名 前: 金 範基(Kim Beom-ki)
出 身: 大韓民国
現 職: 韓国教員大学校 名誉教授(広島大学韓国総同窓会会長)
取材日: 2016年4月10日
略 歴:
1984年 奈良教育大学外国人研究生
1985年 広島大学外国人研究生
1986年 広島大学大学院教育学研究科博士課程後期に入学
1989年 韓国に帰国
はじめに
今回は韓国教員大学校で長く教鞭を取られて退職後は同大学の名誉教授となられた金 範基 先生(広島大学韓国総同窓会会長)に留学時代の思い出をお伺いしました。 金先生は,韓国の名門ソウル大学校を卒業後、中学校、高校で現職教員として勤めるとともに母校の大学院でも勉強されました。その後、1986年に広島大学に留学。帰国後は、韓国教員大学校の教員としてご活躍され、2002年には広島大学で初めての海外同窓会となった広島大学韓国総同窓会の会長に就任されました。
金先生は広島大学での留学生活においてどのような経験をされたのでしょうか?
留学前について
-まず日本留学までの簡単な略歴についてお聞かせ下さい。
韓国の江華島(カンファド)で生まれました。小学校まではそこで勉強し、中学校、高校、大学はソウルで勉強しました。
-なぜソウルに移られたのですか?
私の父は99歳で今も元気ですが、父はもともと上級学校で勉強したかったのです。でも祖父がそれを許しませんでした。小学校で十分で、商売をしたほうがよいのではないかというのが祖父の考えでした。そこで父は通信学校で勉強しました。日本の植民地時代のことです。
父は祖父からお金がないと聞かされていましたが、押入れを探してみたら実はお金がありました。だから子供にはソウルで勉強させたいと思っていました。入学試験は競争率も高く、それまで私はソウルには行ったことがなかったのですが、試験を受けたら合格しました。
-ソウルのどこに住んでいたのですか?
叔父が住んでいたソウルの龍頭洞(ヨンドトン)です。中学校、高校の時は、土曜日と日曜日は学校の図書館で勉強しました。
-大学はどうされたのですか?
ソウル大学校の師範大学(※)に行きました(1966-70年)。昔は教師が一番良い職業だとされていましたので。大学では物理を勉強しました。中学校、高校時代、物理の成績がよかったのと、理系の知識こそが真理であって、文系は違うものだと思っていました。当時は数式で表せないものは真理ではないと思っていました。今はもちろん、そう思ってはいません。
(※)1946年に設置された韓国でトップレベルの大学。なお,韓国の大学の組織名称は日本と異なり、「大学校」の下に「大学(分科大学)」、その下に「学部/学科」が設けられるのが一般的である。
大学を卒業して
-大学を卒業された後は?
韓国では兵役の義務があります。だから大学生の時、学生軍事教育団で3、4年教育を受け、陸軍将校として2年4ヶ月間勤めました。
-兵役後はどうされましたか?
ソウル近郊にある護政府(ウィジョンブ)の中学校の教師をしながら、ソウル大学校の大学院に進学しました。
現職教員として大学院に進学
-現職教員が大学院に行くのは韓国では一般的ですか?
私の場合、校長先生が午前中は中学校で働いて、午後は大学院で勉強してもよいと言われました。
-大学院は大変ではなかったですか?
大学院に入り、1975年には高校の教師になり、論文が遅れて、1977年に修士課程を修了しました。
-どこの高校ですか?
仁川(インチョン)市内にある済物浦(チェムルポ)高等学校で、ソウル大学校をはじめ、名門大学に大勢の学生が進学する名門高校です。この高校で6年間勤めました。
-その後どうされたのですか?
その後は女子高校に勤めました。その女子校は,男子校から壁一つ隔てたところにあり、仁川でも有名な女子校でした。物理を勉強する学生が少なかったので地学や数学、後になってからは生物も教えました。
-なぜ男子校から女子校に移られたのですか?
