第4回 グエン・ティエン・ルック氏(ベトナム)1992-1999年在学

名前: グエン・ティエン・ルック氏
出身: ベトナム
現職: ベトナム国家大学 ホーチミン市校 人文社会科学大学 日本学部長(広島大学ベトナム校友会長)
取材日: 2015年11月2日

略歴:
1992年 広島大学日本語研修コース(6か月)
 同年 広島大学外国人研究生
1994年 広島大学大学院文学研究科博士課程前期に入学
1996年 同 博士課程後期に入学
1999年 ベトナムに帰国

はじめに

今回はベトナム国家大学 ホーチミン市校 人文社会科学大学で日本学部長を務めるグエン・ティエン・ルック先生(広島大学ベトナム校友会長)に留学時代の思い出をお伺いしました。

ルック先生は、ベトナム戦争の混乱の中で青年期を過ごされ、ベトナムの大学で教鞭を取りました。その後、ドイモイ政策(※)による改革・開放が進む中、1992年に広島大学に留学されました。ベトナムに帰国後は、ホーチミン市国家大学の日本学科の教員としてご活躍され、今年の8月には日本学科から昇格した日本学部の初代学部長に就任されました。

ルック先生の広島大学での留学生活はどのようなもので、その後の人生にどのような影響を与えたのでしょうか?

(※)ドイモイ政策:1986年12月の第6回ベトナム共産党大会で採択され、同国の経済運営の柱となった経済政策。ベトナム語で「刷新」を意味する。同政策の下、ベトナムは市場経済原理の導入等経済を中心とする開放化を進めた。

激動の中で青年期を過ごして

-まず日本留学までの簡単な略歴についてお聞かせ下さい。

私が生まれたのはベトナム中部のクアンビン省です。クアンビン省は古都フエから北に約150km離れています。子供の頃にはベトナム戦争があったので地下にある小学校で勉強していました。私は北ベトナムの出身で、北緯17度線(※)の近くの北側でした。ほとんど毎日のようにアメリカの戦闘機が飛んでいました。厳しい環境でしたが、勉強の方は順調に進んでいました。
1974年に高校を卒業して、大学に進学しました。最初の大学は中部にあるヴィン師範大学です。現在は師範大学ではなく総合大学になりました。

(※)北緯17度線:1954年のジュネーブ協定により設定された北ベトナムと南ベトナムの暫定的な軍事境界線。ベトナム戦争の結果、ベトナム共和国(南ベトナム)は、17度線以北を占めていたベトナム民主共和国(北ベトナム)に統合されて、1976年に現在のベトナム社会主義共和国が成立した。

-大学を卒業されてからはどうされたのですか?

大学卒業後は、同じく中部のクイニョン大学という港町の大学に就職し、歴史学部アジア史専攻で教えていました。当時のベトナムは、ベトナム戦争が終わって南北統一し、国名もベトナム民主共和国からベトナム社会主義共和国に変わりました。ソ連や東欧諸国との関係が深く、他の資本主義諸国との関係は浅かったです。だから、私は大学生の時、外国語はロシア語しか勉強しませんでした。

-日本語は勉強されなかったのですか?

当時のベトナムには多分、日本語学科はなかったと思います。ただ、日本との貿易関係は深かったので、貿易大学だけは日本語を教えていました。

海外留学への道のり

-海外に留学することを考えましたか?

当時、外国の大学で勉強するためには国家試験があり、非常に厳しい試験でした。私は大学時代に一生懸命に勉強して、この試験に合格しました。合格後にどの国で勉強するかは、個人の希望ではなくベトナムの教育省が決めていました。
最初、教育省は私にソ連に行くよう指名しました。大学でロシア語を一生懸命勉強している学生がソ連に行くのは当然ですね。でも、ベトナムや社会主義の国はちょうど80年代に恐慌に陥り、各国が改革開放路線をとりました。ソ連はペレストロイカ、ベトナムは1986年にドイモイ政策をとりました。

-ソ連には留学されたのですか?

ソ連留学は教育省の計画があっただけで、実際には行きませんでした。

-その後、どうなりましたか?

私は大学でアジア史を教えていましたが、その当時、日本に関する資料はあまりなく研究ができませんでした。私の初めの研究はタイ・ベトナムの比較研究でした。

日本留学が決まる

1991年になるとカンボジア問題も解決して、日本政府からの援助も再開しました(※)。教育省は、海外での研究を希望する者を、合格した研究者の中から選んで派遣しました。非常に少ない人数だったのですが私もそのメンバーに選ばれました。

(※)日本の対ベトナム援助は1959 年度に開始されたが、1978 年末のベトナムによるカンボジア侵攻により一時中断され、1991 年10 月のパリ和平協定署名を受けて1992 年度より本格的に再開された。

-いつ日本留学が決まったのですか?

