Yさんへ――。
1981年7月の二週間、教育実習生として、2年生のあなたのクラスのホームルームと国語の授業を担当した久保田啓一です。覚えておいででしょうか。37年間一度もお会いしていないので、ご無沙汰も何もあったものじゃありませんね。
今にして思えば、大学4年生の私は、将来への不安と現実への違和感とがない交ぜになった、非常に鬱屈した精神状態にありました。自分は何をしたいのか、何ならなれそうか、そのためには何をすればよいのかという自問を繰り返すだけで、解決に結びつく具体的な行動が起こせないのです。「国文学演習」の準備と発表の時間だけが充実感を与えてくれましたので、大学院に進んで勉強を続けるのも楽しいかもしれないと、ちらりと思うこともありましたが、モノになる見通しは全く立ちません。企業への就職は、偏屈な性格の自分には到底無理だと決めてかかっていましたから、その選択肢はありません。専門の勉強を少しでも生かすなら、高等学校の国語の先生になるのが一番現実的な道です。しかし、本当に教職に就きたいと念じていたわけではありませんでした。申し訳ない限りです。
実習が始まると、たちまち私の限界が立ちはだかりました。生徒さんたちとの密接な関係がどうしても築けないのです。昼休みに我々の控え室に詰め掛ける生徒さん相手に、他の実習生たちが楽しそうに興じるのを尻目に、睡魔と闘いながら未完成の指導案に黙々と手を入れるしか、私にはすることがありません。他者がこちらに近づいてくるのを本能的に拒絶するような人間嫌いの性分が私には厳然として存在しました。教師失格です。
そんな私ですが、古文の授業ではせめて専門教育を受けた者としてしっかりした授業をしたいという気持ちだけは持っておりました。『枕草子』の「五月ばかりなどに山里にありく、いとをかし。」に始まる二百六段が教材です。二百十五段「月のいと明きに」の記述も援用しつつ、清少納言は何を「をかし」と感じるのかを広く検討し、典拠として『拾遺集』の「蘆根はふうきは上こそつれなけれ下はえならず思ふ心を」を掲げ、「ありく」と「歩む」の意味の違いを文脈に即して解説するなど、『枕草子』の用例と出典を吟味して解釈する、演習で身につけた注釈の方法を未熟ながらも導入し、手ごたえを感じた五十分でした。
母校の福岡県立三池高等学校
実習の最終日、クラスの皆さんに感想を書いて貰いました。授業については概ね高く評価してくれましたが、「もっと生徒の間に這入って仲良くしてほしかった」「冗談を交えた面白い授業にしてほしい」という意見には、私の弱点を指摘された気がして落胆しました。花束を貰って記念撮影をしている他の実習生を横にして、何とも索漠とした思いを抱きつつ、「ズボン上げ過ぎ」「大学4年とはとても思えない。老けている」「もっとやせてほしい」などの遠慮のない意見に苦笑しながら感想を読んでいきますと、一枚の紙に目が留まりました。「生意気なことを言うようですが、あなたの授業はたいへんわかりやすいものです。」との書き出しです。むやみに頷くこともなく、教室の後ろの方でいつも表情を変えずに授業を聞いていた女子生徒Yさんの感想でした。学問的手続きというものが自分にもわかったような気がするという趣旨の言葉が続いて、最後はこう締め括られていました。「あなたは先生に向いていると思います。でも、あなたは先生よりも研究者を目指すほうがいい。」
その日の午後、最寄りの西鉄大牟田線銀水駅で呆然と電車を待っていると、何とそのYさんがプラットホームにやって来るではありませんか。どぎまぎしながら感想への礼を述べる私に、Yさんは静かに以下のようなことを話してくれました。自分は広島大学文学部の国史学に進みたいが、あそこは専攻ごとの募集なので難しい、学校もクラスも何となくフワーッとしているので意識的に勉強しないとだめだ、夏休みには福岡の予備校の講習に通うつもりだ……。目標をしっかり定めて意欲を自ら掻き立てようとするYさんの姿勢に衝撃を受けつつ、研究の道に踏み出すのにこの上なく強い励ましを貰ったような気がしました。その時のYさんの容貌は、37年もの時間が幾重にも張り巡らした半透明の膜の向こうで朧に霞んだままですが、次の新栄町駅で電車を降りる間際に、乗降口の横に立つ握り棒に軽く背をあずけて、しっかりと伸ばした二本の腕で鞄を膝の前に提げていた立ち姿だけは、今でもくっきりと思い出すことができます。
Yさん、本当に有り難うございました。あなたが書いてくださった感想と、あなたと交わしたほんの数分間の会話は、現在までずっと私の支えであり続けています。あなたに読んで頂ける可能性はほぼないと思いますが、37年間の思いを籠めて謝辞を捧げます。
西鉄大牟田線銀水駅のホームから