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【研究成果】福島第一原発近傍で観察された巻貝の生殖異常のメカニズム解明 ― 神経ペプチド遺伝子の発現低下と発現調節スイッチの異常による可能性 ―

本研究成果のポイント

1.最先端の分子生物学・デジタルトランスフォーメーション(DX)技術を駆使することで、これまで知られていなかった巻貝の神経ペプチド注1)遺伝子を88個発見し、福島第一原子力発電所近傍で生殖異常を起こした巻貝では、数ある遺伝子の中でこうした神経ペプチドをコード注2するものの発現が押しなべて低下していることを明らかにしました。

2.この神経ペプチドを標的とした発現低下は、遺伝子の変異というよりも、遺伝子発現の調節スイッチ注3の異常によって起こりうると考えられました。そのため、スイッチの働きを正常に戻すことができれば、巻貝の生殖異常を解消できる可能性があります。

3.巻貝は日本の沿岸に多くみられる生物であり、今回開発した分析技術を応用することで、簡便かつ高感度な環境変化バイオセンサーとして活用する道が拓けると期待されます。さらに、この遺伝子発現定量システムを用いることにより、現時点でなお特定されていない、福島第一原発近傍の巻貝に生殖異常を引き起こす原因の探索にも応用が可能です。

概要

 広島大学大学院統合生命科学研究科の森下文浩助教、今村拓也教授、国立研究開発法人国立環境研究所の堀口敏宏博士らの研究グループは、網羅的遺伝子発現解析によって、福島第一原子力発電所近傍の沿岸に生息する巻貝に見られる生殖異常のメカニズム究明と沿岸環境モニタリングシステムの開発に繋がる分子機構を解明しました。

 2011年に発生した東日本大震災により炉心溶融事故を起こした福島第一原子力発電所近傍の沿岸では、巻貝(イボニシ)が年間を通じて性成熟する生殖異常(通年成熟現象注4)が観察されるという報告があります。この報告がなされた2021年時点と同様に、現時点でも通年成熟現象と福島第一原発事故により環境中に放出された放射性核種との関連性は低いと考えられているものの、その原因は未だ特定されていません。一方、イボニシ体内における反応として、脳においてつくられ、生殖腺の働きを調節するペプチド(神経ペプチド)による情報伝達機能が攪乱されていることが想定されました。そこで、まず、神経ペプチド遺伝子の質的・量的変動を探るため、最新の遺伝子分析法とコンピューター解析を駆使してイボニシの脳に発現する遺伝子を約6万個特定し、その中から88個の神経ペプチド遺伝子を新たに同定することに成功しました。通年成熟のイボニシでは様々な遺伝子の発現レベルが上昇あるいは低下していましたが、同定した88個の神経ペプチド遺伝子はほぼ全てが発現低下していました。また、このような神経ペプチド遺伝子の質には問題はなく、むしろこれら遺伝子を標的とした発現低下が生殖異常に関係していることが考えられました。また、その原因は遺伝子の発現を持続的にオン・オフする遺伝子スイッチの働きが変化したためであると考えられました。この研究の成果は、環境の変化に応答して遺伝子そのものではなく、遺伝子の発現スイッチの働きを変えることで巻貝の繁殖に影響しうる、という新たな視点を提供すると共に、イボニシが日本沿岸各地に広く生息する生物種であることから、今後、簡便で高感度のマーカーとして環境変化の検出等に活用できることを示しました(図1)。

背景

 2011年に発生した東日本大震災は地震に伴う大規模な津波と福島第一原子力発電所の炉心溶融事故を引き起こし、特に東北地方の太平洋沿岸の生態系に甚大な被害をもたらしました。震災から約12年が経過した今日、ほとんどの地域で沿岸の生態系は回復し、炉心溶融事故を起こした福島第一原発近傍の沿岸においても生物相の回復が進んでいます文献1。日本各地の沿岸に生息する巻貝であるイボニシは、福島第一原発周辺では事故直後に地域個体群がほぼ消滅しましたが、その後、周辺から幼生拡散を通じて新しいイボニシが移入してきたため個体数が回復しました。しかし、国立環境研究所の堀口らは、これらの新規移入イボニシの生殖腺(卵巣・精巣)が年間を通じて性成熟するという現象が2017年4月から2年余り継続していると報告しました文献2。これは、初夏に生殖腺が成熟して産卵期を迎え、冬には退縮して非繁殖期に入る、というイボニシ本来の季節繁殖とは明らかに異なる異常な現象であり、「通年成熟」と呼ばれています。通年成熟の原因は未だ特定されていませんが、その一方、通年成熟のメカニズムの究明は、その原因を探るとともに対策を講じるための重要なポイントの一つになり得ます。

