幼少期から成人期における社会的孤立は、社会的相互作用の減少と関連しており、これが社会的認知機能の障がいに大きく影響することが知られています。社会的認知機能の維持には、島皮質や前頭前野などの脳領域が関与していることが知られていましたが、治療介入による社会認知障がいの回復にこれらの脳領域がどのように関与しているかは明確ではありませんでした。
また、ケタミンは、(S)-ケタミンと(R)-ケタミンの鏡像異性体が等量混ざった混合物で、最近、迅速な抗うつ作用をもつことで注目されています。これまでの研究から、ケタミンの鏡像異性体間の分子特性の違いが明らかにされています。例えば、(S)-ケタミンは(R)-ケタミンよりもNMDA型グルタミン酸受容体の抑制能力が高いことなどが知られていました。しかしながら、これらの鏡像異性体による分子特性の違いに基づく薬効の神経メカニズムは不明でした。
研究グループでは、幼若期から社会的に隔離された環境で育てられたネズミを用いて、ケタミン鏡像異性体を投与した脳全体の神経細胞の活性化パターンを機械学習によって解析しました。その結果、(R)-ケタミンを投与した脳において、島皮質という脳領域の活性化が特に顕著であることを見出しました。
また、ファイバーフォトメトリー※5を用いて神経活動を経時的に測定しました。その結果、通常の集団で育ったネズミでは、他のネズミとの遭遇時に島皮質の神経細胞が活発に活動するのに対して、社会的に隔離されて育ったネズミではこの活性化が弱まっていることが観察されました。しかし、隔離飼育されたネズミに(R)-ケタミンを投与すると、集団で育ったネズミと同様に島皮質の活性化が強くなることを発見しました。この作用は(S)-ケタミンではみられませんでした。さらに、社会的認知機能を評価する実験では、(R)-ケタミンを投与したネズミが他のネズミをよりよく記憶できることを見出し、この作用は、島皮質の神経細胞の活動を化学遺伝学的手法により抑制すると消失しました。
本研究成果により、社会的に孤立して生じる社会認知機能の低下に対して(R)-ケタミンが有効であり、その改善作用に島皮質の活性化が関わることが明らかになりました。社会的認知機能の低下は、うつ病など様々な精神疾患でみられる症状の一つであることから、今回の研究成果に基づいて、新たな治療法の開発に繋がることが期待されます。
記事項本研究成果は、2024年2月23日(金)午前10時(日本時間)に米国科学誌「Molecular Psychiatry」(オンライン)に掲載されました。
タイトル:“(R)-ketamine restores anterior insular cortex activity and cognitive deficits in social isolation-reared mice”
著者名:Rei Yokoyama†, Yukio Ago†, Hisato Igarashi, Momoko Higuchi, Masato Tanuma, Yuto Shimazaki, Takafumi Kawai, Kaoru Seiriki, Misuzu Hayashida, Shun Yamaguchi, Hirokazu Tanaka, Takanobu Nakazawa, Yasushi Okamura, Kenji Hashimoto, Atsushi Kasai*, and Hitoshi Hashimoto*
†共筆頭著者, *共責任著者
DOI:https://doi.org/10.1038/s41380-024-02419-6
なお本研究は、国立研究開発法人日本医療研究開発機構(AMED) JP20dm0107122 (HH), JP22ama121052 (HH), JP22ama121054 (HH), JP21dm0207117 (HH), JP21wm0525005 (KS), JP21wm0425017 (AK)、日本学術振興会JP20H00492 (HH), JP21K19335 (HH), JP23K00395 (HH), JP20H03391 (AK), JP22K19378 (AK), JP23H02640 (AK), JP20H03392 (YA), JP21K19714 (YA), JP22J13259 (RY), JP22KJ2161 (RY)、文部科学省JP22H05080 (AK),JP18H05416 (HH)、科学技術振興機構(JST)JPMJFR2061 (AK)、武田科学振興財団(AK,TN,HH)、および旭硝子財団(AK,TN)の支援を受けて行われました。
※1 ケタミン
解離性麻酔薬。日本ではケタラールとして使用されている。ケタミンはS体とR体が等量ずつ混合されている。S体であるエスケタミンは、既存治療薬が反応しない治療抵抗性うつ病患者の治療薬として米国や英国にて承認されている。
※2 鏡像異性体
右手と左手の関係のように、同じ分子組成であっても、三次元の立体配置が鏡像対称性をもつ物体のこと。
※3 社会的認知機能
他人の顔や声などの特徴などにより個人を識別し、出会った人の記憶を保持する能力であり、再会時の人物認識において極めて重要な機能。この機能は、社会的な交流の初期段階において、特に重要であり、社会性動物が記憶された社会的経験に基づき適切な行動をとり、コミュニティを形成するのに必要な機能。これは、ヒトに限らず社会性動物であるネズミにおいても、社会的な相互作用と関係構築の基礎となる基本的な脳機能。
※4 島皮質
大脳皮質の一つの領域で、外側溝の奥に位置する。特に島皮質の前部は、帯状回や扁桃体など大脳辺縁系と強い神経接続をもち、感情や情動の制御に重要な役割を果たしているとされる。また最近の研究では、内受容感覚の情報を統合する機能にも注目されている。
※5 ファイバーフォトメトリー
In vivo蛍光検出法の一つ。蛍光プローブ(例えばGCaMPなど)を使用して神経細胞内のカルシウム濃度の変化を蛍光信号に変換し、生体内での神経活動を実時間で記録し追跡する方法。