「森の中の旅人の話」ー言語学へのいざないー【今田良信】

 私は、昭和50(1975)年4月に広島大学文学部文学科言語学専攻に入学しました。しかも、第二志望でした(当時は、受験の際、入学の専攻を第二志望まで希望することができました)。この時が、私と言語学の出会いということになります。実際には、受験の願書を提出したときから「言語学」という名前は知っていたことになりますが、第二志望ということもあり、何をする分野かもよく知らず、特に調べた記憶もありません。ただ第一志望と同様に教員免許が取得できるということで選んだのです。しかし、入学してみてすぐに、これは良いところに入学できたと、入学前とは打って変わって、内心とても嬉しかったのを覚えています。そう思えたのは、一つには、言語学という分野の面白さであり、二つには、この専攻に居られた先生方のお人柄であったと言えます。

 当時、言語学専攻では、専門に入ってからの演習の授業に必要だということで、教養科目(現在の教養的教育科目)の外国語については、第一外国語(八単位)以外に、第二外国語(八単位)、第三外国語(四単位)の単位が必要で、事実上、英語・ドイツ語・フランス語の三カ国語が必修でした。文学部の中でも、これは言語学専攻だけだったと思います。また、専門科目の古典語の単位(四単位)として、ラテン語か(古代)ギリシア語が必修でした。それでも、好奇心の方が勝っていたせいか、何も負担には感じませんでした。それどころか、ドイツ語やフランス語の授業が始まると、これまで外国語は、英語しか知らなかったものが、一挙に視界が開かれた感じがして、新しい言語の世界の魅力と遣り甲斐を感じました。さらに、二年生になると、専門の授業の単位も取れるようになり、古典語としてはギリシア語を選び、その上に、(今にして思えば)やめておけば良いものを、まだ張り切っていましたので、同時に教養科目のラテン語までも受講してしまいました。他にも、スペイン語やヘブライ語まで手を出していたため、これはいささか無理でした。ヘブライ語は前期で挫折。ギリシア語は何とか遣り通したものの、徹夜をしても予習が追いつかず、そのしわ寄せを受けて、ラテン語の方が中途半端になり、単位は取ったものの内容の理解が行き届かず、翌年、もう一度専門科目の方でも単位を取る羽目になってしまいました。過ぎたるは何事も及ばざるがごとしですね。

 当時の言語学研究室には、現代ギリシア語が主たるご専門の教授故関本至先生、古代メソポタミア(現在のイラク)のシュメール語が主たるご専門の助教授故吉川守先生、イタリア語が主たるご専門の助手故古浦敏生先生という錚々たるメンバーが居られました。どの先生についてもご専門に「主たる」という前置きが付いているのは、どの先生も英・独・仏語は言うに及ばず、ギリシア・ラテンの古典語も読まれますし、さらには、お人によりサンスクリット語、アッカド語、朝鮮語、ドラヴィダ語というような言語まで授業で教えられていて、その上でのご専門だからです。シュメール語は今か5千年も前の言語で、楔形文字という文字で表記され、吉川先生はその世界的な権威でいらっしゃいました。このように書くと、何か厳めしい近寄りがたい感じの方々のように思われるかもしれません。しかし、実際は全く正反対で、皆さんとても気さくで優しい先生方だったのです。私にとっては本当に有り難い出会いでした。後から振り返って思うことですが、私が言語学を大好きになった裏には、こんな有りそうでなかなか無いような縁の御陰もあったのです。

モン・サン・ミッシェル

モン・サン・ミッシェルにて(1993年)

 関本先生は昭和51年3月にご退官になりましたので、私は、残念ながら大学の普通の授業で関本先生から教えていただく機会はなく、辛うじて最終講義だけを聴かせていただきました。その頃はまだ言語学については、殆ど何も分かりませんでしたが、その中で、特に印象深く覚えていますのが、「森の中の旅人」の話です。これは先生がそう名付けられたのではなく、お話のイメージから私がそのように呼んでいるだけのものです。内容はおよそ次のようであったと記憶しています。

 《人を森の中を旅する旅人に喩えてみますと、この旅人がいる森はその人の歩む人生に喩えられるかもしれません。旅人はその森を通って目的地に着くことを望んでいるわけですが、無闇にあちこちへ動き回ってもなかなか森を抜けることはできません。しかし、ある方向へ向かってまっすぐに歩んで行けば、いつかは森の外に出ることができます。どの方向に進むかはその旅人が決めるわけですが、どの方向に進もうと自分の道をひたすら進めば、森のどこかの端には着くことができます。今この旅人を自分に置き換えてみますと、私は進む方向として言語学という道を選んだことになります・・・》

 私は、この喩えにはっとし、「僕もこの道を進んでみよう」と思ったのを覚えています。そして、40年以上経った今でも、関本先生の最終講義の記憶として鮮明に心に残っているのです。大学一年生の春、関本先生の教官室で、言語学研究室の三人の先生方と初めてお会いした時から、言語学という道に足を踏み入れ、未だに森の中をさ迷っています。遅々として進まぬ歩みですが、これからも森を抜けるべく歩みを続けて行くつもりです。先生方から教わったことを、道を照らす灯とし、穏やかなまなざしを励みとしつつ。

ヴィシーにてコロンさんご家族と共に

ヴィシーにてコロンさんご家族と共に(1993年)


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