韓国ではひとつの高校に5年しか勤めることができないという規則がありました。しかしながら、私はもう1年いて欲しいと頼まれ、結局6年いました。それから、女子校に移ったのです。この高校では、国語、英語、数学の先生が力を持っていたのですが、物理の先生の立場は弱いものでした。12クラスある中で、1クラスしか教えることができませんでした。
テレビ放送で物理を教える
その頃、韓国EBS(教育放送)で、スタジオティーチャーとしてスタジオで物理を教えました。女子校で教えながら、テレビで物理も教えていました。約2年間です。
最初の頃は、私も緊張していたので、高校の生徒からは先生の顔ではないと言われました。タイマーを見ながら、説明するのは難しかったですね。カメラしかなかったので。
放送の途中で映像を見せたりしました。放送局の車が学校に来て、学生に出演してもらい、実験の映像を撮ったりしました。1、2時間の撮影でも使われるのは数分のみでした。
日本への留学
-なぜ日本に留学することになったのですか?
男子高校では物理だけを教えることができたのですが、女子高校に行ってしまうと、それが難しくなりました。物理を教えながら、ほかの科目も教えないといけません。授業の時間も増えました。だから、もっと自分自身も勉強したいと思うようになりました。
また、日本で勉強したいとも思っていましたが、当時、母校のソウル大学校には日本とのつながりがありませんでした。その頃、音楽の高校教員だった家内が、日本政府国費留学生の教員研修留学生(※)として奈良教育大学に行くことになりました。そこで私も奈良教育大学の外国人研究生になりました。
(※)教員研修留学生は文部科学省が募集する国費外国人留学生制度の一つ。主に海外の初等・中等教員を対象として日本の大学で学校教育に関する研究を行う。留学期間は1年半で、最初の半年は日本語研修を受けることができる。
-奈良には何年間いらっしゃったのですか?
1984年に1年間です。指導教員は広島大学出身の永田四郎先生でした。しかし、奈良教育大学には博士課程がありませんでした。近くには大阪大学がありますが、そこには理科教育はありませんでした。そこで大阪大学の先生に相談したところ、理科教育であれば筑波大学か広島大学がよいと勧められました。
また、もし筑波大学に行ったら、修士から開始しなければならないと言われました。広島大学も元々はそうでしたが、私の代から変わりました。私は、博士課程後期から入った初めての留学生です。
-ソウル大学校への進学は考えなかったのですか?
当時、ソウル大学校には教科教育の博士課程はありませんでした。
日本語の勉強、漢字
-来日前から日本語の勉強はされましたか?
日本に来たのは奈良が初めてでした。来日前に少し日本語を勉強しましたが、独学だったのであまり伸びませんでした。日本に来てからは講義を受けながら、日本語を勉強しました。ただ、理科教育は言葉がわからなくても黒板に書かれた数式等でわかりました。
-漢字は難しかったですか?
漢字は子供の頃に勉強していたのである程度わかりました。面白いことがありました。広島大学で、寺川智祐先生が理科の歴史を教えて下さいました。ところが、寺川先生が使用されていた本は昔の漢字があったので、日本の学生は時々読めない文字がありました。
-日本人学生には昔の漢字が読めなかったのですね。
私はどちらもわかりました(※)。寺川先生がおかしいな、韓国の学生がわかるのに、日本の学生がわからないとは、とおっしゃっていました。
(※)韓国では日本と異なり漢字の簡略化を行っておらず、日本語の旧字体に近い漢字が使われている。
-韓国ではいつ漢字の教育をやめたのですか?
ハングルだけを中心に使おうという運動があり、なくなっていきました。私の学生時代は国語の教科書にはどちらも併記されていました。だから、弟や妹は大学に入った時、教科書の漢字が読めませんでした。それで私が家に帰るとよく漢字について聞かれました。
日本語を勉強する時、「新聞の社説は難しいから読まないほうがよい」と言われましたが、私にとってみれば、新聞の社説は一番簡単で易しかったです。社説は、漢字が多かったのでよくわかりました。
-逆に平仮名が難しい?
