出藍の誉れ ― 学不可以已【佐藤利行】

 君子曰く、「学は(もっ)()()からず。青は(これ)(あゐ)より取れども藍より青く、氷は水 之を()せども水よりも(つめ)たし」と。

 性悪説で知られる荀子(荀況)の著『荀子』勧学(学問のすすめ)篇第一の冒頭の一段で、古来有名な言葉です。

 君子は言う、「学問は中途でやめてはいけない。青(い色)は藍草を材料にして作るが、藍草よりも青く、氷は水からできるが、水よりも冷たい」と。この言葉は、学問の功によって弟子が師よりも勝るようになることに喩えられています。

 学生時代のある日、研究の合間に、恩師の森野繁夫先生と雑談をしていた時、本当に弟子が師よりも勝ることができるのだろうか? という話になりました。森野先生は教師として弟子が自分よりも偉くなってくれること、これほど嬉しいことはない、と言われました。しかし、またこのようにも言われました。弟子が師よりも勝るというのは、師が怠けているからだ。学は以て已む可からず。休むことなく学問を続けていれば、弟子に追いつかれることなどない、と。

 そもそも文学研究には、いわゆる定年というものはありません。歳をとればとるほど、かえって研究に幅ができ深みができるように感じられます。かつて、或る老教授が、漢文資料がなかなか上手く読めずに悩んでいた学生に、漢文は歳を取れば読めるようになる、と言われたという話を聞いたことがあります。確かに、その通りだと思います。まさに「学は以て已む可からず」なのです。そういう意味では、文学を研究対象にしてよかったと思っています。

 ところで、文学を専攻している者にとって、もっとも困った質問をされることは、文学研究が何の役に立つのか? というものです。医学は人の命を救い、病の苦しみから人を助けることができます。工学は人間生活に役立つ物を作り出すことができます。こうした学問分野に対して文学がいったい何の役に立つのか? という問題です。文学研究を志そうとしてる皆さんは、この問いかけに対して明確な答えを持っていますか。

 こうした質問をされた時に、文学こそが人間の生活、社会生活において最も大切なのだ、と答えるようにしています。孔子は自分の学校で弟子達を教育する際に、『詩経』を教材としました。『詩経』とは、中国最古の詩集で、周の初めから春秋時代にかけての詩、三○五篇を孔子が編纂したものです。今、『詩経』の詩の中から教科書にもよく採られている「(とう)(よう)」という詩を見てみましょう。

桃之夭夭  (もも)夭夭(ようよう)たる

灼灼其華  灼灼(しゃくしゃく)たる()(はな)

之子于帰  ()() ()(とつ)

宜其室家  ()室家(しつか)(よろ)しからん

 これから嫁いで行こうとする村の娘を祝福するこの歌は、(きょう)(連想)の手法を用いて歌われます。すなわち、若々しい桃の木によって、若く健康な娘を連想させ、燃えるようなその花によって、娘の美しさを想像させます。この子が嫁いでいったら、きっとその家によく合うだろう、と娘の幸せを祈っているのです。

 今から二千数百年前に中国の黄河流域で歌われたこの歌は、現在の我々が詠んでも、そこに込められた思いは十分に理解できます。嫁ぎ行く娘を祝福する思いは、時を隔て国を隔てても共通なものがあるのです。

 今は「桃夭」の詩を取り上げただけですが、『詩経』の中には実に様々な詩が収められているのです。それでは、孔子は何故こうした詩を教材として弟子達の教育に使ったのでしょうか。詩という形式は、非常に短い言葉の中に、その詩を作った人の思いが凝縮されています。つまり、詩の内容を理解するということは、すなわち、その詩を作った人の思いを理解することになるのです。相手の立場になって考え、その思いを理解する、これが孔子の言う「仁」の思想です。これこそが人間生活、社会生活の基本であると孔子は考えたのでしょう。文学を研究することの意義は、まさにここにあると思います。

 

南京国士舘にて

南京 国士舘にて


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