人生は、意図せずにはじめられてしまった実験的な旅である。
――フェルナンド・ペソア『不穏の書』
ポルトガルの誇る大詩人のことばですが、私がここにいる理由をこれほどよくあらわした言葉はないように思えます。
私は、特に九州をフィールドに、16世紀(いわゆる戦国時代)の日本列島にあった人間社会のかたちを考える研究をしてきました。むずかしいことばでいえば「権力」や「政治」を考えている、ということになります。ただ、そもそも(九州にかぎらず)16世紀日本の人間社会のかたちを、現代人が何気なく用いている「権力」「政治」「国家」といった”ことば”で言い表しうるのか、現代とまったく異なる歴史社会のありかたをどういう”ことば”で説明すればより適切か、といった点についても考えをすすめています。
というと、ずいぶんとややこしい話をしているように見えます。いや、私自身、「どうしてこんなややこしいことを研究しているんだ?」と首を傾げています。
そもそもなぜ九州をフィールドにしたのか、実は自分でもよくわかっていません。私にとって、九州はもともと縁遠い土地でした。私は首都圏生まれですし、ルーツも九州にはありません。九州初上陸も、九州の歴史に興味をいだいてよりはるか後のことでした。
印象に残っているこどものころの記憶に、戦国時代を舞台にした戦略シミュレーションゲームがあります。その古いゲームでは、容量の都合からか、九州が存在しませんでした。あえていえば、だからこそ「未知の地」である九州に興味をもったような気もします。意図せず「16世紀の九州」に向かって旅をはじめてしまったわけです。
1578年に豊後大友氏と薩摩島津氏が激突した高城・耳川合戦の古戦場。
歴史の現場からえられるものも多くあります。
京都大学に進学してからも、16世紀九州への関心のおもむくまま、あまり深く考えずに日本史研究の道に足を踏み入れました。もちろん、「歴史社会の表し方」みたいなむずかしい話にはじめから取り組んだわけではありません。はじめに興味をもったのは大分県の戦国大名・大友氏の政治過程――いつ・どこで・だれが・なにをしたか、という素朴な実態解明でした。
しかし、いざ研究内容を発表してみると、周囲からこう問われます。「なぜ九州を?」と。私は出会いにとても恵まれており、この時も優秀な先生・先輩・同期・後輩に囲まれていました。だからこそ、九州以外を研究対象にする周囲の皆さんと学問的な議論をするために、「九州から中世日本の何がわかるか?」を説明する必要がありました。自然、九州の研究がこれまでの戦国大名モデルのどの部分を変えるのか、意識するようになります。やがて、これまでのモデルでは、16世紀九州の実態を説明できないことに気づきはじめました。例のゲーム同様、これまでの戦国大名モデルにも「九州が存在しなかった」のです。
一方で、東洋史にも関心のあった私は、人文科学研究所での東洋史研究者のお茶会に混ぜてもらうようにもなりました。お茶やおやつをいただきながら、漢文史料の読解や甲骨文・簡牘史料の釈読などの話を伺っていたのですが、これをとおして「ことばをあつかう」ことのほんとうの意味を知ったように思います。「史料を一文字一文字読む」という歴史学の基礎を鍛えられたのはもちろん、「ことばひとつひとつがどのようなニュアンスをもっているか」を深く考えるきっかけにもなりました。これまでの戦国大名モデルでは、16世紀九州の社会のかたちを説明できない。それはモデル・理論をつくる際の”ことば”の使い方・選び方に問題があり、九州にかぎらず16世紀日本全体の社会のかたちを説明できていないのでは? とかんがえるようになったのです。
ほかにもさまざまな出会いによって、多くの学恩をうけ、研究をすすめてきました。たとえば九州大学で研究する機会をえたことで、九州の気候・景観・社会に浸り、また九州大学の皆さんからあらたな刺激を受け、視野がおおきくひろがりました。今の私は、こうした「旅」の結果としてできあがったといえます。ほんとうはひとつひとつ述べるべきでしょうが、紙幅がつきてしまいました。
つまるところ、「明確な研究目的」にしたがってここに来たのではないのです。意図せず、興味のおもむくままに実験的に旅をしていたら、こんなややこしい研究をするはめになり、ここにたどり着いたのでした。
ただ、いま振り返ると、こんなややこしい研究にいたった今に至るまで、その旅は楽しかったように思います。けっして意図した結果ではないのですが、だからこそはじめは考えもしなかったさまざまな楽しみに出会えたのです。
もとより人生とは、意図せずおもむく旅。ですから、そのときの気の向くままに旅するのもよいですよ? その先には、思いもよらぬ宝物が待っているものです。
永正元(1504)年の銘が入った墓石(一万田氏墓碑)。
こうした石造物もりっぱな史料です。

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