家内が最近、定年退職しました。今年3月から日本語同好会に入って日本語を勉強しており、家内の使っている教材を見ました。中学校のものは易しかったのですが、小学2年生の詩は漢字がなく平仮名ばかりで、これは難しいと思いました。だから、私が日本で大学の教科書を読むのには問題なかったです。発音は少しおかしいですが、読むのは大丈夫でした。
-漢字がわかると日本で勉強するには有利ですよね。
広島では奥田邦男先生から1年間、日本語を習いました。奥田先生は米国に10年間滞在されていましたが、授業では日本語しか使われませんでした。英語は全然使われません。だから皆、日本語が早く上達しました。
広島大学への留学(1985-89年)
-1985年に広島大学に移られたのですね。
キャンパスは広島市内の東千田町です(※1)。当時住んでいた寮は観音新町にありました。そこには、韓国人は私一人で、中国、インドネシア、イランからの留学生がいました。日本人もいました。建物が2棟ありました。昔の広島空港の近くです(※2)。自転車でキャンパスに通うのに、最初は40分位かかりましたが、そのうち15~20分位で行けるようになりました。
(※1)教育学部は1989年9月に東広島キャンパスに移転するまで、広島市内の東千田キャンパスにあった。
(※2)当時、広島空港は広島市内を流れる太田川放水路の河口にあったが、1993年に新広島空港(三原市本郷町)の共用開始に伴い、広島西飛行場と名称変更。2012年に廃港となり、現在は広島へリポートとなっている。
東千田キャンパスでの学園祭の様子(1987年)
-広島に初めて来た時の印象はいかがでしたか?
私が小学5年か6年の時の記憶ですが、社会科の教科書に、「広島」という言葉があり、原子爆弾が落ちて、多くの人が亡くなり、今でも放射能の影響があると書いてありました。だから、当時、私は広島には行きたくないと思っていました。小学生の頃の話です。
しかし、広島は留学生が勉強するにはとても良い都市だと思います。規模的にも大きすぎず、小さすぎず、必要なものは全て何でもあります。大変生活しやすいところだと思います。
-研究室には留学生はいましたか?
研究室には、私よりも先に来ていたフィリピン人留学生のマンザーノさんがいました。彼は広島大学で助教授として10年ほど勤められていたと思います。私が教授になった時に、マンザーノさんを韓国の学会に招いたことがあります。当時、研究室で一緒だった方のほとんどは韓国にいらっしゃいました。
また、研究室で一緒だった人の多くが日本の教科教育の教授になっています。広島大学出身の先生にはよくお会いします。兵庫教育大学、金沢大学、熊本大学など皆さんあちこちの大学の教授になっています。日本の理科教育学会に参加する時、よくお会いします。
-当時、韓国人留学生は何名位でしたか?
当時、韓国からの留学生は40名位いました(※)。その頃は学部生が少なく、ほとんどが大学院生でした。特に、日本語教育を専攻する学生が多かったです。彼らは韓国に帰国して日本語教育の教員になりました。
(※)1989年当時、広島大学の外国人留学生数は369名。その内、中国人留学生が135名で最も多く、次いで韓国からの留学生が41名(学部生3名、大学院生等38名)。
東千田キャンパス体育館での韓国人留学生とのレクレーション(1985年)
大学院への入学試験
広島に来て1年後に試験がありました。試験を受けた人が10名で全員留学生でした。その中で5名が合格しました。
合格発表の後、お祝いのために夕食を食べに行き、その後、二次会で飲みにも行きました。助手の先生からはこれからは一つ釜の飯を食う仲になったと言われ、これまでの1年間はなんだったのかと思いました。
広島での生活について
-私費留学生として在学されていましたが経済的にはどうでしたか?
当時、家内が大阪にある私立学校で先生をしていたのと、熊平奨学会(※1)から1年間、ロータリー米山記念奨学会(※2)から2年間、奨学金をいただいたので経済的には大変助かりました。その代り、私も今、韓国でロータリー会員になっています。ロータリーで日本との交流がある時は私が迎えに行ったりします。
(※1)広島県内の留学生への支援を行うために1984年に熊平奨学会として設立。2006年に熊平奨学文化財団に名称変更した。
(※2)ロータリー米山記念奨学会は、日本で学ぶ外国人留学生に対して、日本全国のロータリークラブ会員の寄付金を財源として、奨学金を支給し支援する民間最大の奨学団体。
ロータリークラブでの講演(1988年)
-文化や習慣の違いなどで困ったことはありましたか?
私は特に困ったことはありませんでした。いろいろなことに感謝していました。留学生の中には反対の考えをする人もいました。
-食事はいかがでしたか?
3、4週間に1回、家内のいる大阪に行くとおなかの調子が悪くなりました。広島では近くの食堂で食べていましたが、大阪では韓国料理を食べていました。どうも日本食の方が合っているようでした。私は外国に2、3週間いて韓国料理を食べなくても問題ありません。
でも、米国に留学した人は違います。家に帰ると韓国料理を食べるでしょう。米国で5年間勉強しても、いつも韓国料理を食べています。夫婦で行くとそうなります。だから、外国に行って2、3日間、韓国料理を食べないだけで、食べたいと言っていますよ。私は全く問題ありません。慣れましたから。日本のものは辛くなくて、ちょっと甘いですよね。
-学生寮には何年住んだのですか?
