メールマガジン No.72(2016年3月号)

リテラ友の会 メールマガジン No.72(2016年3月号)
2016/3/24 広島大学大学院文学研究科・文学部

□□目次□□
1.リテラ芸術鑑賞会「バレンタイン狂言会」レポート
2.文学研究科(文学部)退職教員あいさつ
3.平成27年度優秀卒業論文発表会
4.文学研究科(文学部)ニュース
5.広報・社会連携委員会より

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【1.リテラ芸術鑑賞会「バレンタイン狂言会」レポート 博士課程前期1年 藤元一郎】

  2月14日に催されたバレンタイン狂言会に参加してきました。西洋から伝わったバレンタインの日に、日本の古典芸能である狂言を聞くという、和洋折衷した大変興味深いイベントでした。英文学を研究している私ですが、「日本人である以上、日本の文化や芸能にも触れなければ」という以前からの思いが、バレンタイン狂言会へ参加するきっかけとなりました。

  バレンタイン狂言会第1部は「入試に役立つ(かもしれない)古典の言葉」と題した、妹尾先生のミニ講義から始まりました。笑いを交えた和やかな雰囲気での講義で、狂言は古典芸能のなかでも比較的新しい芸能であり、現代に通じるものがあるということを学ぶと共に、その狂言で用いられる言葉や言い回しなども学ぶことができました。

  そして、いよいよ第2部では狂言が始まりました。
  最初の演目は「御茶の水」。住職に水汲みを頼まれた見習いの坊主と門前の娘との恋を滑稽に描いた演目でした。水を汲みながら、ふたり楽しい時間を過ごしていると、帰りが遅いのを心配した住職がやってきて、見つかったふたりは大慌てで、最終的には三人がもつれ合う、という筋でした。

  次の演目は「濯ぎ川」。嫁と姑に毎日こき使われる夫を主人公とした演目で、不満が溜まった夫は機知を利かせて、「紙に書かれたことならば何でもする。それ以外のことはしない」と宣言。夫はこれによって多少の逆襲を果たしますが、最終的には嫁と姑の激昂をかってしまうことになる、という筋でした。

  ふとつの演目ともに笑うことができ、存分に楽しむことができました。また、私の関心を特に引いたのは、暗転を使わない場面移動や、舞台上での立ち振舞いによって如何に観客の想像力を刺激するか、ということでした。私はイギリス・ルネサンス期を代表する詩人・劇作家のシェイクスピアを研究しているので、これらの点でも大変興味深く観劇することができました。

  普段接する機会のない日本の伝統芸能を無料で観劇する機会を提供して頂いた、リテラ芸術鑑賞会と、狂言師の茂山千五郎家のみなさんに感謝しています。                      
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【2.文学研究科(文学部)退職教員あいさつ】           

○文学研究科私設応援団員を志望します- 歴史文化学講座(日本史学分野)教授  西別府 元日                         

  学生たちの「反乱」によって、大学そのもののあり方が問われていた1969年6月広島大学に入学、あれから47年、人文社会系の学問にたいする未曾有のパッシングが吹きあれる2016年3月、25年間勤めた広島大学文学研究科を退職することとなりました。大病・大過なく勤務できたのも、リテラメールマガジンにご縁のある方がたの賜と感謝しております。

  思えば47年前に問われたことのひとつは、大学の開放と学問をすることの意味・目的をしっかり胸に刻むことでした。大学の開放という点については、いささか一部の方面への偏重がつよく、学問内容の「成果」や「評価」、さらには、その存続にまで踏み込むような「開放」が叫ばれています。このような動きとは別に、真の開放をもとめて、広島大学文学研究科では、「21世紀の人文学」をはじめ「地域アカデミー」や「文藝学校」など独自の接点をつくり、また内海文化研究施設の季例会など、文字通り研究科建物のなかへ市民の皆さまをお招きする試みがおこなわれてきました。さらには、市内では市民講座を独自に開催されている方がたもいらっしゃるようです。このリテラメールマガジンをお読みいただいている皆さんも、これらの会などにご参加いただいた方が大半ではないでしょうか。

