文学部に転じて【末永高康】

 大学に入った時は理学部でした。三年に上がる時に文学部に転学部したのですが、転学部の理由はあまりはっきり覚えておりません。科学それ自体よりは、科学をささえるものの見方の方に関心が動いていたというのはありますが、今から思うに、これは後付けの理由で、実験に明け暮れる生活についていけないと感じたのが本当の理由だったようにも思います。とにかく理系の世界から抜け出そうとして、文学部の友人に、「科学史か科学哲学のようなものを学びたいのだが」と相談をもちかけました。「それなら哲学か西洋哲学史だろう」と、彼は文学部の専攻案内のパンフレットを見せてくれます。そこで、哲学・西洋哲学史専攻の所をのぞいて見ると恐ろしいことが書かれています。「ドイツ語、フランス語については、入学時の英語のレベルに達していること。ギリシャ語、ラテン語の基礎は身に付けていること。さもなくば、この門を叩くべからず。」唖然としているわたしに、インド哲学を専攻したいというその友人は、「文学部なんだからそのくらいの語学は当然でしょ」と追い打ちをかけてきます。

 前途を絶たれた思いでパンフレットのページをめくると次は中国哲学史専攻です。文章のトーンが全く違います。末尾には「何の準備もなくてよい。やる気さえあれば」とまで書かれています。中国にも独自の科学技術の展開があったはずだ、などと適当な理由をつけて、なかば心は中国哲学史の方に移っておりました。あのパンフレットがもし西哲、印哲の順に書かれていたならば、わたしは理学部にとどまっていたかも知れません。

馬王堆帛書の絵葉書

馬王堆帛書の絵葉書(復旦大学程少軒先生作成)

 「何の準備もなくてよい」を鵜呑みにして、中国哲学史の研究室に入ったものの、文学部の演習というのはそれほど甘いものではありませんでした。与えられるテキストはただ漢字がならんでいるだけの白文です。どこで句読を切っていいのかすら分かりません。語句のつながりや句読についていくつもの可能性を考えて、辞書などの工具書と首っ引きで白文と格闘する毎日でした。研究に値するレベルで外国語が読めるようになるのには地道で長い訓練が必要です。ただ、ありがたかったのは、漢文の場合、訓読という読解の技法があることで、何の準備のなかったわたしでも、学部を卒業する頃にはそこそこ漢文が読めるようになっておりました。これが他の外国語だったら卒論が書けていたかどうかあやしい所です。

 日々白文と格闘していると科学への関心はどこへやら、卒論、修論で扱ったのは漢代儒教のかなめの一人である董仲舒でした。その後、研究対象を戦国時代のいわゆる諸子百家へとシフトさせていったのですが、残された諸子の文献はそれほど多くはありません。文献は多くはないのに研究の蓄積は厚いですから、なかなか新しいことが言えません。新しいことが言えない限り、論文は書けませんから、研究はすぐ壁にぶつかってしまいました。

 この状態を救ってくれたのが新出土資料でした。前世紀末より中国では戦国時代から秦漢時期の書籍の実物が次々と発見されています。『論語』や『老子』といったわれわれに馴染みのものも出てきておりますし、すでに滅んでしまってこれまで全く知られていなかったような文献も多数出土してきております。これらの新資料が示す中国古代思想史の姿は、これまでわれわれが想像していたものとは大きく異なるものでした。これらの新しい資料と古くからの資料を突き合わせながら、戦国秦漢期の思想史を新たに描き出していく作業が、現在のわたしの仕事です。

 思えば、何も考えずに安易にこの世界に飛び込んでしまったのですが、そんなわたしが研究を続けていられるのは、やはりこの世界のふところの深さにあると思います。中国の思想、文献というのは、日本人にとってはどこから取りついても取りつきやすいですし、どこから取りついてもその奥行きは恐ろしく深い。この世界の魅力を少しでも多くの人々と共有できたらと思っております。

性善説の誕生

性善説の誕生
ー先秦儒教思想史の一断面ー 


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