井手寺跡の発掘調査【野島永】

 私は広島大学の教員に採用される前に、京都府埋蔵文化財調査研究センターで遺跡の発掘調査にたずさわっていました。道路を建設したり、建物を建築する際に、土中に埋まっている遺跡を破壊せざるをえないことがあります。このような場合、発掘調査を行ない、遺跡の記録を作成して遺跡保存のかわりとするのです。

 今回紹介する私の失敗談は2001年夏、京都府南部の井手町にある井手寺跡の発掘調査を担当したときのことです。井手寺(井堤寺)は奈良時代に橘が建立した氏寺と考えられています。高級貴族の氏寺にふさわしく、壮麗な塔や金堂が8宇(軒)も建立されていたと伝えられていますが、今日その法燈を受け継ぐ寺はなく、寺域や伽藍配置、寺院建物の規模など、当時の様子についてはまったくわからなくなってしまいました。

 私が担当した井手寺跡の発掘調査は、府道の拡幅工事にともなうものでした。道路を広げる範囲がそのまま発掘調査区となるわけで、幅3メートル、長さ50メートルといった非常に細長い調査範囲となりました。寺域中心部と想定される地域とは同じ高台にはありますが、そこからは北西にかなり離れています。この調査区近辺は畑として利用されていましたが、耕作土のすぐ下は固い地盤となっているとのことで、礎石や屋根瓦などといった寺院建築を示す遺物は拾われてはいないとのことでした。このため、調査期間は2週間、最小限の掘削と記録保存で終了する段取りが組まれたのです。

 当時、私は井手町の北にある久御山町で弥生時代の大規模な集落跡の発掘調査を終えたばかりでした。2年後に発掘調査の報告書を刊行しなければならず、膨大な出土遺物の整理といった煩雑な室内作業を抱えていろいろと悩んでいました。この作業を一時中断して井手町の調査に赴くようにと命じられたため、正直なところ、あまり乗り気ではなかったのです。

 さて、やりかけにしてきた仕事に未練を残しながらも発掘調査を始めました。幅わずか3メートルたらずという狭い調査区では、寺院の建物跡を発見することなど、とてもできそうにないだろうという油断があったのでしょう、私は真夏の熱射のために白く乾燥した地面に建物の柱穴の痕跡を見抜くことができませんでした。すぐに建物や柱の痕跡はないものと思い込んでしまったのです。しかし、調査開始から数日後、上司が来て、「拳大の石の集まる部分が気になるね。」と言うので、気乗りしないまま石の多い部分を精査しました。すると、人の頭ほどの扁平な石を見つけることができました。すぐにそれが大規模な建物の柱の基礎だと直感しましたが、「まさか!」と思いつつ、調査区全体を再度、精査してみたのです。すると、信じられないことに柱の根元に掘られた一辺1.2メートルの大きな柱穴の痕跡が細長い調査区に沿って次々と一列に並んでみつかったのです。柱と柱の間が3メートルもある大型の寺院建築が広大な寺域の北西端にまで存在していたことがわかった瞬間でした。

 私はあわてふためいて数日間の調査期間の延長を申し出て、どうにかこうにかこの建物跡の調査記録を作ることができました。調査も終盤にさしかかった頃、さらに驚いたことに、固い地盤だと思い込んでいた地山面が実は土砂を強固に盛り上げた造成土であったことや、付近には白い石の基壇をもつ立派な建物が存在していたことまで判明しました。

 この発掘調査の成果を受けて、井手町教育委員会では寺域の中心部の一部分を発掘しました。その結果、小石で舗装された道路や三色の釉薬を施した華麗な瓦などが見つかり、橘諸兄の権勢を目の当たりにすることができました。

 発掘調査に必要なものは遺跡周辺の歴史環境や出土遺物に関する知識だけではありません。本当に必要なのは、偏見や思い込みに囚われない気持ちを持つことだったのです。私はこの気持ちが発掘調査をより稔り多いものにすることをあらためて実感しました。わずかな期間でしたが、私にとっては感慨深い調査経験となりました。発掘調査によって、今までよくわからなかった古代の社会の一面が明らかになったり、「古代史の定説」と思われていたことが一変することもしばしばあるのです。当時の人々が残していった遺跡や遺物に実際に触れてみて、新たな発見の当事者になってはみませんか。


参考文献 野島 永「井手寺跡・栢ノ木遺跡」『京都府遺跡調査概報』第102冊、(財)京都府埋蔵文化財調査研究センター、2002

井出寺検出遺構

井出寺検出遺構(柱穴)


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