  こうした開放の一翼、ごくわずかな部分をになうために、私自身も、自分の学問を見つめ直し、より地域に入っていける課題を模索してきました。そこには地域社会のアイデンティティ確立にいささかの寄与ができればという思いもあったように思います。

  教員という殻を脱ぎ捨てるこれからは、地域社会・市民社会の一員として、文学研究科を応援していきたいと思っています。文学研究科の構成員の皆さまには、さまざまな機会を通して自分の学問を積極的に語りながら、このリテラメールマガジンをお読みいただくような「文学研究科の応援団員」を獲得していく、ご努力をお願いしたいと思います。

「人文学は虚学である」、これまで文学研究科のなかで再三耳にしました。ご本人は「役にたつ学問」にたいして、精神性の高さと世俗的ではないことを強調されようとされたのでしょうが、人間・人類社会が、数千年の営みのなかで創りあげられてきた学問に、そのような区分が必要でしょうか。自らの生活や人間関係、自然とのふれあいやその利用のなかで生じたさまざまな疑問・矛盾や苦悩等々、それらを解決するために登場した個々の学問に、自然系や人文系の区別はあっても、役にたつ・たたないなどの区別はありえないのではないでしょうか。自分の学問、その起点などの、真摯なアピールをお願いします。

○お世話になりました。-欧米文学語学・言語学講座(英語学分野)教授  地村 彰之                 

  この3月末で広島大学を定年退職することになり、2月14日に最終講義「英語研究と私」をさせていただきました。学期末のご多忙なときに東は東京、西は九州からもおいでくださり、ありがとうございました。遠くに住む娘たちも孫を連れて来てくれました。このような思い出に残る記念の会を開催して下さった皆様に心から感謝しております。以下は、広大人通信増刊号(退職者特集)に書いたものを基に字数が許す限り補足したものです。

  広島大学との関わりは、昭和46年(1971年)の教育学部入学から始まります。大学院博士課程後期を中退して昭和54年4月に大谷女子大学(現大阪大谷大学)に就職が決まり広島を去るまで、4年生の時に一年間アメリカ合衆国シンプソン大学へ国費留学したこと、大学院文学研究科で教育研究者になる第一歩を踏み出したことなど思い出が沢山あります。米国から帰国した昭和50年(1975年)には広島カープが初優勝をしましたので、忘れることはありません。大学院では世界的なチョーサー学者である桝井迪夫先生と18世紀の英語研究をしておられた河井迪男先生の下で、チョーサーの言葉と文体及び英語のフィロロジカルな研究を始めることが出来ました。

  その後、昭和61年4月に三重大学人文学部へ転勤になりましたが、平成4年(1992年) 4月には広島大学学校教育学部に戻ってきました。その年から東千田キャンパスにて、学内非常勤で文学研究科や文学部の授業を担当させていただくようになりました。その頃の大学院生が現在大学などで要職について活躍しておられます。広島市内から西条キャンパスへの移転という大事業。平成10年4月の文学部への配置換え。夜を徹して行われた教員会と文学研究科の改組。在外研究員で10ヶ月間オックスフォード大学に派遣されたことなどが脳裏に浮かびます。広大では通算24年間学生の指導をし、卒業生・修了生を教職・教育研究職だけでなく様々な分野へ送り出しました。時が経ち、西条は落ち着いたキャンパスになりましたが、やはり広島市内のキャンパスのことは未だに忘れることが出来ません。長い間お世話になりありがとうございました。

○ありがとう。元気で。また会おう。-欧米文学語学・言語学講座(フランス文学語学分野)教授  松本 陽正

  卒業生に贈る寄せ書きに、いつ頃からか、「ありがとう。元気で。また会おう。」と書くようになった。卒業生が何人いようと、同じ言葉だ。

  なぜ「ありがとう」、なのか? フランスのモラリスト(人間探究家)ジョゼフ・ジュベールは「教えること、それは二度学ぶことである」との名言を残しているが、広島大学文学部・文学研究科で「教えること」をとおして多くのことを学ばせていただいた。演習は、僕自身にとっても、正確に読み解くための鍛錬の場だった。講義をとおして得たものは多い。文学部・文学研究科に在職中、三冊の本を上梓することができたが、いずれも講義の準備や講義中に得たことをまとめたもの、つまり授業の成果と言ってもいいものだ。画一的な授業、教師が学ぶことのない授業では、学生に刺激を与えることなどできないのではなかろうか?そのような授業は、真の教育とは言えないのではなかろうか? 

