「なぜ歴史が好きなのか」と聞かれたら、「インディ・ジョーンズ、ザ・マミーのシリーズが好きだから」と答えたのを覚えています。それは確かに高校時代のことだったと思います。「歴史少女」だった私は、古代エジプトやローマ帝国に関する映画に魅了され、また様々な歴史小説を毎日のように読んでいました。当時の私が思い描く「歴史学」も、このような映画や小説の中で、よく強調された神秘的なイメージに基づいていました。当時の私にとって、「歴史学」は娯楽のようなものでした。
このように学問とファンタジーのわきまえもなかった私を思い出すと、恥ずかしくて笑ってしまいます。しかし、私はどんな専門分野でも、娯楽をきっかけにはじめることを否定する気は全くありません。あのどう見ても怪しいインディ・ジョーンズやザ・マミーのシリーズ映画は、少なくとも「歴史は楽しい」というイメージを当時の私の頭に押し込んでくれました。また、インディ・ジョーンズは1980年代から撮影されており、ザ・マミーは1999年から上映した映画です。それぞれの映画が成立した時期と、その内容、特徴とどのような関連性があったのか、その時に製作者が何を表現しようとしたのか、観客にどのような反響があったのか、今現在の我々がもう一度その映画を見た際、どのように感じたのか、などを考える事も、まさに歴史研究のテーマにもなりうるものだと思います。
このように素朴な「好き」から出発して、次々と小さな疑問を打ち出し、考え始めることは、研究のトピックの発見につながります。私は猫好きでもあります。ある時、研究のため、江戸時代に出版された本を読んでいると、そのなかから、一枚の猫絵を見つけました。この本は中国の本を、日本語に翻訳したものです。内容は勧善懲悪的なもので、いわゆる「教訓科往来物」というジャンルにあたります。中国語の原本は日本に伝わったのち人気を得たようで、いくつかの日本語パロディー本が出されました。猫の挿絵のあるものを、ここでAと呼びましょう。このAでは、「悪事をするな」と読者に勧めるのに、「猫でさえもちゃんと好物を我慢することができるのだから、我々人間は掟を守るべきだ」というコンセプトで猫の挿絵が作られています。一方で、ほぼ同時期の別の日本語版、Bがあります。そこでは、中国語の原著にあった物語をモチーフに、「悪事をした人が雷に焼かれる」という恐ろしい絵を使いました。なぜ猫をもって読者をいましめたのか。どうして同じことを教えようとしても、方向性や工夫がそこまで異なったのか。同じ原著に基づく訳本なのに、どのようにして様々な解釈が生み出されたのか。これらの疑問がやがて、「近世東アジア世界のなかの日本の出版文化と思想」という、私の研究テーマに結びつきました。
A:『和歌絵讃六諭』1846年
B:『首書画入六諭衍義大意』1844年
いずれも私蔵。同じく「悪事をするな」を説くに、それぞれ猫と雷を画題とした挿絵です。
大学で専門として学ぶ歴史学は、インディ・ジョーンズの世界をイメージした私の妄想のなかの「歴史学」と、全く違うものでした。研究においては、いつでも都合よくかわいい猫の絵が見つかるわけではありません。しかし、再びインディ・ジョーンズやザ・マミーを鑑賞するとき、異なる視点でその物語を考えるようになり、また葛飾北斎や歌川国芳の猫絵を見る際、その背後にひろがる江戸時代の文化風景がみえるようになったことに気づきました。映画好き、猫好き。このような素朴な「好き」から出発した研究でもよかったと思います。
歌川国芳「流行猫の戯」1847年、東京都立中央図書館蔵