日本留学は1991年10月頃に決まり、広島大学に行くのは翌年の2月頃ベトナムの教育省からの通知をもらって決まりました。そして、その年の4月に来日しました。

-試験はベトナムの教育省の試験ですか?

そうです。受験者は優秀な研究機関の研究者や、大学の若い先生だけで、おそらく一番難しいものだったと思います。

-日本大使館での面接はなかったのですか?

合格した後に、ハノイにある日本大使館で試験がありました。その時はまだ小さい建物でした。

留学前の日本のイメージ

-留学前の日本のイメージはどのようなものでしたか?

新聞や本を読んで、日本が特異な発展をしてきたことは知っていました。日本に来て、とても先進的で新しい建物があることに大変驚きました。印象としては、美しく、現代的だと思いました。

-日本語はいつから勉強されたのですか?

私は日本に来る前に日本語は全然勉強していませんでした。ベトナムにいた時には日本の状況はよくわかりませんでした。ただ、日本の商品はたくさん入っていました。だから漢字、ひらがな、カタカナは目にしましたが、日本語がどういうものかはよくわかりませんでした。日本に来て初めて勉強して、とても難しかったです。

広島大学への留学が決まる

-日本留学が決まって、広島大学に派遣されることはどのように決まったのですか。

分かりませんが、多分、日本の文部省が大学に連絡して決めたのだと思います。その時ちょうど、私の最初の指導教員、多分、当時の東洋史学教室の中で一番英語のできる今永先生が対応して下さって、最初の相談は英語で対応して下さいました。

-ご希望は、やはり歴史学だったのですか。

そうです。歴史学のアジア研究です。

-そういうことで広島大学に決まったのですね。

日本の文部省がどのようにして決めたのか状況は分りませんが、留学前に広島大学のことは全然知りませんでした。

-広島大学に行くことが決まってどのようなことを思われましたか?

当時、ベトナム人は、おそらく東京や大阪よりも広島の方がよく知っていました。なぜかと言いますと、ベトナムではベトナム戦争があって、広島では原爆による被害があって、かなり共感していたと思います。私以外のベトナム人も誰もがそのように思っていたと思います。それ以上のことはよくわからなかったのですが。

初めての日本へ

―いつごろ日本にいらっしゃったのですか?

1992年の4月2日に来日しました。

―ベトナムからどのようにして来日しましたか?

日本への直行便はなかったので、ハノイのノイバイ空港からバンコクを経由して大阪の伊丹空港に到着しました。当時は関西国際空港もありませんでした。

―伊丹に到着された時、出迎えはありましたか?

よく覚えていませんが、確かチューターさんが迎えに来ていました。大阪のどこかにみんなを集めて説明して、その後、広島や名古屋など行先ごとのグループに分かれて行きました。大阪からは新幹線で東広島に行きました。チューターさんが大学まで送ってくれました。

―この時に初めて日本に来たのですか?

そうですよ。びっくりしました。とてもきれいな国で発展した国。特に交通はとても便利です。ベトナムでは絶対見られないものでした。

―その時ベトナムから日本に何人が留学したのですか?

300人の中から12人が選ばれました。ちょうど社会主義国が崩壊して、そのとき一番多かったのはオーストリア政府奨学金による留学です。私の代のベトナムから日本への留学団は12人だけでした。実は私たちはベトナム社会主義国となって初めて正式に日本政府の国費留学生として派遣された留学生団だったのです。それまでは、日本の大学からの「大学推薦」として派遣された国費留学生がわずかにいるのみでした。

東広島キャンパス(西条)での日本語予備教育 (1992年4-9月)

―東広島キャンパスの印象はいかがでしたか?当時は、広島市内から東広島キャンパスへの統合移転の途中で、文学部をはじめとするいくつかの学部はまだ広島市内にありましたが。

大学の建物は立派ですが、周囲には何もなくて、農家が多かったです。店も少なかったです。

―宿舎はどこでしたか?

大学の国際交流会館に半年間住みました。その後、広島市内の東千田キャンパスに移りました。とても狭いアパートを借りて生活しました。

―広島大学の留学生センターで初めて日本語を勉強することになるかと思いますが、日本語の勉強はいかがでしたか?

