哲学という学問【硲智樹】

 皆さんは哲学という学問についてどのようなイメージを持っていますか(ここで「哲学」は西洋哲学を意味します)。どうも哲学は他の学問とは違って相反する二つのイメージが伴っている「奇妙な」学問のようです。一つは、哲学は難しく理解できないというもの。もう一つは、哲学については誰もがよく知っていて誰でもすぐ哲学することができるというものです。皆さんが持っている哲学のイメージもこのいずれかに当てはまるのではないでしょうか。実はG・W・F・ヘーゲル(1770-1831)という 近代ドイツの哲学者もまた『エンチクロペディー』(1830)という著作のなかで哲学に対するこれら二つのイメージについて語っているのですが、筆者の経験からも全くその通りだと頷けます(特にヘーゲルは後者のイメージを哲学に対する侮蔑であると言っていますから、どちらかと言えば後者の方が哲学にとっては由々しき問題だと思っていたことでしょう)。19世紀のヨーロッパと21世紀の日本という時間的にも空間的にもかけ離れた所で哲学に対し同様のイメージが持たれているというのはある意味とても面白いとは思いませんか。

ミュンスター領主司教の城

1954年からUniversität Münsterの象徴および本部として利用されている
ミュンスター領主司教の城(第二次大戦後に再建)。

 ここで、哲学に対する二つの相反するイメージが生まれる理由について、ヘーゲルとは違う筆者なりの説明を試みたいと思います。まず、「哲学は難しい」というイメージは難解な哲学書によるものと思われます。つまり「哲学は難しい」は「哲学書を読む(理解する)のは難しい」ということでしょう。哲学書を読むというのは確かに難しいことです。だが(!)、哲学とは考えること(思考)であって、哲学書を読むことではない。考えることなら誰でもできる。だから哲学は誰でもできる。どうでしょう。一見相反するものであるように思われる二つのイメージにおいて「哲学」ということで実はそれぞれ別の事柄が、すなわち一方では「哲学書を読むこと」が、他方では「考えること」が理解されているわけです。こう考えるとこの二つのイメージは決して矛盾しているわけではなく、むしろ根底において密接に関連していると言えるでしょう。

 しかしここで問題となるのは「哲学」とは一体何をする学問なのかということです。それは「哲学書を読むこと」なのでしょうか、それとも「考えること」なのでしょうか。おそらく学問として哲学を研究する場合にはその両方であるというのが答えでしょう。文献に基づき(過去の)哲学者の思想を解明すること(=哲学書を読むこと)も哲学の諸問題に直接みずから取り組むこと(=考えること)もともに学問としての哲学研究に含まれます(こうした哲学の歴史性と体系性の統一を主張したのがヘーゲルでした)。哲学的問題に関心がなければ哲学書を理解することはできない以上、哲学書を読むことも哲学することに他ならないのです。哲学者のなかにも(過去の)哲学書を読むことは哲学には必要ない、哲学史を知らなくても哲学することはできると言う人もいますが(単に「哲学書嫌い」からこう言っているのではありません)、そのような人は、だから誰でもすぐに哲学できると考えるのではなく、むしろ哲学をするためには論理学(論理的思考)の専門的な訓練を受けなければならないと考えています。考えることが哲学の本質であるというのは全くその通りなのですが、だからと言って「今日から君も哲学者!」ということにはならないのです(もちろんここではあくまで学問としての哲学について語っているということに注意してください)。イマヌエル・カント(1724-1804)は「哲学することを学ばなければならない」と言っています。

 考えるというのは簡単そうで簡単ではないのです。ヘーゲルは『精神現象学』(1807)という著作のなかで「真なる思想と学問的洞察は概念の労苦(die Arbeit des Begriffs)においてのみ獲得されうる」と言っています。この「概念の労苦」に耐える覚悟のある人こそ哲学という学問の本当の楽しさを味わうことができるのではないでしょうか。もしかしたら哲学という学問は登山をすることに似ているのかもしれません。皆さんも「登山」に挑戦してみてはいかがでしょうか。

ミュンスターにあるAa湖

ミュンスターにあるAa湖。近くにメンザ(学食)がある。


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