インドネシアの仏像との出逢い【伊藤奈保子】

 2006年5月27日早朝、突然の地震がジャワ島ジョグジャカルタ地域を襲った。当時私は2004年に京都の国際日本文化研究センターにて学術博士の学位を頂いた後、この地区の大学へ非常勤講師として赴いていた。インドネシアにじっくりと腰を据えて、仏像や寺院、レリーフを心ゆくまで見ていたかったからである。世界遺産に登録されるロロジョングランをはじめ、多くの寺院や家屋が甚大な被害を受けた。亀裂の走った石造寺院は立入禁止、シャベルで瓦礫を掘り起こし、救援物資を運ぶ日々のなか、これからの自分の進む道を考えた。「亡くならずにいられたのは、まだすべき事があるからではないか。生かされている。」と、強く感じた。日本へ戻り、するべきことを見つめなおそうと思った。

 私はかつて、東京の古代美術品を扱う古美術商、Gallery URに勤めていた。ある時、インドネシアのジャワ島出土の金銅仏を手にする機会を得た。驚いたことにその像は、日本の真言宗の本尊である「大日如来(金剛界)」と同じ形状であった。インドネシアは現在イスラーム教徒が約9割を占め、仏教は1割にも満たず、密教が伝播していた認識はほとんどされていない。けれども、大日如来はまさしく密教に属する仏像である。推定制作年代は8~9世紀頃。日本では空海・最澄らによって密教が、中国の唐から日本へもたらされた時期にあたる。すなわち、2つの地域において、ほぼ同時期に、同じを形状をおびた「大日如来」が存在していたこととなる。このことは何を意味するのであろうか。私は、それを契機にインドネシアでの仏教、特に密教の痕跡を研究し始めた。気がつくと、会社を退社、再び学問の世界に足を踏み入れていた。学位拝受後は、迷うことなくインドネシアへ向かった。そして2006年5月、あの朝を迎える。

 

インドネシア中部ジャワ地区のチャンディ・ボロブドゥル

インドネシア中部ジャワ地区のチャンディ・ボロブドゥル

 ヒロシマは、新幹線で通るたび、その間、黙とうをささげる場所だった。この地に降りることは、できれば避けたいと思っていた。しかし、インドネシアで地震を経験した後は違った。広島大学で教員募集があったとき、この地にこそ行くべきだと感じた。チャレンジだった。縁があり、呼んで頂き、今日に至っている。

 日本において『インドネシアの宗教美術―鋳造像・法具の世界―』を法蔵館で出版して頂き、インドネシアと日本に、ほぼ同時期、密教が流伝していたことを論証、10年間、文部科学省科学研究費補助金を頂きながら、その範囲を東南アジアにまでにひろげ、研究を続けている。それとともに、教鞭を取らせて頂ける場を与えられたことに感謝しながら、海外にあって、日本の文化の重要性を「手仕事」に見出し、大学では、日本・東洋の「工芸史」の講義も受け持たせて頂いている。2007年から備後藺草の植付、刈取り、螺鈿箸制作、広島仏壇の七匠の工房巡り、箔押し・鏨の金工制作、藍建・藍染、伊勢型紙、篆刻、金唐紙制作、茶道茶会、尾道帆布の棉植え、棉摘み、柿渋制作等々の実習をはじめ、2014年度からは毎年度、広島の職人・地域の方々のお力添えをいただきながら、学生とともに広島の伝統工芸品に関するワークショップ、及び展覧会を広島大学近くのGallery Plazaで開催している。その際、地元の企業、(一般社団法人)グリーン・ファミリー、広島県ひろしまブランド推進課(県庁)、東広島教育委員会、(公社)東広島市観光協会などに、ご後援、資料提供、協賛など、ご協力を頂いている。

 徐々に広がる「手仕事の文化」の喪失が、これからの日本にどのような影響を与えるのか。学生と考究、模索しながら、文化の継承の意義について、体験を通し、再考する作業を試みている。

 インドネシアの1軀の仏像との出逢いは、私をここまで導いてきてくれている。先のことはわからないけれど、それぞれの研究を深めるとともに、微力ではあるが、何かを伝えていけるような人になれればと願っている。

備後藺草の刈取り・泥染(チュラーロンコーン大学の学生と共に)

備後藺草の刈取り・泥染(チュラーロンコーン大学の学生と共に)


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