 哺乳動物ではシカやクマのように一年の特定の時期に繁殖期を迎えるものと、ヒトやネズミのように年間を通じて繁殖可能なものとがあります。それらの生殖周期の調節には様々な情報伝達因子が関わっていますが、いずれにおいても生殖腺刺激ホルモン放出ホルモン、キスペプチンといった神経ペプチドが重要な役割を担うことがわかっています。

 一方、巻貝などの無脊椎動物では生殖周期を調節する仕組みはよくわかっていませんでした。私たちは巻貝においても神経ペプチドが生殖周期を調節しており、その機能異常がイボニシを季節繁殖から通年成熟へと変えてしまったのではないか?という独自の仮説を立てました。広島大学の研究グループ(森下文浩、今村拓也)は、通年成熟現象を発見した 国立研究開発法人 国立環境研究所の堀口敏宏博士と共同で、この仮説を検証して通年成熟のメカニズムを探る研究プロジェクトを開始しました。

研究成果の内容

 私たちは、まず、最先端の分子生物学・DX技術を駆使することでイボニシの脳に発現する遺伝子の網羅的特定に挑戦しました。今回用いた解析手法はRNA-Seq解析注5)と呼ばれるもので、目的組織に発現する遺伝子を網羅的に読み取り、それらの発現の変化を遺伝子毎に定量することができます。読み取った遺伝子を特定するためには通常、その動物のゲノム情報が必要なのですが、イボニシはまだゲノムの解読ができていません。そこで私たちは様々なアプリケーションを駆使したコンピューター解析により、ゲノム情報なしに読み取った遺伝子約6万個を特定することに成功しました。

 特定した遺伝子を詳細に調べた結果、私たちの仮説を検証する基盤となるイボニシの神経ペプチド遺伝子を新たに88個発見することにも成功しました。神経ペプチド遺伝子が特定できれば、その遺伝子から造られる神経ペプチドを推定することができます。これまで、イボニシの神経ペプチドの構造や働きについての知見はほとんど得られていませんでしたので、この成果は、神経ペプチドを研究する世界中の研究者にとってきわめて有用な情報提供となりました。

 つぎに通年成熟によって遺伝子の発現がどのように変化するのかを定量したところ、500個以上の遺伝子が通年成熟によって発現が上昇あるいは低下していました。特定した88個の神経ペプチド遺伝子について調べたところ、わずかに上昇していたものが1つ見つかっただけで、それ以外の87個の神経ペプチド遺伝子はほとんどのもので発現レベルが低下していました(図2)。このように神経ペプチド遺伝子の発現が押しなべて低下する現象はこれまで報告がなく、通年成熟に特有の現象と考えています。

 遺伝子の発現を調節する仕組みの一つに「エピゲノム調節注6)」があり、遺伝子の発現を持続的にオン・オフするスイッチとして働きます。通年成熟個体ではエピゲノム調節に関わる酵素の遺伝子発現が上昇しており、結果的に遺伝子の発現スイッチがオフになっていると推定されました。このことが神経ペプチド遺伝子を標的とした発現低下をもたらした、と考えています。
 
 また、この結果は、環境の変化が遺伝子そのものに傷をつけなかったとしても、遺伝子スイッチの働きを混乱させれば生物(巻貝)の生殖活動に重大な影響を与えうる、ということを示しています。動物の生殖活動は種の存続に関わる重要な要素の一つであるため、本研究成果は環境の変化が生態系を攪乱する分子機構の解明に大きな手がかりを与える結果となりました。

 以上の成果は、Frontiers in Endocrinology誌に2023年3月10日の午後4時(日本時間)に掲載されました。

論文情報

  • 論文タイトル: Concomitant downregulation of neuropeptide genes in a marine snail with consecutive sexual maturation after a nuclear disaster in Japan
  • 著者と所属:Fumihiro Morishita*1,3), Toshihiro Horiguchi2), Hiroto Akuta3), Tatsuya Ueki1,3), Takuya Imamura *1,3,4)
    1: Program of Basic Biology, Graduate School of Integrated Sciences for Life, Hiroshima University, Higashi-Hiroshima, Hiroshima, Japan
    2: Health and Environmental Risk Division, National Institute for Environmental Studies, Tsukuba, Ibaraki, Japan
    3: Department of Biological Science, Faculty of Science, Hiroshima University, Higashi-Hiroshima, Hiroshima, Japan
    4: Program of Biomedical Science, Graduate School of Integrated Sciences for Life, Hiroshima University, Higashi-Hiroshima, Hiroshima, Japan
  • 掲載雑誌: Frontiers in Endocrinology 14:1129666
  • DOI:10.3389/fendo.2023.1129666

