国境を越えて、人を繋げる【マリ=ノエル・ボーヴィウ 】

 高校生の私は、自分の未来を、思い描くことができませんでした。何になりたいか分からなくて、「勉強ができるから理系専攻にしなさい」と言われて、数学、化学、物理学ばっかりの授業が延々と続く毎日を送っていました。勉強に苦労して、精神的に不満な気持ちは抑えられませんでした。三年生の時、気晴らしに受けた哲学の授業に夢中になって、高校の図書室の日本文学の棚を全部読みました。卒業の先はどうするか決める時期になった時は、優しい、若い女性の哲学の先生に相談して、興味あるものを探求しようと思いました。日本語学科と同時に哲学科を選べなかったので、文学を専攻にしました。

 主選考を二つとったので、授業は圧倒的に多かったですが、毎日、充実した日々を送っていました。本を読むのは、幼い頃から好きだったので、やっと、自分にとって意味のある勉強の楽しさを、感じました。文学はただ、漠然と面白いという感覚だったのですが、次第に、なぜ面白く感じるのか考えられるようになりました。その上、今まで面白く感じなかった作品も、どんどん面白くように感じるようになりました。美と同じく、やはり面白さはものの質にあるだけではなく、見ている人の目の中にもないと無効です。自分の国の文学と言語を同時に再発見しながら、私にとってterra incognita (知らない土地)であった日本の新しい世界に入り、いつの間にか夢のように、一生この生活が続けられる仕事なら研究者しかないと気づきました。

モンペリエ、古本屋さんへの道

モンペリエ、古本屋さんへの道

 「なぜフランス人が芥川研究?」フランスでも、日本でも、よく聞かれた質問です。芥川に、世界における自分の位置の不安を表現してもらったのではないかと思います。大正時代に生きていた芥川は、必死に、日本文学を世界文学として、社会と繋がる文学として活かせていたと言えるでしょう。少なくとも、Anatole France, Georg Christoph Lichtenberg, Friedrich Nietzsche, Vladimir Nabokov, Anton Tchekhov等を芥川のお陰で読んだ私は、そのように芥川を読んでいます。

 なぜ、関東大震災の後に、彼の文学が断片化されるのかという質問を博士論文で探ってみました。「なぜ」と言っても、勿論、芥川に聞けないので、知る方法はありませんが、当時、芥川が読んでいたものや他の作家が書いたものを読んでゆくと、研究者として見えてくるものがありますが、現代を生きる個人としても、あらためて、世界のなかの色々なことが見えてきます。

 勿論、「文学研究者になりたい」と言うと、今の世界は、応援してくれる人があまりいません。私は医者の家庭に生まれたので、なぜ医者になってくれないの、と文句を言われました。七年間もかかった博士課程後期の院生生活も楽だったとは言えませんが、その割にとても幸せな時期でした。なぜかというと、簡単に言えば、言語と本で、人を繋げる事ができたからです。研究のために留学して、たくさんの出会いに恵まれました。東京で、ある銀行員と萩原朔太郎とフランスの現代哲学について話したり、ある大学の先生と芥川を巡って議論したり、あるバーのマスターと日本映画のことを話したり、あるフランス人の映画批評家のために、日本人の映画監督のインタビューの通訳をしたり、長野で俳句会に参加したりしました。一番記憶に残る経験は、3.11の後、2012年にパリでボランティアとして、石井光太の『遺体・震災、津波の果てに』を17人の仲間と一緒に翻訳したことです。その計画を立てた方は、パリ滞在していた日本人で、フランス語で文学活動をして、文学とともに生きている方です。今、私は広島大学に勤めていますが、彼の方は、詩を通してアラビア語を勉強しながら、レバノンのNGOに勤めています。お互い遠く離れたところで暮らしていますが、文学のお陰で生まれた友情は変わらないです。今の世界も、いくら情報化された社会になったといっても、本当に「繋がる」ことが大事だと言うべきでしょう。翻訳のお陰で境界を超える文学は、人の心と考えに直接届く、強い味方です。

 高校時代の哲学の先生が初めての授業で言った言葉を今も覚えています。「哲学者に最も必要なことは、子供みたいに、強い好奇心に満ちている目で世界を見ることです。」それは、研究者にも当てはまるでしょう。あなたも、自分の好奇心を活かして、言語と文学で人を繋げる研究者になってみませんか。

宮島の大聖院にて

宮島の大聖院にて


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