今からみると何とも無駄な‥‥【中山富広】

 この私のお話は学問や人生に無駄なことなんかないのですよぉという話です(あってたまるかという勝手な思い込みなのですが)。今、無駄なことをしているのではないかという諸君は一つお付き合い下さい。

 大学でどのような分野の学問をしたいのか、それを見いだせないまま、とりあえず1975年に広島大学総合科学部に二期生として入学しました。高校時代には学ばなかったさまざまな学問分野の多さにまずびっくりしましたが、後期になって間もないころだったと思いますが、友達に古文書(こもんじょ)を読む会に出ようと誘われ、つきあいで出てみました。

 二年生になるときに、コース分けがありましたが、日本史学が学べるコースを安易に選んだのは、古文書に接する機会となった仲の良い友達や一つ上の先輩の勧誘があったからではないかと記憶しております。新しい学問分野ができるコースをと当初は思っていたのですが、結局は目新しくない日本史を選んでしまいました。古文書を読む訓練は、演習で渡辺則文先生に、また週に一回五時から七時まで後藤陽一先生に手ほどきを受け、三年になると後藤先生の後任の頼祺一先生に演習や課外の時間に指導してもらいました。しかし所詮、一年生の時からよく鍛えられている文学部の国史学専攻生とは違いますから、当然古文書を読めるという域にまでは達しませんでした。

 唐突ですが、古文書の基本である検地帳(今でいう土地台帳のことですね、写真参考、顔は筆者)分析での苦労話を紹介します。百姓の土地所有状況を知るためには、まず人別ごとに集計する必要があります。集計用紙に「ほのぎ」(田畑の地名)、田畑の等級、面積、石高、百姓名をひたすら写していき、そしてそれを一行ずつハサミで切り離し、百姓ごとに田畑の別など考慮しながら別の台紙に糊付けしていきます。そして電卓で計算していきます。しかしどういうわけか、この作業は夏休みにする場合が多く、扇風機が使えません。切り離した一行ごとの小紙片が吹き飛ばされてしまうからです。

検地帳を持つ筆者

検地帳を持つ筆者

 話が横にそれたようですが、私の学部レベルの古文書読解力では、卒業論文は検地帳をあつかうのが精一杯でした。ほかの史料にも挑戦したのですが、よく読みこめずに結局は江戸時代後期の広島藩の広村(現、呉市広町)大新開(おおしんがい)の名寄帳を分析するしかなかったのです。名寄帳というのは、当時の村役人が年貢を賦課しやすいように百姓ごとに集計した帳簿です。したがいまして切り貼りするという作業は免除されました。しかしこの名寄帳には田畑売買の記録が書き込まれたり、貼り紙があったりしました。1845年からわずか25年間でしたが、200人以上の百姓の田畑所有の変動を追及するという卒論に終始してしまいました。これも結構大変な作業でしたが、単純な作業でもありました。

 集計の作業は昭和50年代後半に有元正雄先生の大学院演習でも経験しました。当時はパソコンどころかワープロ専用機すら普及してなかったころです。ここでも集計用紙に一筆一筆写して切り貼りの作業をし、最後は電卓をたたきました。

 次に経験したのは平成に入ったばかりの頃で、戸河内(とごうち)村(現、広島県山県郡安芸太田町)の検地帳です。この村は大変大きな村でたしか3000筆以上の田畑屋敷がありました。当時はすでにパソコンがあり、記憶媒体は5インチのフロッピーディスクでした(写真参照)。ソフトはLOTUS123で連日データを打ち込みました。すべて打ち込んでから人別ソートを行いますと、並べ替えるのに10分以上もかかりました。最近では21世紀に入った頃、上筒賀・下筒賀村(現、安芸太田町)の検地帳をエクセルに打ち込みました。さすがにこのころのパソコンは瞬時にソートしてくれました。切り貼りしていた頃と比べると隔世の感があります。

 こうした卒論をはじめとする集計作業は、今からみると何とも無駄な作業でした(ホントに)。研究史的にみても何ら目新しいことは出なかったし、村落構造はある程度説明できても、肝心の百姓たちの具体像を描き出すことはできなかったのです。しかし無駄な作業の繰り返しのなかで、これまで常識と思われていたことが実は再検討の余地があるのではないかということに気づき、その後二、三の論点に取り組むことができました。

 人文学の分野によってはそれ自体が地味な作業の積重ねの上に成り立っている学問が少なくありません。皆さんも若いうちにあり余る体力と気力を使って、無駄な作業に取り組んでみませんか。(人生の、と言えればいいのだけど、とりあえず)展望は必ず開けてくると思います。

記憶媒体は5インチのフロッピーディスク

記憶媒体は5インチのフロッピーディスク


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