  ところが、この一年、講義で喋っている途中で、「ちょっと待て」と言ってから、ふと浮かんだアイデアをメモすることがめっきり少なくなった。「潮時だろう」、そう感じている。

  1969年、大学紛争のただなか広島大学文学部に入学し、学生・院生として11年間を過ごした。私学で10年間教鞭をとった後、1990年より教員として文学部に戻り、専門の学生・院生相手に26年間教師として過ごすことができた。幸せな学生生活・教員生活だったとつくづく思うし、広島大学文学部・文学研究科で学び、教師として過ごせたことを誇りに思ってもいる。

  同僚の先生方、職員の方々には、ずいぶんお世話になりました。最後になりましたが、一言。「ありがとうございます。どうかお元気で。またお会いいたしましょう。」

○12年間の情事-欧米文学語学・言語学講座(フランス文学語学分野)教授 サントニ ジャン・ガブリエル
                  
  初めて広島大学を訪れたのは、日本フランス語・フランス文学会の秋季大会の時で、20年前のことです。

  筑波大学にいた私は、西日本のこんなに遠い所まで来るのは初めてのことでした。当時の東千田町のキャンパスの記憶はあまりありませんが、大会を主催された広大の先生方の心のこもった“おもてなし”は、はっきりと覚えています。大会後、滞在を1日延長して、不幸にも最大の悲劇を経験した広島を観光しました。原爆ドーム、平和記念資料館を訪ねた後、関東では見られなくなった路面電車「広電」に乗って、宮島まで行きました。折よく秋のことで、もみじ谷の見事な紅葉、鹿、弥山原始林のモンキーセンターと、まるで京都、奈良、日光が一カ所に集められたようでした。最後に広島の駅ビルで有名な“お好み焼き”を食べたのも良い思い出となり、絶対にまた来たいと思っていました。

  すると運良く、2004年の4月から広大に迎えていただくことになりました。東広島の新しいキャンパスでは、優秀で温かい先生方、親切な事務の方々、そして熱意のある学生達に恵まれ、もっと早く広大に赴任する機会がなかったことが悔やまれます。西条で過ごした12年間で、多くの友人や思い出ができましたが、有名な映画 Hiroshima mon amour(『24時間の情事』)の中で岡田英次がフランス人の女性に「君はヒロシマで何も見ちゃいない」と言っていたように、私もこのフランス人女性と同じなのかもしれません。ただ、私はこれからも西条に住み続けたいと思っております。これはひとえに、私を暖かく迎え入れ、心地よい居場所を与えてくださった広大の皆々様のお陰と深く感謝しております。
      心より敬意を込めて、「広大ありがとう!」「広大万歳!」

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【3.平成27年度優秀卒業論文発表会】

  2月19日(金)文学部大講義室(リテラ)におきまして、「平成27年度優秀卒
業論文発表会」が開催されました。今回のメールマガジンでは、その中から2人
の卒業論文の要旨を紹介いたします。
また、指導教員からも一言添えていただきました。

○「井上ひさし研究—「ヒロシマ三部作」における被爆体験の継承について」日本・中国文学語学コース 日本文学語学専攻 加地由利香

  井上ひさし(1934‐2010)は戦後日本を代表する劇作家です。
井上は「おそらく私の一生は、ヒロシマとナガサキとを書きおえたときに終わるだろう」と述べ、『父と暮せば』(1994)『紙屋町さくらホテル』(1998)『少年口伝隊一九四五』(2008)という三つのヒロシマに関する作品を書きました。井上は作品を通して「被爆体験を後の世代に伝えよ」というメッセージを残しています。卒業論文では登場人物たちが物語を通していかにして「継承」を担っていくのかに注目して読解し、井上が今を生きる人々にどのように原爆を「継承」してほしいと願っているのかを考察しました。

