「汝自身を知れ」の道はつづく【衞藤吉則】

「自分は、どこから、なぜ、何のために生まれてきたのか(あるいはどこへ死にゆくのか)」
「自分は、どう生きていくべきなのか」

 だれしも自らの存在根拠を問うこのような疑問を一度は抱いたことでしょう。この問いは、自己をみつめる作業、つまり、「汝自身を知れ」の営みの始まりといえるのかもしれません。

 「汝自身を知れ」という言葉は、古代ギリシアの賢人によってデルフォイのアポロン神殿に奉納された箴言です。外に向けられた目を自らの内側に転じる〈内観の知〉を意味します。こうした見方は洋の東西を問わずみることができ、この態度の徹底を通じて、よりよき生へ向けた「魂の飛翔」がはかられるとされます。

 私がこの言葉に出会ったのは、高校の「倫理社会」の授業でした。当時、実感をともなわない記憶と処理の速さを競う教育のあり方に、「何かが違う」と感じ始めていた時期だったので、〈生きる意味〉や〈認識の在り方そのもの〉を問うこの学問に強く惹かれていきました。そして、この「倫理学」に、中学生のころから抱いていた「教師になって子どもたちの力になりたい」という将来の夢を重ねていくようになりました。

 その夢をかなえるべく進学先に選んだのが、この広島大学文学部の哲学科倫理学専攻でした。当時、西日本では、高校の教員志望といえば、広島高等師範と広島文理科大学の流れをくむ広島大学への進学が奨められ、私もその道を選択しました。大学生活では、尊敬する師やよき友に出会い、とても充実した時間を過ごすことができました。

 卒業後、念願であった高校の教師になり、子どもたちと過ごした時間はすばらしくかけがえのないものでした。しかし、教育の場において昔に感じた「何かが違う」という思いは私にとってより切実な問いとなっていきました。そして、この内からの声に突き動かされ、真の教育のあり方を探究すべく母校の教育学研究科に戻ることを決意しました。そこで出会ったのがドイツの思想家ルドルフ・シュタイナーの教育思想です。

 当時、シュタイナーの教育実践は日本でも広く知られつつあり、その有効性が注目されていました。一方、その理論は難解さゆえ、学術レベルで認められるのはむつかしいといわれていました。しかし、私はこの思想がもつ先見性や現代的意義を確信していたので、その妥当性について学問的に基礎づけることを自らの使命と感じて取り組みつづけました。その結果、大学院の三年目に入ったときに書き上げた論文が日本初のシュタイナー哲学研究として全国学会誌に掲載されました。その後、研究を重ね、私たちが共通に理解できる「教育学」「哲学」「科学」の言葉を通して、この思想の現代的意義を明らかにするに至りました(『シュタイナー教育思想の再構築―その学問としての妥当性を問う』ナカニシヤ出版、2018年)。さらに2019年度からは、このシュタイナー理論に基づき、不登校や発達障害の子どもたちに自分らしい学びを取り戻すことを支援する教育施設 ‘Steiner & Montessori Academy’ を郷里北九州の地に開設する予定です。

 

シュタイナー教育思想の再構築

『シュタイナー教育思想の再構築
―その学問としての妥当性を問う』

  こうした教育臨床への応用という「教育倫理学」的な研究方向に加え、私は、「日本倫理思想」も研究の対象としています。これもまた自己の心身を探求する禅体験や、戦争をはさみ分断された日本的思考のアイデンティティを取り戻したいという研究衝動に基づいて深められました。これらは、『仙厓』(西日本新聞社、1998年)や『西晋一郎の思想―広島から「平和・和解」を問う』(広島大学出版会、2018年)として成果を世に問うことができました。

 自己の存在を介して見いだされた理論を実践に生きた形で還元すること、これが倫理学を生きる私たちの課題といえそうです。私自身、大学を卒業して三十年以上が経過し、冒頭の問いと「汝自身を知れ」の真意は、〈教育〉の体験を通して、私の生と一層深く重なりつつあります。

 

西晋一郎の思想―広島から「平和・和解」を問う

『西晋一郎の思想―広島から「平和・和解」を問う』


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