教師と英語と文学【今林 修】

 私が教師になりたいと思ったのは、小学校六年生の時でした。親友に秀才がいて、算数の文章題が分らない時に彼に聞くと、順序良く、理由を言いながら、筋道を立てて、ものの見事に答にたどり着かせてくれるのです。まるでマジックを観ているようでした。こんなふうに教えられたらいいなと思いました。

 中学生になると「英語」が新たに加わりますが、二年生までのこの教科の成績たるや散々でした。ところが、三年生になると、英語の担当が、幸いにも尊敬する部活の顧問になりました。先生はハワイでの生活が長く、ネイティブ顔負けの素晴らしい発音でした。初めて英語がきれいに聞こえ、自由に操りたいと思いました。さらに、先生は最初の時間に「中間試験、期末試験は、君たちに自信を持ってもらうのが目的ですから、教科書以外からは問題を出しません」と仰ったので、ひたすら教科書を丸暗記し、一学期の中間テストで初めて全部自信を持って解答することができました。Jの筆記体を数字の8のように書いたため減点され、96点だったと記憶しておりますが、定期試験での減点はこの4点だけでした。この先生のおかげで、英語に憧れ、自信を持つことができ、「英語の先生」になろうと決心しました。また、この時期もう一つの大きな出会いがありました。「文学」との出会いです。内外を問わず、いわゆる純文学を読み耽り、文学青年を気取って、充実した中学時代を送りました。

 高校に入ると、教育方針が受験一色で、憧れていた英語も文学も何もかもが、無残にも受験問題の陳腐な道具に変貌させられたのです。近いのがこれ幸いで、片田舎で進学校の仲間入りをしようと躍起になっている高校なんぞを選んだ罰が当たったのでしょう。英語に関しては、「英語力=単語力+熟語力+構文力」という等式が成り立っていました。高校で教える英語はこんなのでいいのか、生意気にも教育改革の意識を少しばかり持ったのでしょう、僕なら違う教え方ができるのでは、と考えました。そこで、三年時の担任の先生に「日本一の英語教育を専門とする大学を紹介してほしい」と相談したところ、すぐに広島大学の名前があがったので、受験することにしました。

ギャズヒル・プレイス

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ディケンズが幼い時に住んでみたいと憧れ、作家として成功して購入することができた、晩年に住んだ家

 教育学部教科教育学科英語教育学専修(通称、教英)に入学したのですが、間違った選択をしたことに気付くのに半年もかかりませんでした。(スティーブ・ジョブズは半年で大学を中退する。)「諸外国の英語教育」や「英語教育史」などに興味があったわけではなく、英語そのものの勉強がしたかったのです。つまり、英語科教育学より英語科内容学に興味関心があることをはっきり認識したのです。二年次から専門教育が始まりますが、教職科目を除いて文学部の授業に入り浸るようになりました。そしてその後の人生を決定づける出会いがあるのです。

 三年次後期の授業に「後期近代英語演習」というのがあり、テクストとしてジェイン・オースティンの『エマ』が使用されました。演習形式の授業ですから、毎回予め担当が決まっており、担当者が担当箇所の音読および和訳をします。これらが一通り終わると、先生が誤った発音を指摘され、誤訳を訂正されるのですが、なぜそのように「読む」のかに対する説明が理路整然と簡潔に述べられるのです。全く異次元の空間に引き込まれた感覚を今でも忘れません。英語で書かれた文章を、ただ「正確に読む」ことだけに、音韻論、形態論、統語論、語彙論、語用論、文体論、歴史言語学、社会言語学、そして文学理論など、ありとあらゆるものが総動員され、巧みに「道具」として使用されるのです。オースティンの難解な英語も先生の手にかかると、いとも簡単に、かつ明解に、しかも本当に楽しく読めるのです。文学作品を正しく理解し鑑賞するには、学習英和辞典や受験勉強程度の文法や構文の知識ではどうにもならないこと、また、講義も聴講し、自らも少しは勉強した気でいた「音韻論」、「英文法」、「英語史」などは、「文学作品を正しく読む」ための必要条件ではあるが、十分条件ではないことを痛感したのです。これこそが、広島大学の英語学講座の伝統であり、philologyと呼ばれることを知ったのは、先生にオースティンの言語・文体に関する卒業論文の指導をしていただくようになってからでした。この時までには、頭から高校の先生はすっかり姿を消し、大学に残ろうと心に強く決めたのでした。

 大学院博士課程前期に進学してからは、研究対象をチャールズ・ディケンズに変更しました。指導教官に相談もなく変更しましたので、後できついお叱りを受けました。なぜ変更したかですって。決してオースティンの英語がディケンズに劣るというのではなく(劣るどころかディケンズよりもある意味凄い)、オースティンが描く世界は田舎のアッパー・ミドル・クラスの家庭、恋愛、結婚に始終し、作品数も少ないのに対して、ディケンズが描いたのは、ヴィクトリア朝のイギリス社会の最下層から王侯貴族に至るまでの多種多様な人間模様であり、作品数も一作品の分量もオースティンを凌駕するからです。

 さて、長々と書いてきましたが、私は小学校六年生の時に夢に見た「教師」と中学生の時にほのかな憧れを抱いた「英語」と「文学」を幸いにして職業することができました。私の今の正直な気持ちをヒギンズ教授に代弁してもらって筆を置くことにしましょう。Happy is the man who can make a living by his hobby!(さて、なぜこの文には倒置法が用いられていますか、考えてみましょう。)

著者による編著書

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