大海に釣り糸を垂れる―ヴェトナムの「史料革命」に直面して―【八尾隆生】

 1979年3月、私は大学受験のため宿泊していた宿で、中越戦争の報道を見ていました。高校時代から世界史、特に中国史が好きだった私は、文学部史学科を進路に選びましたが、このとき自分がヴェトナム史と一生のつきあいになるとは夢にも思いませんでした。

 3回生になって私は東洋史学研究室に進学しましが、目標の定まらない私を待っていたのがM先輩(現阪大教授)とU助手(2000年より2012年まで私の隣部屋の主で本学名誉教授)でした。曰く「てっとり早く専門家になりたければあまり人のやらないことをやればよい」。この悪魔のごとき囁きにより、不純な動機から私の研究は始まったのです。

 さて、ヴェトナム史を志してまず当惑したのが、何をとっかかりにすればよいのかということです。東南アジア研究センター(現東南アジア研究所)で開かれていた月例研究報告会と史料講読会が、唯一ともいうべき貴重な東南アジアの授業となりました。

 そして大学院に進学しても最大の問題は解決しませんでした。それは史料の問題と、ヴェトナムになかなか留学できないという現実でした。

 中国史や他の東南アジア各国史を研究する同学が次々に留学に赴く中、あせりの中で3年間の博士課程が過ぎました。そして学振の特別研究員に採用され、更に2年間の執行猶予が与えられました。そしてその間にヴェトナムでは開放政策が軌道に乗り、学術の面でも外国人に門戸が大きく開かれるようになりました。所謂「ヴェトナムの史料革命」です。まさにその時に、私はようやくハノイ大学ヴェトナム研究協力センターに留学する機会を得ました。

 留学中は、今までの苦悩がうそのように史料が集まりました。数回だけでしたが地方にも史料収集に出かけ、多くの史料や人との出会いがありました。それがその後の私の調査活動に大きく役立つこととなりました。

ヴェトナム・タイビン省での史料収集風景

ヴェトナム・タイビン省での史料収集風景(2007年)

 仮に歴史研究者を料理人にたとえるなら、さしずめ史料は食材となりましょう。そして普通の料理であれば、それらは「市場」である図書館や文書館に行けばかなりのものが入手できます。しかし、私は市場でも容易には入手できない食材を扱う料理(研究対象はヴェトナム黎朝史)を選んでしまいました。市場で手に入らねば自分で探すしかありません。

 93年に帰国し、大阪外国語大学に奉職した後も、「食材探し」は続きました。しかし情報網の整備されていないヴェトナムにあって、「食材」を探すということは、まさに村落という「大海」に釣り糸を垂れるようなものでした。留学時代に築いた人脈から「ポイント」を絞るのですが、効率的に獲物が捕れたという経験が私にはありません。しかも、採れたものには「図鑑」(史料解題書)にも載っていない得体の知れないものがあります。期待していたものと全然違うものが釣れることもありました。毒さえあるもの(偽史料や改竄史料など)もかかりました。それをへっぽこ料理人である私がおそるおそる調理をしても、日本料理や中華料理、フランス料理に比べてうまいわけがありません。料理方法すら他の料理人のやり方をまね、料理に食材を合わせるのではなく、食材に料理をあわせることが続きました。それが私のヴェトナム「料理」の実際です。

へっぽこ料理の一応の集成―拙著『黎初ヴェトナムの政治と社会』―

へっぽこ料理の一応の集成―拙著『黎初ヴェトナムの政治と社会』―

 料理の七割は食材によって決まるといいます。それが本当かどうかは知りませんが、もしそうであるなら、私のような料理人のできることは、これはという食材を入手し、まんざらでもない料理ができたときの感動を忘れず、大海に釣り糸を垂れることです。問題は、このような極めて採算の取れない営業が出資者(御上)からいつまで許されるか、そしてあとを継いでくれる若い職人が育つかということです。

 「そこの若いお客さん、手っ取り早く店をはじめたければ、珍しい料理屋をやるのが一番ですよ」あれ?これは誰の言葉でしたっけ。

 


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