンスクリットやパーリ語で書かれていますが、経済学部出身で、またお寺の息子でもない私がサンスクリットなどの言語を研究するようになった動機を考えると、「文法」への興味が根底にあったような気がします。
「文法」の面白さに気づいたのは高校に入って英文法を学んだ時でした。それまでは英語は単なる学校で教わる教科の一つにすぎず、もともと歴史小説が好きだった私は国語や社会の方が好きでした。英文法は例文と一緒に規則と例外を抑えて正しい文を考えることが面白くて自分で文法書の詳しいところまで勉強していました。
とはいえ英文法の勉強も受験勉強の一つに過ぎませんでした。同志社大学の経済学部に入学後は、英語や第2外国語のドイツ語を熱心に学ぶことはなく、また経済学も私には無味乾燥で興味が持てず、バンド活動にのめり込んだせいで早々と留年が決定しました。経済学部の中で経済学以外のことが学べるゼミを探したところ、東方キリスト教を専門とする先生のゼミがありました。その先生は変わり者で、成績の低い者から採っていたので、辛くもゼミに入ることができました。卒業に必要な単位も経済学以外の授業で何とかカバーしようと思い、文学、哲学、法学、神学(ユダヤ教、キリスト教)などの授業を履修していました。バンド活動を離れた後は就活もせずに、小説や哲学・思想、精神分析学などの本を読んで大学生活を無為に過ごしていましたが、漠然とインドの宗教や思想に関心を抱き、他大学の大学院に進学して学ぼうと考えました。ところが古代・中世インドを研究する上で、サンスクリットは必須なのですが、その時はまだほとんど学んだことはなく、他大学の「印哲」の門を叩いても、「ここはサンスクリット語を読むところだ」と門前払いに近い形で不合格になりました。
バラモン教聖典『リグヴェーダ』(マックス・ミュラー校訂本)
卒業後サンスクリットの勉強を独学で続けながら、東北大学の大学院を受験し、そこで恩師に出会いました。恩師はインド・ヨーロッパ語比較言語学の拠点であったドイツのエアランゲン大学で学位を得て一線で活躍する研究者でした。実を言うと、そういう先生がいることを全く知らずに東北大学を受験したのですが、偶然にもインド・ヨーロッパ語比較言語学のマイスター(親方)の下で、「研究者であること」ということから叩き込まれることになりました。恩師のつてを頼ってドイツに留学し、短い期間でしたが、「本場」で学ぶこともできました。
サンスクリットの勉強の大変さについては坂口安吾の『勉強記』という短編に面白おかしく描かれていますが、サンスクリットで書かれた文献の内容を理解するためには、「文法」、恩師の言葉を借りて言えば、「ハードウェア(言語が持つ仕組み)」の研究に取り組まねばなりません。サンスクリットの基本的な原理を手にしてテキストに向き合う必要があるのです。この原理は「歴史文法」と呼ばれますが、インド・ヨーロッパ語比較言語学の分野で培われたものです。多読は必要ですが、原理を身に着けずに根性だけで読んでも、いわば「梵語読みの梵語知らず」になる恐れがあります。
ちなみに「文法」(grammatikós)は元来「文献学」(philology < philología「言葉(lógos)の愛好」)、つまりテキスト解釈、あるいはそのために必要な知識・技術を指していたのが次第に言語面の分析を指すようになったとも言われています。文学や思想研究などの文献学・古典学が手放した、文法の研究を言語学が担うようになると、言葉はテキストから切り離されて分析されるようになりました。それはそれで意味があることなのですが、インド・ヨーロッパ語比較言語学においてはテキストを読み解くことが最も大事な訓練であり、これを省いて分析手法だけを身に着けることが難しい研究領域です。
ヴュルツブルクのレジデンツ内の研究室から見た庭園
もっともインド・ヨーロッパ語比較言語学に限らず、言語を研究する上で、文献解釈力や運用能力といった語学力を磨くことを避けて通ることはできません。まともに学んだことのない言語について理論だけで語るのは「畳の上の水練」でしかなく、言葉は生半可な頭の良さやセンスで太刀打ちできるほど甘くありません。大変だと思うかもしれませんが、見方を変えれば、知らない言語を学び始める時のわくわくする感覚をいつでも味わうことができるのが言語学の醍醐味の一つと言えます。またインド・ヨーロッパ語比較言語学は、古代の資料や文献を分析するので、昔の人々の生活、思想、文化を知ることも重要です。なので縄張り意識を排して、考古学、神話学、人類学などの学問分野の研究も柔軟に言語研究に取り入れることも必要になります。
人間の言語活動は複雑多様で、言語研究にも様々なアプローチがあります。目的や方法の数だけ言語学があるといっても過言ではありません。言語学研究室に来る学生には、「これは言語学だ」、「これは言語学ではない」といった偏見を持たずに、「言葉を愛する(philólogos)」学徒となって、純粋に関心があることを研究してほしいと思います。「言語学か否か」、「漫才か否か」、「ロックか否か」のような問いは、あなたが真にやりたいことをやる上で、何ももたらしません。そうした不毛な問いから離れ、学びたいことと虚心に向き合って学び続けていけば、きっとそれが正しい選択になるはずです。

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