今後への期待

1. 通年成熟を起こしたイボニシで神経ペプチド遺伝子の発現が押しなべて低下していたのはなぜか? 通年成熟に付随して発現が変化する遺伝子を詳細に解析することにより、その分子メカニズムの解明が期待されます。さらに、同定した神経ペプチドの働きを調べることで通年成熟との因果関係を明らかにできると考えられます。

2. 福島第一原発由来の何らかの因子がイボニシの生息環境に影響を与え、イボニシの遺伝子そのものに変異を与えることなく遺伝子スイッチをオフにして通年成熟を引き起こしたのではないかと考えられます。様々な試薬を用いてエピゲノム調節に関わる酵素の働きを調節して遺伝子スイッチをオンにできれば、通年成熟という異常現象を解消できる可能性があります。

3. 今回用いた解析手法は、大きさが1〜2ミリしかないイボニシの脳が1個あれば解析できるほど高感度な手法です。それゆえ、少量のサンプルを用いて、すなわち、個体群に悪影響を及ぼすことなく、環境の変化に晒された動物で起こっている変化を高感度に調べることができるメリットがあります。さらに、6万個に及ぶイボニシの遺伝子を特定しているため、将来、新たな環境変化が発生した場合、6万個の遺伝子群の中からその環境変化に敏感に応答して発現変動する遺伝子を見つけることにより、原因究明や対策立案に有用と考えられます。私たちが開発した手法は、イボニシという小さな巻貝を使って海の生態系を監視し、攪乱された生態系を回復へと導く基盤にもなり得ます。

4. 通年成熟によって発現が大きく変動する遺伝子を選別し、それらの発現レベルを継続的に測定することにより、イボニシの生殖腺(卵巣・精巣)組織標本を作製し光学顕微鏡で観察するよりも早期に、また、簡便に、通年成熟現象の発生や推移を知ることが可能になると期待されます。また、この遺伝子発現定量システムを応用することにより、巻貝に生殖異常を引き起こす原因の探索にも有用と考えられます。

謝辞/研究助成

  本研究は以下の研究助成を受けて実施されました。

  • 挑戦的研究(萌芽)、JP21K19847、令和3-4年、日本学術振興会
  • 令和4年度 一般研究助成、公益財団法人セコム科学技術振興財団

  また、本研究に伴う帰還困難区域への入域のために福島県から入域許可証を発行していただきました。

 

参考資料

文献1
Horiguchi, T. et al (2016) Decline in intertidal biota after the 2011 Great East Japan Earthquake and Tsunami and the Fukushima nuclear disaster: field observations. Sci. Rep., 6:20416, 10.1038/srep20416

文献2
Horiguchi, T. et al. (2021) Consecutive sexual maturation observed in a rock shell population in the vicinity of the Fukushima Daiichi Nuclear Power Plant, Japan., Sci Rep, 11: 560, 10.1038/s41598-020-80686-3

図1 研究の全体像

イボニシの脳に発現する遺伝子の網羅的解析により、通年成熟イボニシではエピゲノム調節系の攪乱により遺伝子スイッチがオフになり、神経ペプチド遺伝子の発現が低下していることが分かりました。この成果は通年成熟のメカニズム究明と原因の特定につながると共に、簡便で高感度な環境モニタリング法の開発にも貢献します。

図2. 神経ペプチド遺伝子の発現量を示すヒートマップ図

正常イボニシと通年成熟イボニシから調製したcDNAライブラリーにおける88種の神経ペプチド遺伝子の発現量を示しており、発現量が平均値より高かったものは赤で、低かったものは青で示しました。雌雄ともに正常個体に比べて通年成熟個体から調製したcDNAライブラリーの方が神経ペプチド遺伝子の発現が下がっていることが分かります。

注釈

注1. 神経ペプチド・神経ペプチド遺伝子
 神経終末から分泌されて個体の行動や恒常性を調節するペプチドを「神経ペプチド」といいます。神経ペプチドのほとんどはアミノ酸数が数個〜数十個の短いペプチドですが、より大型の前駆体蛋白質の一部として神経ペプチド遺伝子に保存されています。神経ペプチド遺伝子が働く時、遺伝情報がmRNA(伝令RNA)に転写され、mRNAがもつ情報に基づいて前駆体蛋白質が生合成されます(この一連のプロセスが「遺伝子発現」と呼ばれます)。神経ペプチド前駆体は、さらに翻訳後修飾という過程を経て最終的に生理活性をもつ短い神経ペプチドへと変換されます。つまり、脳内で造られるmRNAを分析すればどの神経ペプチドが合成されているか、推定することができます。神経ペプチドの構造と働きは多種多様であり、ヒトでは生殖周期を調節するキスペプチンや生殖腺刺激ホルモン放出ホルモン(GnRH)、食欲を調節するメラニン凝集ホルモン(MCH)、抗利尿ホルモンであるバソプレシンなどがよく知られています。

