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文学研究科ロビーの展示替えをしました

東西の拓本

  拓本は石碑や青銅器などの立体的な器物に刻まれた文字や文様を紙に写し取ったものです。写真では写し取ることが難しい文字や文様の細部も忠実に再現されることから、現在でも碑文やレリーフを記録する際に欠くことのできない複製技術となっています。古い時代に取られた拓本の場合、被拓物がすでに無くなっていたり、破損、摩耗して文字が読めなくなってしまっていることも多く、それ自体が貴重な歴史資料として取り扱われています。また、美しく摺られた拓本は美術品としても高く評価されています。
今回は、東洋、西洋の拓本を並べてみました。両者の違いをご鑑賞ください。

 

西洋の拓本

西洋の拓本が並ぶ展示ケース(左側)

ラテン語碑文

夫と息子の墓碑
ローマ出土。オックスフォード大学,アシュモレアン博物館蔵。
白大理石。高0.144m,幅0.215m,厚0.034m。1 or 2世紀。
ANChandler.3.114。
 

 

ギリシア語碑文(新青年及び教練官たちの顕彰)
ギリシア語碑文

新青年及び教練官たちの顕彰
アテナイ出土。オックスフォード大学,アシュモレアン博物館蔵。
白大理石。断片A:高0.55m,幅0.34m,厚0.05m。40/41年から53/4年。

 

 

【ラテン語碑文日本語訳】
妻マニリア・テュケは,非常に誠実な夫,被解放自由人のガイウス・ユリウス・フォルトゥナトゥスのために(墓碑を建てたが),同じもの(=墓碑)を息子のガイウス・マニリウス・フォルトゥナトゥスのためにも(建てた)。彼はここに埋葬されている。

【ギリシア語碑文日本語訳】
ティベリウス・クラウディウス・カイサルの御代。神助によりて。メトロドロスが執政官の年,フリュア区の人ディオニュソドロスが代表者を務め,アフィドナイ区の人フィロストラトスが指導者を務め,クロピデスの子アンティパトロスの子ディオドトスが体育教師を務め,ファレロン区の人エウフロシュネスが書記を務め,パレネ区の人アンティゴノスの子ニキアスが武器指導者を務めた時,アゼニア区の人アレクサンドロスが同僚たちと新青年たちを(顕彰した)。

 

東洋の拓本

東洋の拓本が並ぶ展示ケース(右側)

 

「大元勅賜故諸色人匠府達魯華赤竹公神道碑銘」(1338年)碑額:碑陰・碑陽拓本

モンゴル帝国(元朝)時代のジグンテイ(1281-1323)という人物の神道碑の拓本(部分)である。神道碑とは,人物の事績を刻んでその墓前に立てる石碑のことをいう。ジグンテイは,文人のパトロンや書画の収蔵家としても有名な皇女センゲラギ(1284-1332)の侍従であった。彼女が帝室の重要な姻族であったコンギラト駙馬魯王家に嫁ぐのに随行し,「管領随路打捕鷹房諸色人匠等戸銭粮都総管府」の副ダルガチ(次官)となり,駙馬家の戸口・財産の管理を担当した。
碑陽(石碑の表側)に漢文,碑陰(石碑の裏側)にウイグル字モンゴル文が刻まれている。本文の漢文の撰文は掲傒斯(けいし)(1274-1344),揮毫はテュルク系のカンクリ人巙巙(きき)(1295-1345),表題の篆書は尚師簡(1282-1346),いずれも当代の名だたる文人・書家である。モンゴル文は漢文から翻訳されたものである。漢文・モンゴル文合璧テキストの歴史史料・言語資料としての価値は極めて高い。
1338年に立てられたこの石碑は,全体として高さ5m近くに達する巨碑であったが,現在は所在不明である。1930年代までに多くの拓本が採られたようで,内外各地に拓本が所蔵されている。本拓本は故鴛淵(おしぶち)一(はじめ)・広島文理大学教授が蒐集したものである。碑身(石碑の本文を刻む本体部分)の拓本は全長約4mと大きいため,今回展示しているのは,碑額(石碑の上部の表題を刻む部分)の碑陽・碑陰の拓本である。碑陰のモンゴル文は「(皇帝(カーン)の)おおせによって立てられた人匠総管府のダルガチ ジグンテイのおこなったよい事績を伝える碑石である」という内容である。

参考文献:渡部洋ほか「漢文・モンゴル文対訳「達魯花赤竹君之碑」(1338年)訳註稿」『大谷大学真宗総合研究所研究紀要』第29号(2012年)

 


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