カリフォルニア,黄金の夏【奥村晃史】

 「君は勉強しにきたのか、それとも仕事をしにきたのか?」デービッド・シュワルツの質問に私は迷わず、「仕事だよ。」と答えました。1990年11月初め、サンフランシスコ空港から彼の自宅へ向かう車中、聞き取りにくい彼の言葉の中で辛うじてわかった明快な質問でした。そして翌日、四輪駆動車を走らせてたどり着いたレッドウッドの鬱蒼とした森の底にはいくつかの細長い穴(トレンチ)が開いていました。「ここが君の仕事場だ。」日が短く雨の多いサンタクルズの冬、陽の射さない穴の底での仕事が始まりました。

 当時工業技術院地質調査所で活断層の研究をしていた私は、科学技術庁長期在外研究員として、一年間断層と地震の研究を行うためサンフランシスコの南、スタンフォード大学に近い合衆国地質調査所メンローパーク支所へ派遣され、初めてアメリカへ着いたところでした。その年にトルコと中部日本の重要な活断層で画期的な研究成果をあげていた私は自分の仕事に対する強い自負を持っていました。何かを学ぶだけでなく、アメリカの研究者と対等に仕事をできるのは願ってもないことです。日本とトルコでの十年近い経験から現場には強い自信がありました。

 ですが、最初に彼らに受け入れられたのは、日本の洗練された調査用具や技術でした。しかし、仕事を認められるためには、重要な発見をしてそれを言葉で納得させることが不可欠です。そのためには、未知のカリフォルニア英語でのコミュニケーションが必要です。数ヶ月経つと、耳と口も少しは慣れてだんだん会話が成立するようになりました。とにかく重要なことは質問をし、意見を持つこと、そしてその意見を正確に相手に伝えることです。この時一番役に立ったのが、大学受験で学んだ英語と、文学部の学生として受けた哲学や語学文学の教育でした。理学系大学院に進学して自然地理の研究者となってからも、数学や物理では理系出身者にかないませんが、論理と語学力では負けない自信がありました。

 アメリカへ来るまで、私にとって英語は紙の上の言葉でしたが、春の日差しがカリフォルニアに戻る頃には、少しずつ言葉が空気の中を飛び立つようになってきました。加えて、三月にはイタリア人がチームに加わり、怪しい英語が気軽に話せるようにもなりました。次は議論のタイミングが課題です。じっくり発言を練っていると大抵議論は終わっているし、イタリア人は考える前に話すし、議論にはまだ遠い状況が続きます。

トライアングルG地点のトレンチの最初のトレンチに断層を確認、中央が David P. Schwartz.

 やがて夏も近づき、新しい仕事場は真っ青な空の下、黄金色に夏枯れした草原が広がる牧場でした。ここにも見事な断層が現れ、調査は順調に進みました。ある日観察結果をまとめるため、トレンチの底に座ってじっくり議論をしよう、とデービッドが言います。彼は、この壁面には一回の地震の痕跡だけが認められることを雄弁に主張します。その痕跡に疑いの余地はありません。しかし、それと別にトレンチの底近くにも複数の、やや不明瞭な地震の痕跡がありました。彼はそれらを最新の地震でできた小規模な割れ目と考えていました。私にはその痕跡は別の古い地震を示す確実な証拠と見られ、二回の地震が記録されていると考えました。これは譲れません。気合いを入れて議論を挑みました。

 壁面のあちこちを検討しながら議論は延々と続きましたが、どうしてもデービッドは二回目を認めようとしません。仲間たちも彼の意見を強く支持します。陽が傾くまで、ずいぶん時間をかけて議論しましたが、結局誰も聞き入れてはくれず、慣れない英語での実りのない議論に疲れ切って、やり切れない気持ちでその日は終わりました。

 翌日、テレビ取材のチームが現場を訪れ、デービッドが昨日の場所でインタビューに答えます。「この壁面を詳しく分析した結果、われわれは二回の地震がここに記録されていることを確認した。」。彼は確かに「二回」と言いました。その場で彼に念を押したり問いつめたりはしませんでしたが、論文にも二回と明記されています。その時の心境をデービッドがこっそり呟いてくれたのはずいぶん後のことでした。ちょっと仕事をしている気になり、海外での仕事人生が始まったカリフォルニアの夏でした。

ロジャースクリーク断層トライアングルG地点のトレンチ

サンフランシスコ北方、ロジャースクリーク断層トライアングルG地点のトレンチ.


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