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文学研究科ロビーの展示替えをしました

庶民が記録した文書≪村方文書≫~備後国恵蘇郡奥門田村栗本家文書~

恵蘇(えそ)郡奥門(おくもん)田(で)村は、出雲国との国境に近い雪深い農村で、現在は広島県庄原市高野町奥門田です。この栗本家は幕末期から庄屋を勤めた家で、20世紀初頭には約40町歩の地主でもありました。
同家には19世紀を中心に約1,000点の史料が残されています。地租改正関連や多数の小作証文などに特色ある史料が見いだせ、卒業論文などには恰好の史料群といえましょう。

「備後国恵蘇郡高之山(たかのやま)之内奥門田村地平(じならし)帖」(明暦2年、1656年)
これは広島藩から分立した三次藩が実施した検地の記録(検地帳)です。左頁の最後の二筆に「むろや次右衛門」「同人」とあるのが当時の栗本家の当主です。

「往来手形一札之事」(天保7年、1836年)
往来手形とは関所を通過する際に示す身分証明書のようなもので、この手形は寺と庄屋が連名で発行しています。この親子が行き暮れたときには泊めてもらいたい、病死したときには連絡には及ばず、現地の作法によって葬ってもらいたいと記されています。

 

「去り状之一札」(文久3年、1863年)
これはいわゆる「三行半(みくだりはん)」とよばれた離縁状です。ただこの離縁状は通常とは違って、おせきが夫を貰うことは承認するが、おせきが他へ嫁ぐことは認めないとすることから、婿入りしていた直蔵の「去り状」というべき珍しい離縁状と考えられます。

「戸籍帖」(明治5年、1872年)

 これは明治政府が作った初めての戸籍(「壬申戸籍」の下調べ帳です。奥門田村全員が把握されたもので、名前の下に生年が、上の方に誕生日が記入されています。ちなみに栗本林右衛門の妻キミは後妻であり、先妻はキミの姉スエで天保12年に亡くなっています。スエの子で長男文三郎の生年は天保元年です。

「恵蘇郡田方景況」(明治10年、1877年)
「字分概略図」(同上頃)

これらは地租改正事業の過程で作成されたもので、上は恵蘇郡全村の農業生産環境にかかわる土質、灌漑設備、日当り、水害・旱害所、反当播種量などを記したものです。下は広島県下の標準村の字分界図です。

これらは栗本家の地主経営の一端を示す史料で、「田畑草山懸渡定約控」(明治12年、1879年)は小作契約証を一冊にまとめたものです。表紙には明治12年とありますが、契約証は明治19年以降のものがほとんどです。「小作田地収穫出来立見積帖」(明治15年、1882年)は小作田の1筆ごとの面積と収穫米を記録したものです。「耕地山林懸ケ米領収簿」(明治16年、1883年)は小作人ごとに小作料納入を記録したもの、また「田地収穫見積高反別書出帖」(明治31年、1898年)は小作人ごとに明治31年と32年の小作田の面積と収穫米高を見積もった記録です。

 


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