とても大変でした。ベトナム人にとって日本語の発音は難しいです。いろいろな文字もあって正しい発音ができません。授業中に先生が英語で説明しますが、私たちにとって英語も外国語なので、説明が理解できないこともあります。でも、ベトナムにはもともと漢字があったんですね。中国や韓国と比べるとベトナムでは漢字は使われていませんが、ヨーロッパや南米からの学生と比べると漢字の勉強では有利でした。意味は大体分かりました。

―今はベトナムでは漢字は使っていないと思いますが、漢字の知識はあったんですか?

ありました。漢字を見て、意味は早く理解することができました。

―西条ではどのように過ごされていましたか?

毎日勉強して、宿舎に帰っても一生懸命勉強していました。将来の研究のためにも日本語が早くできるようになりたいと思っていましたから。

日本語研修コース修了式(1992年9月)

東千田キャンパス(広島市)で研究生時代を過ごす (1992年10月-1994年3月)

―それから半年経って10月から広島市内の東千田キャンパスに行かれたのですね。

研究生となって大学院の試験のために一生懸命、アジアの歴史を勉強しました。中学校の簡単な教科書から始めてチューターさんと一緒に勉強しました。また、日本語中級の授業も週に2、3回受けました。その時、ほとんどの留学生は中国人で皆、大学院を目指していました。
当時のベトナムでは筆記試験だけの論述が多かったのですが、こちらでは○×の問題などがたくさんありましたね。日本語も歴史も試験の形式がかなり違っていました。

-日本人学生と一緒に授業を受けたのですか?

研究生の時にも大学院の授業を受けましたが、わからないことが多かったですね(笑)。でも、文学部の先生方は非常に優しく温かくて、丁寧に私に説明して下さいました。

―研究生の時にゼミ発表もされたのですか?

ないない、できないですよ(笑)。先生方も多分そういうことが分かっていたので、私には発表をさせなかったです。

―思い出に残っている先生はいらっしゃいますか?

東洋史学教室の先生方はほとんど全員そうですね。今永先生には大変お世話になりましたし、その後の私の指導教員は植村先生でした。大学院時代の先輩の多くは、今いろいろな大学で先生になっています。彼らには、よく教えていただきました。中国の専門のことについても教えていただきました。

ベトナム帰国前に指導教員だった今永先生と

広島市内での生活

―広島市内ではどのような生活をされていたのですか?

東千田キャンパスは、下宿から近くて毎日、図書館や研究室にいました。その頃の研究室は古かったけど広かったですね。私も読書が大好きでしたから、毎日図書館で勉強していました。

―その頃はどちらにお住まいでしたか?

東千田町の学生アパートです。多分、木造アパートだったと思います。二階建てで、隣の人の音がよく聞こえてきました(笑)。

―習慣や文化の違いで困ったことはありましたか?

やはり、言葉がまだ完全に理解できなかったので困りました。食事については、日本食は基本的に何でも食べることができたので問題なかったです。刺身も大丈夫です。日本食の中では一番好きです。

―お風呂は銭湯でしたか?

東千田町では銭湯でした。下宿にお風呂がなかったんです。銭湯は、最初は恥ずかしかったですね。でも、どんどん好きになりました(笑)。

―ベトナムでは、そういう習慣はないのですか?

ないですね。

日本人学生や友人との交流

―日本人の学生との交流はありましたか?

日本人の学生とも仲良くなりました。ほとんどが大学院生でしたが、私がよく分からないという状況を理解してくれて、みんな一生懸命、丁寧に説明してくれました。ありがたいことです。先輩たちはかなり優秀でした。今、広島大学総合科学部の丸田先生はその時は大学院生でした。文学部の金子先生は当時、下関の大学で先生をしていて勉強会によく来られていました。また、現在、島根大学に務める富澤先生や日本大学に務める松重先生もいらっしゃいました。彼らにはいろいろとアイディアをいただきました。

―留学中に旅行はされましたか?

東京、京都、大阪にはよく行ってベトナム人の友達に会っていました。彼らのアパートに宿泊させてもらいました。久しぶりに会って、食事をして、いろいろな所に連れていってもらいました。

―当時、広島大学にベトナム人留学生は何人いましたか?

