学問の継承【本多博之】

厳島神社五重塔

厳島神社五重塔:本多博之撮影

 文学部史学科国史学専攻に入学したのは1979年4月、共通一次試験(センター試験の前の制度、マークシート方式を初めて導入)が実施された最初の年でした。

 実は、理学部生物学科をめざしていた頃もあり、もとは理系でしたが、受験半年前になってようやく迷いが消え、文系に転向しました。

 一年生の時は専門の授業がありませんでしたが、毎週木曜の夕方、教室伝統の「古文書を読む会」に参加して「くずし字」に触れることが、日本史専攻であることを自覚する時でした。翌年には岸田裕之先生が着任され、日本史の講義を古代から近代まで全時代的に受講することが可能となり、独特の緊張感のなか、学問の最前線に触れました。

 3年生になり中世史読書会に参加し、岸田先生が進めておられた毛利氏関係の史料調査に同行を許され、山口県文書館などの公共機関や個人のお宅を訪問して古文書を閲覧し、写真撮影する作業を経験しました。また、ちょうどその頃、『千代田(ちよだ)町史』編纂に伴う近世文書の調査にも参加しており、手法が異なる中世文書と近世文書の調査を、同じ時期に学べたことは幸運でした。

 卒論では安芸国の在地(ざいち)領主制(りょうしゅせい)をテーマにしましたが、修論では東大寺の周防国衙領(こくがりょう)支配の実態解明に取り組みました。1984年の夏、「柳生(やぎゅう)の里」の民宿に泊まり、バスで毎日東大寺図書館に通い、冷房設備のない部屋で一人中世文書を閲覧し、至福の時を味わいました。最終日前日の夕方に柳生街道を歩いて「柳生の里」をめざし、日没後の山で道に迷い、危うく遭難しかけたことが今では懐かしい思い出となっています。

 こうして書き上げた修論をもとに初めて学術論文を執筆しましたが、諸般の事情から「東大寺文書」を扱う研究からは当面離れることにしました。むしろ、身近な中国地方の武家文書を使って、大名権力の領国支配や権力編成の問題に取り組みたいと思うようになりました。しかし、大内氏や毛利氏の研究にはすでに多くの蓄積があり、新たな視点をどこに置くか、模索する日々が続きました。

管絃船

管絃船:本多博之撮影

 私の最初の単著は『戦国織豊期の貨幣と石高制』ですが、そのきっかけは大学院時代の演習です。岸田先生の「大名領国の研究」と題する授業は、各自が自由にテーマを決めて発表する形式であり、1985年4月におこなった報告が私の貨幣研究の出発点となりました。ただ、それが形になるには、その後20年の歳月が必要でした。

 その間、1989年に福岡市博物館に学芸員として採用され、翌年秋の開館に向けた準備作業に従事することになりました。生まれ育った広島を離れ、異なる風土や文化に接しながら過ごす日々はとても新鮮で、4年11ヶ月の短い期間でしたが、今振り返っても濃密な歳月でした。博物館の様々な業務、歴史(文献史学)以外の考古・民俗・美術など諸分野との接触、九州大学国史学研究室や各地の博物館・埋蔵文化財関係の方々との「出会い」は後に大きな意味を持ちました。そして、中国地方だけでなく九州地方の史料にも触れ、豊臣政権の地方支配について考察を深められたのは、福岡時代の貴重な財産です。

 その後、縁あって広島に戻り、安田女子大学・県立広島女子大学・県立広島大学に勤め、個性豊かな教職員や努力して成長する学生達から、多くのことを学びました。日本銀行金融研究所で開催される貨幣史研究会への道を開いて下さった慶應義塾大学の故鈴木公雄先生も含め、人生の節目にはいつも大切な人との「出会い」がありました。

 浅学非才の私に出来ることは、地域に眠る史料を掘り起こし、丹念に分析することで歴史的事実の再構築をはかり、それをふまえて、過去だけでなく現在や未来を考える―かつて学んだこの歴史学の研究方法と哲学を、次の世代にも伝えていきたいと思います。今日大学を取り巻く状況には厳しいものがありますが、先輩教員もやはり困難な状況に幾度も遭いながら、それを乗り越えてこられたものと拝察します。そのことを胸に、次の世代にバトンをつないでいくつもりです。「学問の継承」、それが私に与えられた使命です。

 


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