「ヒロシマ三部作」の分析を通してわかったこととして、「紙」の重要性が挙げられます。「ヒロシマ三部作」には多様な紙が登場し、物語で大きな役割を果たします。井上は数百篇の被爆者による手記を読んだとされ、そのことと関連があると考えられます。

  また三部作の相違点は、作中で継承を担う人物が『父と暮せば』では被爆者、『紙屋町さくらホテル』では非被爆者、『少年口伝隊一九四五』では継承を担う被爆者の死というように変化している点です。この変化には読者や観客と「継承」の距離を接近させる効果があり、井上は登場人物たちが負う「継承」の役目を、読者や観客にも自分のこととして考えさせたかったのではないかと考えました。

  井上は生前、ナガサキとオキナワについて書きたいと考えていたようですが、発表することなく亡くなりました。井上の「戦争とは何か」「原爆とは何か」という問いは未完のままであり、その思いを継いだ後の人々によって、演劇『木の上の軍隊』(2013)・映画『母と暮せば』(2015)といった作品が発表されています。井上ひさしがどのように「継承」されていくのか、今後はそのことにも注目して研究を続けていきたいです。

[指導教員コメント 有元伸子教授]
  加地由利香さんは、愛媛県出身で、小学校の修学旅行で広島に来て受けた平和学習に大きな衝撃を受けたそうです。戦争文学・原爆文学を研究するために広島大学に入学したという言葉どおり、初志貫徹、卒業論文では井上ひさしの「ヒロシマ三部作」と呼ばれる原爆を扱った戯曲群を対象として研究しました。とくに震災以後、「核と文学」はきわめて重要な問題系に浮上していますが、原爆文学研究においても小説に比べて戯曲の研究は手薄で、すぐれた対象選択だと言えましょう。

  昨年、加地さんは私や院生たちと一緒に『父と暮せば』の舞台を観に行きましたが、個人でも『少年口伝隊一九四五』を観劇したり、学部生ながら全国組織の原爆文学研究会にも参加して、積極的に研究につなげてきました。加地さんの研究は、「被爆体験の継承」をキーワードに、井上戯曲の設定を綿密に調査したうえで、言葉の魔術師たる井上の言葉遊びをも丁寧にときほぐして、読みの可能性を拡げていくものです。

  卒業論文では「ヒロシマ三部作」を文学として読解しましたが、今後の課題として、演劇としての考察や、映画化など井上作品の後代による「継承」の追究が視野にあるようです。卒業後は本学の大学院に進学しますので、さらなる研究の飛躍を期待しています。

○「ヴェトナム黎鄭政権期の服制」歴史学コース 東洋史学専攻 長野竜士

  本卒業論文で検討したヴェトナム黎鄭政権期は黎朝(後黎朝:1428~1527、1533~1789)後期(1533~1789)にあたり、皇帝黎氏が権臣鄭氏の傀儡と化していた時代であった。鄭氏は1599年には皇帝から王爵を授与され鄭王府を開き、議政の場を黎朝朝廷から鄭王府へと移した。本稿は、そうした時代にあって、鄭氏と黎氏の権威が衣服によってどのように可視的に表現されたのかを分析したものである。

  そもそもヴェトナムの服制は中国の服制に倣っており、黎鄭政権期をむかえる前に貴賤尊卑を可視的に区別する役割を担うものとなっていた。黎鄭政権期以前は衣服の序列は官品に従っていたが、黎鄭政権期には爵位の有無や「皇帝の子・鄭王の子」であるか否かということが衣服の序列を左右するようになった。

  文武百官の服制に着目すると、公爵が服制上最高位にあり、王世子(鄭王の嗣子)と同じ衣服が支給されていた。しかも公爵は鄭氏一族に専ら支給されており、王世子の衣服は皇太子(皇帝の嗣子)の衣服よりも高い等級にあった。つまり、文武百官の服制には、鄭氏一族が高位にあるという認識を衣服によって可視化し、鄭氏の一族としての権威を確立する意図があったと考えられる。