少なかったですね。私の時は7人ぐらいでした。6人が大学院生で、1人が日研生。今はかなり増えていますね(※)

(※)1994年5月当時、広島大学の留学生数は540人でベトナムからの留学生数は6人だった。現在の留学生数は1,284人で、ベトナムからの留学生数は48人(2015年11月)。

大学院への入学と文学部の移転 (1994年4月-1999年3月)

―大学院に入学する時に文学部が広島市から東広島市に移転したと思いますが、その時に印象に残っていることはありますか?(※)

移転の時は本の片づけなどがありましたが、それくらいでしたね。西条の新しい建物に引っ越して、天井が低く狭い感じがしましたね。東千田キャンパスの方が古いけど良かったです。

(※)1994年に文学部が広島市内から東広島市に移転した。

―大学院では研究が本格的になるわけですが、その時に苦労したことや印象に残っていることはありますか?

論文の書き方には苦労しました。私が書いたものを指導教員だった植村先生に出して、それを直すのに先生も苦労されていました。
赤ボールペンで真っ赤でした。先生に直していただいて私としては本当にありがたかったのですが、どんどん赤くになっていって、今までの自分の研究はあまり成果がなかったのではないかと感じました。でも一生懸命書き直して、また先生に出して、先生がまた2、3日かけて直して、何回も何回も、たぶん3回か4回くらい・・・・・それが非常に印象に残っています。先生が大変だったと思うのですが。
また、研究発表の時は恐ろしかったですね。非常に緊張して、発表の前に練習していたのに、結局発表の時に忘れてしまって(笑)。先生方には丁寧に詳しく指導してコメントしていただきました。

―博士論文を提出した時の感想は?

そうですね、ホッとしました。無事に博士号を取ることが出来ました。日本人と違って、ベトナムや、多分、中国や韓国の留学生にとっては博士号を取って帰国しないと失敗だったと感じます。当時の日本の大学では「単位取得退学」という言い方をしていましたが、留学生にとっては退学と言ったら失敗したということになります。それより前、日本では、特に人文系の博士号を取るのがとても難しかった。でもちょうど私が日本に留学していた頃から、徐々に変わりつつありました。

ベトナムへ帰国 (1999年4月-)

―帰国後はどうされたのですか?

日本留学前はクイニョン大学に務めていましたが、ベトナムに帰国してからはホーチミン市にある国家大学に移りました。ちょうどその時、ホーチミン市国家大学に日本学科ができたのです。日本学科では、日本史や日本の国際関係あるいは東アジア史も教えました。でも研究は日越関係だけです。私の専門は近代でした。

―当時、日本学科で日本語を教える先生は何人くらいいらっしゃったのですか。

非常に少なかったです。専門家があまりいなかったので。日本研究については、私が戻った時、若い先生を集めて研究会を行いました。

―1999年に帰国された時、ベトナムで日本のことを勉強したい学生は多かったですか?

随分、増えていました。当時、日本企業はベトナムへの投資ブームで日本語ができる人が不足していました。

日本学科の学生を教え続けて

―日本学科の学生をこれまでずっと教えられてきましたが、以前と比べて学生に変化はありますか?

今の学生は、日本学科に入る前から日本のことを良く知っています。学生の中には、高校時代から日本語を勉強している人もいます。私の時代や、あるいは私がベトナムに帰国した頃の学生とは違いますね。今、若者は漫画などもよく知っていますね。

―私も日本学科の学園祭に参加したことがありますが、日本のことに関心を持つ学生がたくさんいることに大変驚きました。嬉しいことですね。

嬉しいですね。今、日本学科に入る高校生は優秀な学生ばかりです。日本学科はとても人気があるので、選ばれた優秀な学生です。だから教えるのは楽ですね。学生はよく勉強するので(笑)。

-広島での留学生活を振り返っていかがですか?

私の人生は変わりましたね。7年間と長い期間でしたが、知識をしっかりと身につけて、帰国後、良い仕事をすることができました。たくさんの学生の前で日本のことを教えることができるのはとても嬉しいですね。

帰国してからも広島大学の先生にはよく連絡しています。また、帰国後、ホーチミン市の日本留学経験者を集めて元留学生の会を作りました。私は最初の3年間、会長を務めました。

日本学科の学生を引率してフエへの研修旅行

福岡アジア文化賞受賞者(ベトナム歴史学会会長)夫妻と(1996年9月)

あとがき

広島大学への留学によって人生が変わり、多くの学生の前で日本のことを教えることができるのはとても嬉しいという言葉がとても印象的でした。

ルック先生は、母国が激動の中にあっても勉学を続け、大学卒業後は教員として活躍されました。その後、日本留学の機会を得て広島大学で歴史学を学び、帰国後はホーチミン市国家大学の教員として、日本学科の学生を育ててきました。彼らがルック先生のように日本とベトナムとの間の友好や交流の架け橋となることを願っています。
 

取材者:平野 裕次

 

(2016.3.22 写真を追加)


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