注2. コード
 遺伝子はDNAから構成されており、これがmRNAに転写(変換)され、さらにmRNAを通じてペプチド・タンパク質が合成されることで細胞の内外で機能します。例えば、mRNAは近年のコロナワクチンにも活用されている物質であり、これがコロナウイルスの毒性の少ない部分タンパク質に変換されることで人体における免疫の活性化に機能すると考えられています。コードとは、mRNAに変換される前のDNAに遺伝情報がプログラムされている状態を指します。

注3. 遺伝子発現の調節スイッチ
 「遺伝子発現」とは、注1. でも述べましたが、遺伝子(DNA)が持っている遺伝情報が、mRNAに転写され、mRNAがもつ情報に基づいてさまざまな生体機能を持つ蛋白質が合成される、一連のプロセスを指します。また、「調節スイッチ」とは、DNAからmRNAへの変換を制御する仕組みのことです。

注4. 通年成熟
 本来、一年の特定の時期だけ繁殖期を迎える動物の生殖腺(卵巣・精巣)が年間を通じて性成熟する現象です。国立環境研究所による福島第一原発周辺の潮間帯調査の中で、20174月から2年余り、原発近傍の潮間帯に生息する一部の巻貝(イボニシとレイシガイ)において見つかりました。一方、原発から離れた福島県沿岸や沖合あるいは外洋に生息する魚介類において通年成熟現象は観察されておらず、原発近傍の限定された地域で特定の巻貝にのみ見られる現象です。
 なお、通年成熟現象に関して2021年1月に国立環境研究所が報道発表しております。この報道発表の時点と同様に、現時点でも通年成熟現象と福島第一原発事故により環境中に放出された放射性核種との関連性は低いと考えられています。しかし、その原因は未だ特定されていません。通年成熟の原因究明に向けた国立環境研究所によるこれまでの調査については下記のURLを参照してください。
https://www.nies.go.jp/whatsnew/20210121/20210121.html

注5. RNA-Seq解析
 目的組織から抽出したmRNAを逆転写してcDNAライブラリーを調製し、数億個のDNAの塩基配列を並行して解読できる次世代シーケンサーを用いて網羅的に解読する解析法です。遺伝子が働く時、ゲノムDNAの遺伝情報はmRNAに転写されるため、目的組織で働く遺伝子を特定することができますが、1つのDNAについて解読できる塩基の長さが50〜150残基と短いため、その動物のゲノムDNAの配列に対応づけるなどして、解読したDNAがどの遺伝子に相当するかを確定する必要があります。

注6. エピゲノム調節
 遺伝情報を保存するゲノムDNAは、核内でヒストンという蛋白質に巻き付く形で存在しており、巻き付きが緩むと遺伝子の発現スイッチがオンに、締まると発現スイッチはオフになります。DNAのヒストンへの巻き付きの強さは、DNAとヒストンにメチル基やアセチル基が付加されたり除去されたりすることで変わります。このように、DNAやヒストンの化学修飾によって遺伝子の発現スイッチがオン・オフされることをエピゲノム調節と呼びます。例えば、喫煙や化学物質によって遺伝子に傷が付くと細胞が癌化することがありますが、エピゲノム調節によって傷ついた遺伝子の発現スイッチをオフにすることができれば癌化を抑制することができます。

【お問い合わせ先】

<研究に関すること>
 広島大学大学院統合生命科学研究科 基礎生物学プログラム
 助教 森下文浩
 Tel:082-424-7439、 E-mail:fumi425*hiroshima-u.ac.jp

 広島大学大学院統合生命科学研究科 生命医科学プログラム
 教授 今村拓也 
 Tel:082-424-7438、 E-mail:timamura*hiroshima-u.ac.jp

 国立研究開発法人 国立環境研究所 環境リスク・健康領域 生態系影響評価研究室
 室長 堀口敏宏
 E-mail : thorigu*nies.go.jp

〈広報に関すること〉
 広島大学広報室
 Tel :082-424-3749
 E-mail : koho*office.hiroshima-u.ac.jp

 国立研究開発法人 国立環境研究所 企画部 広報室
 E-mail : kouhou0*nies.go.jp

 (注: *は半角@に置き換えてください)


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