  皇帝の衣服については、1182年から黎代を通して「黄服」が皇帝専用に規定され、「黄服」がいわば「皇帝の証」として機能していた。黎鄭政権期以前は各種儀礼のどの場面においても皇帝専用の衣服が規定され、皇帝の至尊性が可視的に表現されうるようになっていたが、黎鄭政権期に入ると皇帝専用の衣服を着用する機会は減らされていった。

  鄭王の衣服については、配下に「黄服」の着用を勧められても「皇帝専用である」として自重したが、冠は黎帝と同じものを着用し、皇帝の尊厳(「黄服」)を犯さない範囲で出来る限り権威を得ようとしていた。黎鄭政権期には黎帝は政治権力のみならず権威や至尊性さえも縮小し、鄭王は可視的身分表象(衣服)によって一族とともに権威を最大限主張したのである。

[指導教員コメント 八尾隆生教授]
  長野君は教養ゼミからのつきあいで、当時から学問的に光るものがあることには注目していた。ただ反発をかうかもしれないが、教師の視線からすれば典型的な「ゆとり世代」の学生で、総合的な学業成績は決して褒められたものではない。出席不良などがその主要因である。なにせ一コマ目の授業は寝坊するのが当たり前というのだから(嘆)。しかし演習授業報告では群を抜いた存在感を示し、どんな卒論を書いてくれるのかと期待大であった。

  その期待に違わず、同君は忙しい就活がありながらも、八尾の研究室にあるヴェトナム漢文史料を丹念に読み、自ら問題設定を行い、ヴェトナム本国ですら先行研究のない、「服制」から可視的に権力者間の力関係をみるという画期的な論文を完成させた。感服の限りである。

  学費がもっと安ければ、将来の学術的ポストがもっと多ければ、同君ならば研究の途につき、私などあっという間に抜き去っていくんだろうなと寂しい気持ちがする反面、ホッとしている自分が恥ずかしい。

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【4.文学研究科(文学部)ニュース】

○平成28年度広島大学入学式
【日時】平成28年4月3日(日)11時 開式
【場所】東広島運動公園体育館(アクアパーク)

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【5. 広報・社会連携委員会より 水田 徹】

 今年もまた、別れと出会いの季節がやってまいりました。

  文学部・文学研究科でも将来有望な多くの学生が巣立っていきました。そして4月には将来に向かって大きな夢を持った多くの学生が入学してきます。一方その受入れ側では、今年度は教員4名が定年退職を迎えられ、この度のメルマガにご投稿いただいております。それぞれの想いが込められた内容であり、読者の皆様は、感慨深く読まれたことと思います。その他にも、新天地を開拓された3名の教員(太田淳准教授、太田出准教授、瀬崎圭二准教授)が文学研究科を後にされます。今後のご活躍を祈念しております。

  ところで、話は変わりますが、今年度は国立大学には人文社会科学系の学部・研究科はいらない?といった報道に踊らされた感があります。改革の真っただ中にある日本の国立大学の中で広島大学の文学部・文学研究科は不滅です!と自信を持って言えるような教育研究組織であってほしいと願うのは関係者の共通の思いだと察します。では、そのためには、広報・社会連携委員会として何ができるのでしょうか?新年度からは、これまで以上にいろいろと実行していかなけれ
ば!と思っている次第です。

  さて、現在の広報・社会連携委員会は本号でその役目を終わります。新年度は新たな委員のもとで様々な企画を担当することとなります。きっと、新鮮な目で委員の役目を遂行していただけることでしょう。読者の皆様!引き続き来年度もこのメルマガの配信をどうぞお楽しみに!!!
          
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リテラ友の会・メールマガジン

オーナー:広島大学大学院文学研究科長 勝部 眞人
編集長:広報・社会連携委員長 吉中 孝志
発行:広報・社会連携委員会

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