忘れえぬ言葉【溝渕園子】

 あなたには忘れられない言葉がありますか。著名人の格言、様々なメディアで見聞きした言葉、家族や友人や先生の一言……。そうした胸に刻まれた言葉が私にもあります。

 ロシアの首都モスクワへの留学中、近代ロシアの文豪トルストイの日本観というテーマでレポートの準備を進めていました。トルストイの東洋観において日本はどう位置づけられるのかを考えるために、コーカサス地方を舞台にした作品群を読んでいた時のことです。乗合タクシーに乗りこみ本を開いた私に、隣り合わせた年配の女性が「『コサック』を読んでいるのでしょう?」と声をかけてきました。「面白いわね。あなたのような若い日本の女性が、なぜ百年も前のロシアの文学作品を読むのかしら?」とのぞきこみ、「トルストイは、現代の私たちに何も語ってくれないのに。私が求める答えは、もう彼の文学の中には無いのよ」と静かに告げました。私はハッと胸をつかれ、言葉につまりました。かつてのロシアでは、文学は民衆の声を代弁し民衆を教え導くものとして、社会の中で確たる地位を築いていました。その女性の言葉には、答えがそこにあると文学に寄せる信頼と、ソ連からロシアへと体制の転換を経る中で味わった近代文学への失望とがせめぎ合っているように感じました。

 高校時代にショーロホフ「静かなドン」やパステルナーク「ドクトル・ジバゴ」に感銘を受けた私は、原文で読むことを夢見て大学でロシア語を専攻し、縁あって日露比較文学の道を選びました。ロシアを理解しようと学ぶのは当然の前提で、そのこと自体を真剣に自問した経験はほぼありませんでした。だからこそ、この女性の言葉は、私の心に突き刺さりました。現代の日本人である自分にとって、大きく隔たった一世紀前のロシア文学を読むことにどんな意味があるのか。なぜ、他でもなく、近代ロシアなのか。ロシア文学を読みロシアを理解したいという思いの、さらにその奥にある、自分が求めるものに気づかせてくれたこの言葉は、私の宝物です。「今の自分なら彼女にどう答えるだろうか」と問うこともあります。

トルストイ邸

トゥーラ県ヤースナヤ・ポリャーナの広大な敷地内にあるトルストイ邸。
1906年当地を訪問した徳富蘆花が贈った『不如帰』(英語版)等が保管されている。

 またある時、モスクワのチャイコフスキー記念コンサートホールで音楽を聴いていると、隣の老紳士に「演奏は良いのにこのホールの音響はひどいね」と話しかけられました。確かに、楕円形の一風変わった造りの音楽ホールで、花道らしき通路も設けられています。ここは、もともとロシア前衛派(アアンギャルド)演劇を代表するメイエルホリドの劇場だった建物を閉鎖後に改築したものです。1940年スターリンの粛清の犠牲となったメイエルホリドにかけられた嫌疑は、日本とイギリスの諜報部への協力でした。同様に、ロシア前衛派(アバンギャルド)の作家ピリニャークも二度の日本訪問を口実に、日本のスパイとして1938年に銃殺されました。

 「そういう問題に関心があるなら」と老紳士に勧められたのが、サハロフ博士記念人権センターでした。ここは、「水爆の父」と呼ばれる物理学者サハロフがノーベル平和賞の基金でつくったシェルター施設で、ソ連時代に粛清された人々の経歴をデータベース化し続けています。タイプライターの文字がにじむ粛清の犠牲者リストを見て、多くの作家や芸術家、日本学者の氏名の横に記された、嫌疑「日本のスパイ」、弾圧「逮捕」「銃殺」……という言葉の連なりに衝撃を受けました。粛清された日本学者たちが自らの命と引き換えに、後の世代につなごうとした思いを今と重ねて想像する時、自分にできることは何か考え始めました。

 国木田独歩に「忘れえぬ人々」という小説があります。無名の文士が、たまたま宿で相部屋になった画家の卵に、自分がめぐりあった名もない一人一人の思い出を語る短篇です。私にとって、偶然に隣り合わせた二人のロシア人は、人生の一瞬が交わった「忘れえぬ人々」でしょう。忘れえぬ人々の言葉は、その時々の光景や生じた感情をも包みこんだ本として一冊ずつ綴じられ、記憶の図書館に収められています。

 あなたの心の図書館にはどんな言葉の本が並んでいますか。すぐに取り出せる本もあれば、薄暗い片隅に忘れかけた本もあるでしょう。整理されずに箱に入ったままの本が、書棚に並ぶ日を待っているかもしれません。心の図書館は静かに時を刻み続けます。色あせた言葉も、眠っている言葉も、一たん息を吹き返せば、再び色づき、輝きを放つでしょう。人文学の知は、言葉に生を吹き込む上で大きな力になると思います。

サハロフ博士記念人権センター

サハロフ博士記念人権センター


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