学生寮には2年間住みました。その後、論文を書くためにキャンパスのある東千田町に近いところに引っ越しました。3階建ての建物の2階に住んでいました。アパートのおじさん、おばさんが1階に住んでいました。
恩師、武村重和先生について
武村先生は、国際交流の仕事をよくなさっていました。1年に5回位は外国にいらしてました。また、米国やオーストラリアなどの有名な教授と共同研究をされていたので、私は海外に行かなくても理科教育で有名な先生に広島で会うことができました。
-とても理想的な環境だったのですね。
学会の国際大会を広島で開催する時は、私たちの研究室はみんな忙しくなります。私は少ししか手伝うことができませんでしたが。本で勉強するよりも、いろいろなプロジェクトを通じて勉強することが多かったです。大きなプロジェクトが来ると、みんなが一つ一つの準備をするようになり大変勉強になりました。
研究室での様子
-武村先生はどのような研究をされていたのですか?
武村先生は広島大学の出身で、文部省の教科書調査官をされていました。カリキュラム開発についてとても詳しく、全国を回りながら講演をなさっていました。米国のコロンビア大学でも1年間研究されて英語も上手でした。退職後は、国際協力のためにケニアに5年間いらっしゃいました。
特に、カリキュラム開発の話は私にとっても大変役に立ちました。武村先生に学んで、私は韓国の小・中・高校理科のカリキュラム開発の責任者になりました。1999年のことです。2009年にも頼まれました。私は退職前だったのでやりたくないと言いましたが、結局、引き受けることになりました。2回も理科のカリキュラム開発の管理をしました。
大学院での研究について
-大学院ではどのような研究をされていたのですか?
もともとは日本と韓国の学生を対象に、物理に対してどれくらいの学力の差があるのかを研究していました。また、日本と韓国の理系のカリキュラムを研究していました。結局、後からみると、日本と韓国は非常に似ていたのですが、韓国は途中から米国スタイルになりました。日本もその後、米国スタイルになりました。中学校や高校は米国スタイルで、小学校にはそのような変化はありません。
-ゼミで印象に残っていることはありますか?
ゼミで印象に残っているのは、韓国では先生が最後に「質問はありますか」と尋ねてなければそれでおしまいですが、日本の場合は、先生が学生一人一人に質問をして、それに答えていく。他の人と同じ答えをしてはいけません。これは非常に勉強になりました。だから最初に答えるのは簡単でした。でも最後に答えるのは大変です。
また、発表する時は、英語の文章を読み、韓国語で考え、日本語で発表していました。当時は7つの辞書を持っていました。英日、日英、英韓、韓英、日韓、韓日、それに日本語の漢字の読み方の7種類です。漢字がわかっても読めないんですよ。
-配布資料は日本語で作成されていたのですか?
はい。初めはワープロで4枚しか打てませんでした。後になってパソコンのPC-9801(※)を使うようになって楽になりました。今も持っていますよ。
(※)PC-9801は当時を代表する日本電気(NEC)のパーソナル・コンピューター。優れた日本語表示機能を有していた。
ワープロを打つ時に問題となるのが、漢字の読み方がわからないということでした。メモリ20メガバイトが20万円で、当時の助手の給料が約16万円。宝物だと思っていました。
-博士論文はいかがでしたか?
武村先生はお忙しいので、私が論文を書く時は、会う日を約束して1週間に1回は見てもらうようにしました。先生にとにかく会わないと、次の約束ができない。だから新幹線に乗る前に広島駅まで会いに行ったこともありました。
-そのような苦労をされて博士論文を提出されたのですね。
先生から発表は20分でやりなさいと言われましたので録音機で練習しました。本番では19分50秒くらいでした。審査委員長だった当時の学部長が「時間をちょうど合わせて終わりましたね」と言われました。その後、審査委員だった先生方からいろいろな質問をされました。
博士号取得後の祝賀会にて(1989年)
帰国後、韓国教員大学校で教鞭を取る
-帰国後はどうされましたか?
