
第28回 「自明でない訓練」 (2011/06/21)
天川 修平
だいぶ前のことだが、同僚が、バイクでツーリングに行ったときのことを話してくれたことがある。ワインディングロードでどうしても自分についてこれなかった仲間に、休憩の時にコーナーリングのコツを教えてあげたそうだ。その解説がよほどうまく、また相手にも素質はあったのだろう。休憩後のことはやや後悔気味に語っていた。「After that, I couldn't shake him off.」
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子供のとき、少しバイオリンを習っていたことがある。まったく物にならなかったが、得難い経験もした。
一時期、都合で別の先生に習うことになった。S先生だ。当時、僕はビブラートがうまくできなかった。弦を押さえる左手をゆらゆらと動かして音程を微妙にゆらす、あれだ。S先生は、ビブラートができるようになるための練習の仕方を僕に教えてくれた。ところが、その練習内容が「え?ホントにこんな変な練習でいいの?」と思うような変わったものだったのだ。半信半疑だったが、とにかく言われたとおりの練習をやってみることにした。すると、驚いたことに、本当に驚いたことに、じきにできるようになってしまったのだ。衝撃だった。
これは獲得したい能力と訓練内容との関係が自明でなかった例だ。できるようになりたいことは明白だが、どのような訓練をしたらいいのかがわからないことは、ままある。自分ではうまくできるけれど、他人にどう教えたらいいかわからないことも往々にしてある。だから、手本を見せるだけでは、一般には教えたことにならない。プロのスポーツ選手の技をいくら眺めても、普通はできるようにはならない。日本語が出来ない人の前で得意気に日本語をしゃべってみせても、相手の日本語力は微動だにしない。
S先生のケースが尋常じゃなかったのは、具体的な訓練の仕方を教えてくれたことだ。練習内容と獲得したい技能との関係は自明ではなかったのだが、結果として、それはできるようになるための正しい訓練だった。S先生こそは真の教育者だと、子供ながら心底敬服した。
単に繰り返し試みれば身に付く類の技能も、あるにはある。しかし、やりたいことの難易度と当人の資質次第で、いずれは壁にぶち当たる。それを乗り越えるための訓練方法は、普通はよくわからない。よい教育者とは、どのような訓練をしたらできるようになりたいことができるようになるかを教えてくれる人だ。ちょうど同じことが、田坂広志著「なぜマネジメントが壁に突き当たるのか」という本にも書いてあった。一流のスポーツ選手が頼りにするコーチとは、そういうアドバイスができる人だ。
では、できるようになるための訓練方法はどうすれば見出せるのだろうか。「正しい訓練の仕方さえ教えてもらえればできるようになれたはず」の人をできるようにする訓練。
S先生が教えてくれた練習内容は意外で、「正しい訓練である」かどうかはわからなかった。しかし、「明らかに間違った訓練だ」とはいい得ないものだった。つまり、練習内容は「意外」ではあっても、「論外」や「荒唐無稽」ではなかった。ささいなことかもしれないが、いい訓練方法を探り当てる上で、まずこの点は重要かもしれない。
では、その先はどう考えたらいいのだろう。もとより、一般解はなかろう。想像がつくのは、論理的に導き出せるものではなさそうだということくらい。だが、そのことに気づくと、逆に浮かび上がってくることがある。逆説に満ちているが、だからこそ鍛えるべき力は・・・
(2011/6/21)
