ドイツ語・ドイツ文学・演劇への誘い【小林英起子】

 私は中学生の頃、教育テレビで外国語講座を見て、海外の話に耳を傾けました。高校ではAsahi Weeklyを駅で買ってペンパル欄を見て、海外の高校生と文通をしました。その中でドイツの女生徒と三年間手紙のやりとりが続きました。世界史ではルターや三十年戦争、ドイツ三月革命の話などが印象に深く残りました。現代国語では森鷗外の『舞姫』を読んで、ベルリンのウンター・デン・リンデン通りの様子を想像していました。今から思えば、ドイツ的な思想や文化に惹かれて、ドイツ語の勉強を大学で志すようになったのかもしれません。私の学校時代は日本はまだ発展途上国で、ドイツは東西に分かれ、西ドイツは医学や科学技術の先進国でした。ベルリンの壁や東西に分断されたドイツ人家族の様子にも関心を持ちました。

ベルリンのオペラ劇場とシラーの像

ベルリンのオペラ劇場とシラーの像

 大学ではドイツ語文法に手こずりました。ドイツ語の授業がたくさんありましたので、独和辞典はいつも必携でした。英語の勉強を応用して、単語帳やカードを作って発音しながら覚えました。大学四年生の時に辞書がボロボロになって、ボンドでとめたりしました。その時の辞書は自宅の本棚に飾ってあります。後に辞書は何種類も用意しました。当時はカセットレコーダーが全盛時代で、ラジオやテレビのドイツ語講座は録音して繰り返し聞きました。

 文学史の講義を大学一年で受講した時、テキストがドイツ語で、つらい思いをしました。ドイツ語もよく分からないのに、ドイツの作家や文学作品名がドイツ語で次々に出てきます。単位がとれるのだろうかと心配をし、テキストに食らいついて、分かる箇所の訳をノートに書いてみました。授業では先生の訳読を必死に書きとめました。文学史の本を何冊も読み、作家や作品の写真、挿絵を見ながら下手な私の訳文の内容を考えたりしました。中世の美しいマネッセ写本やゲーテやシラーの肖像画、憂鬱そうなドイツ人作家の写真を見ては脳裏に焼き付けました。文学史の講義では、教授が分厚いノートをめくったり、目をつむって溢れるようにいろいろな作家や作品の内容を語る様に圧倒されて、ドイツ語テキストを私も最後まで読破しました。

 三年生の時、教授からお借りしたレッシング作『ミンナ・フォン・バルンヘルム』と『ハンブルク演劇論』をきっかけに、卒業論文の研究を始めました。春休みに洋書専門店でレクラム文庫の原書を数冊買った時、ドイツ文学に誘われたような嬉しい気持ちになりました。その演劇が上演された時の録音テープも借りて、舞台の様子を想像しながら聞きました。修士課程は東京で学びましたが、ドイツデュッセルドルフのシャウシュピールハウスが来日してレッシングの名作『賢者ナータン』を帝国劇場で上演した時、私も観劇しました。ドイツ文化センターでニュー・ジャーマン・シネマの映画祭があり、私も昼食代を削っては切符を買ってドイツ映画をたくさん見ました。これもドイツ語の勉強になりました。

レッシング像を前に撮影

レッシング像を前に撮影

 大学院卒業後、学校の教師を経て、1987年にドイツ留学の機会を得ました。経済の優等生西ドイツには余裕がありました。友人のつてを頼りに東ドイツのライプツィヒの教授を訪ね、ワイマールを探訪しました。東のドイツ人が古典作家を誇りにする気持ちを感じました。この頃出会った方々とは今でも交流があります。それから間もなくベルリンの壁が崩れる出来事がありました。ドイツ再統一後、再び留学し文学だけでなく演劇の研究にも励みました。

 日本も豊かになり、留学が身近になりました。しかしながら、学問の基本は学部生の基礎段階にあるように思います。19歳の頃叩き込まれた文法や基礎知識は二十年、三十年たっても忘れていないものです。旧東ドイツの文学研究が盛んになってきました。最近はすぐに役に立つ小手先のことばかりを重視する傾向がありますが、人生で遭遇する難題や未知の課題解決へ導いてくれる基礎力は、大学時代に課題を調べたり卒論研究をする過程でこそ培われるのではないかと実感しています。


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