哲学と出会えるまで【赤井清晃】

 哲学との出会いがいつ、どのようなものであったかを振り返ろうとしても、これといって事件といえるようなはっきりした出来事があったわけではありません。中学生、高校生の頃の自分の関心事は、音楽でした。ピアノからチェロに転向(?)したり、中学では美術部で油絵を描いていたのが、高校では合唱部に入ったり、一時、弦楽オーケストラで、チェロやヴィオラを弾いたり、校内の合唱コンクールで、自作の合唱曲(調性のない現代曲)を演奏したりしていましたが、その方面の才能はプロになれるほどのものではないことは自分でも自覚していて、何か自分にできることはないのかと探していたように思います。

 しかし、少なくとも、言葉との出会いは、合唱をしているときにありました。それは、日本語の歌詞だけでなく、外国語の歌詞は、原語のまま歌う方針で、指導を受けていたからです。ドイツ語でベートーヴェンのオラトリオを、フランス語でフォーレのラシーヌ頌を、ラテン語でドヴォルザークのミサ曲やモーツァルトのレクィエムを、といった調子です。

 また、この頃だったと思いますが、自分が何かを考えていること、あるいは、自分が何かを理解するということ、そのこと自体をまた考えている自分、というものを意識する瞬間があって、自分が何かをわかる、ということはどういうことだろうか、それも、自分がわかると思っている(意識している)ことを思う(意識する)ということはどうして可能なのか、という考えに憑かれたようになっていたようです。この問題は、今からみれば、表現方法を厳密にすれば、哲学の問題として考えられますが、このときが、哲学的な問題を意識した最初であったかもしれません。

自画像

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 これが、哲学的な問題との出会いだとしたら、人物との出会いも、高二の夏にありました。それは、ユネスコの企画に参加して、夏休み中に、パリのユネスコ本部とローマのFAOを訪問したときのことで、パリ、ローマの他に、ロンドン、フランクフルト(アム・マイン)、チューリッヒ、ミラノ、フィレンツェにも足をのばしました。パリのユネスコ本部では、パリ在住の森有正氏が、日本の高校生とのディスカッションに参加してくださいました。森さんの、何か、顔色のすぐれない、体調の悪そうな様子が記憶に残っています。20年以上、パリで暮らした森さんによる西洋の文化と日本の文化についてのお話を聴いた後の質疑の際に、日本では「ありがとう」と言うけれども、英語では (I) thank you. と言う。後者は確かに、感謝を表していると言えるが、前者は、出来事が起こりがたい、と言っているだけで、相手に対して感謝の気持ちは表現されていないと思うので、互いに翻訳としては不適切ではないか?ということを尋ねました。残念ながら、森さんの答がどうであったのかはっきりした記憶がありませんが、森さんの、あの何か、顔色のすぐれない様子は、哲学者らしいようにも思えてきました。森さんが、ときどき、オルガンでバッハを弾くということは後で知ったので、バッハについて質問するのだったと残念に思いましたが、その年の秋に、森さんは亡くなり、その機会はなくなってしまいました。

 その後、自分は大学の文学部に入って、漠然と哲学的なものに関心をもち続けていましたが、歴史的にも、原理的にも、根源的に遡って問題を考えることをやってみたいと思うようになり、3年次からの専門分野を決めるにあたって、哲学へ行って、古代哲学史の勉強から始めることにしたのです。それ以来、学部、大学院と進んで、ギリシア語やラテン語の文献という梯子をつたって、古代から中世へ、中世から古代へ、ときに、近現代へと哲学者たちの思索のあとをたどっては、自分のつたない思索と突き合わせるという作業を続けています。森さんがオルガンで弾いたバッハにはかなわないでしょうが、ときどき、同じバッハによる無伴奏チェロ組曲を弾いています。

チェロを演奏する筆者

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