「諦める」ために研究する【重松 恵梨】

 「諦める」という言葉は、現在では、「自分の願望が叶わず仕方がないと断念する」というネガティブな意味で使われています。この言葉の語源は「明らむ」、つまり、「つまびらかにする、明らかにする」ことだと考えられています。また、「諦」は仏教で「真理、道理」の意味があるそうです。本来「諦める」とは、「真理、道理を明らかにする過程で、自分の願望が達成できそうにない理由が分かり、納得してそれへの思いを断ち切る」というポジティブなものなのです。何かを「諦める」ために大切なことは、そこに至るまでのプロセスであると私は思っています。

  さて、私は現在、英語の小説における語りの研究をしています。「英語」という言語と、「語り」という人間のいとなみへの興味が、私を人文学の研究へと導いてくれたのですが、そこに至るまでには紆余曲折がありました。

  私は一度、大学院進学をネガティブな意味で諦めています。大学で文学の英語を読みながら一つ一つの言葉の意味を考え日本語に訳していく体験を通じて、文学の英語を通して英語を学ぶ奥深さを知りました。4年生の頃、卒業論文のテーマを決め研究を進めていくにつれ、大学院で学びたいという思いが芽生えました。しかし、その頃にはすでに就職活動を終えていました。英語と無関係の仕事ではなかったことと、経済的に進学するのは現実的ではなかったことから、就職する道を選びました。仕事で英語を使う機会は多かったのですが、仕事内容にはちっとも興味がわかず、数年後にはその会社を辞めていました。その後、英会話講師として働いてみましたが、利益目標ありきの教育は、私の肌身には合いませんでした。英語に関わる仕事をしていても面白くない、そう感じる日々が続いていました。

  そんな時、ふと大学での英語の勉強は楽しかったなと思い出し、何気なく恩師に近況報告をしました。私の散々たる状況を聞いて、「デフォーの小説でも読んでみたらどうか。戻ってきたかったら大学院においで。」と言葉をかけてくれました。恩師に言われるがまま、仕事の傍、デフォーの自伝小説『ロンビンソン・クルーソー』を読んでみました。大学を卒業し、社会人として何となく働いていた数年間、クルーソーの言葉を借りれば、私はずっと“rambling thoughts”を抱え、自分の行くべき道を探していたのだと思います。その頃の私にこれ以上しっくりくるものはありませんでした。私の目指す英語への関わり方は、単に英語を道具として使うことではなく、言葉に託された意味を英語の文学の中に見出すことだと感じていた若き頃の自分を思い出し、大学院に戻って文学の英語を研究する覚悟を決めました。

『ロビンソン・クルーソー』のタイトルページ(ECCOより)

  大学院でデフォーの自伝小説の研究に励む中、「語り」に興味を持つようになりました。人が語ることはあまりにも普通のことなので、「語り」についてそれまで深く考えたことはありませんでしたが、文学作品を読んでいると、実に様々な「語り」があり、それは作品の解釈に大きな影響を与えていることに気づかされます。例えば、デフォーは、自伝という語りの形式を通して、人生を語ることは自分を語ることであり、まさに自分とは何かを見出す方法であると教えてくれます。デフォーの自伝語りは、一人称の語り手の現在と過去を複雑に絡み合わせることで、様々な自己の表現を可能にしており、それらは言語表象として、テクスト上に見事に浮かび上がってきているのです。私は、語りのスタイルと視点の関係を言語表象から論理的に説明することで、テクストのより深い解釈を目指しています。語りは常に変容し、その仕組みについて普遍的な答えを出すことは難しいですが、私たちの生活の中に溢れる「語り」について考えていくことは、人間の歴史に触れることであり、人間の理解に役立つことだと信じています。

  諦めきれなかった思いと共に、私は研究者という道を選んだのです。現在私は、「英語」という言語と「語り」という人間活動の真理を「諦める」ために日々研究に打ち込んでいます。今度は諦めがつくまで、とことん突き詰めていきたいと思っています。

「語り」の研究:国際誌Language and Literatureでの研究成果発表
(https://journals.sagepub.com/toc/lala/27/2)


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