私は、もともと教員でしたから留学中も給料は半分もらっていました。しかし、年金のための掛け金は100%払う必要がありました。公務員としての資格が残っていたので、私は公務員として帰国報告をしました。すると、高校に勤めなさいという辞令が出て、仁川にある高校に勤めました。
その時、韓国教員大学校で物理教育の募集がありました。6月位かな。応募して9月から韓国教員大学校で働き始めました。
-韓国教員大学校とはどのような大学ですか?
韓国教員大学校は、韓国の教育のセンターです。小学校、中学校、高校の校長先生は全員そこで研修します。ソウル市の校長先生の研修はソウルで行われていますが、もともとは全国の先生の教育を韓国教員大学校で行おうとしていました。
現場の先生が大学院に行きたい時は、韓国教員大学校で毎年300名位が修士課程で2年間勉強します。給料は100%もらえます。
韓国で広島大学の同窓会を設立する
-金先生は広島大学韓国総同窓会の会長ですが、どのようなきっかけで同窓会を設立することになったのですか?
広島大学で学んだ人が、個人個人は会うけれど、全体で集まって会うことがありませんでした。お互いに情報交換や交流をしながら会うのがいいのではないかと思い2002年11月に設立しました。
(※)広島大学韓国総同窓会(会長:金範基・韓国教員大学名誉教授)は、2002年11月に設立。広島大学で最初の海外同窓会。
-それまでは全体で集まって会うことがなかったのですね。
はい。専攻が違うと全然わかりません。私の代であれば専攻が違ってもわかりますが、ほかの代はわからない。だから、集まって会った方がよいのではないかと。でも、最近は社会も変わってきていて、あまりそういうのが好きでない人もいますね。
-韓国の同窓会は、広島大学で初めての海外同窓会ですが、設立総会には広島大学からは誰か参加しましたか?
はい。当時の牟田泰三学長をお招きました。設立の際は、体育専攻の崔勝旭(チェ・スンウク)先生と崔喆洵(チェ・チュルスン)先生の2人の崔(チェ)先生が中心となって動いてくれました。私より上の世代の先輩達は退職したということもあって、設立総会には出席されませんでした。
広大同窓生の先輩の一人で、私の恩師でもあった方が昨年、亡くなられました。90歳でした。数学教育で有名な広島大学の岩合一男先生の友人でした。
牟田学長を迎えて広島大学韓国総同窓会の発足式(2002年)
留学生活を振り返って
-広島大学での留学生活を振り返っていかがですか?
私個人としては自分が勉強したいと思っていたことと合っていたし、韓国で学生たちに教える時にも大変役に立ちました。また、研究室を通じていろいろな方にも会うことができました。日本の理科教育の大学の先生や中国、フィリピン、タイの留学生など幅広く付き合うことができました。更にプロジェクトを通して本では勉強できない多くのことを学ぶことができました。
ロータリークラブでは文化を学ぶことができました。大学ではカリキュラムについて勉強しましたが、後から考えると、日本の文化をもっと勉強すればよかったと思います。その頃は、博士号をとることが中心でしたから。
-最近、日本に留学する韓国人留学生は減っていますが、広島大学にいる韓国人留学生にメッセージはありますか?
今、韓国の大学は米国中心になっています。私がいた理科教育の研究室にはいろいろな国のジャーナルがありました。米国、英国、ドイツ、フランス、ロシア、日本の6か国のジャーナルがいつもありました。それがいいなと思っていました。でも私の勤めていた大学にはもともと日本で学位を取った人が5名おられたのですが、今は退職して一人しかいません。
いろいろな目から物事を見る必要があるので、米国で勉強した人も、日本で勉強した人も、ヨーロッパで勉強した人も、多様な人材を育てることが国の教育にとって重要だと思います。だから日本で学んでいる韓国の留学生も自分の専門だけを学ぶのではなく、いろいろな国の人とつきあって、たくさんのことを学ぶことが大事なのではないかと思います。
あとがき
金先生は、韓国で現職の中学校、高校の教員として勤務された経験を活かして、広島大学では両国の理科教育のカリキュラムについて研究されました。帰国後は、韓国教員大学校で教鞭を取る傍ら、広島大学での留学の成果を活かして韓国の小・中・高校の理科教育のカリキュラム開発の責任者に2度も選出され、同国の教育の発展に貢献されました。
また、広島大学での研究活動やプロジェクト活動を通じて世界の著名な研究者に出会うとともに、研究室で一緒に過ごした日本人学生や留学生がそれぞれの所属大学で第一線の研究者となり、研究ネットワークが広がっていきました。
取材者:平野 裕次