新里 榮治 氏 昭和44 (1969)年-昭和48 (1973)年在学

名前: 新里 榮治(しんざと しげはる)
入学年月:昭和44年4月
所属学部:工学部 建築学科
取材日: 2014年6月20日

はじめに

本日は沖縄県広島大学同窓会の新里 榮治氏に学生時代の思い出をお伺いしました。

新里氏は、沖縄がまだ米国の施政権下にあった昭和44(1969)年に、国費・自費沖縄学生制度(※)を利用して広島大学に入学しました。昭和44年は大学紛争が盛り上がりをみせた年で、東京大学ではこの年の入学試験を中止しました。広島大学でもキャンパスが封鎖され入学式が中止となっています。また、広島大学卒業前の昭和47(1972)年には沖縄の施政権が米国から日本に返還されました。

このような激動の時代に新里氏が広島大学で過ごされた学生生活とはどのようなものだったのでしょうか。

(※)国費・自費沖縄学生制度。復帰前の沖縄において、日本本土の大学への進学を支援するために設けられた制度。選抜試験に合格すると本土の大学入学が許可された。

なぜ本土へ進学しようと思ったのですか?

当時、僕が通っていた高校が進学校であったのと、子ども心に本土への憧れもありました。僕らの親の影響もあったと思います。個人的にも叔父や叔 母が、東京や大阪に住んでいましたので、その憧れもありました。琉球大学(※)も受験したのですが、当時は学部が限られていて、文系はあったのですが、理 工学部には建築学科はなかったのです。それで、国費・自費沖縄学生制度がありましたので、学校はみんなそれを目指して勉強するという時代でしたから。

(※)米国占領下の昭和25(1950)年に琉球大学が設立。昭和47(1972)年の沖縄の本土復帰により、文部省に移管され国立大学となった。

- 本土の大学を目指していた。

おおかたの生徒はそうだったと思います。最初から地元でという人は、あまり周りにはいませんでした。もちろん家庭の事情で地元の学校に進学する人はいたかもしれませんが。進学校でしたので中学3年生の時に親戚を頼って転校してきて高校受験に来る人も周りにいました。

- 当時の高校での教育内容は本土と同じだったのですか?

全く同じです。

- 国費・自費沖縄学生制度の選考プロセス(募集、選抜試験等)は?

正確かどうかわかりませんが、11月頃ですか、年内に一次試験の学科試験がありました。年が明けて2月頃ですか、地元の琉球大学の試験がありました。国 費・自費制度の2次試験の面接が、ちょうど琉球大学の合格発表の前後でしたか、どちらが先か忘れましたけど、それくらいにありました。

- 琉球大学と国費・自費制度はかけもちで受験できるのですか?

まったく時期が違うので、かけもちできます。

- この試験の実施主体は?

本土の文部省だと思います。一生懸命勉強しますという誓約書を書くのですが、確かあて名は、当時の文部大臣でした。

- 志望大学や配置先の決定は

面接で聞かれました。志望大学を聞かれたのか、希望する地方(関東や関西など)を聞かれたのか定かではありませんが、それぞれの希望を述べるわけです。私の場合は、叔父が東京に二人いたので、まずは関東方面に行けたらというのは思っていました。

- 最終的に大学の配置先が決まったのはいつ頃ですか?

いつ頃かな。2月か3月頃ですかね。ちょっと正確には覚えていません。決まってからオリエンテーションがあって出発するまで、そんなに時間がなかったように記憶しています。

- 進学前にオリエンテーションがあったのですね。

はい、琉球育英会(※)の主催で合格者全員にありました。合格発表もそこでありました。

(※)琉球育英会。国費・自費沖縄学生制度の業務を実施した琉球政府の特殊法人。日本政府の機関である南方連絡事務所と連絡を取って同制度を実施していた。

- どのようなオリエンテーションだったのですか?

留学にあたっての心得ですね。向こうに行って、落ちこぼれないように相当頑張らないといけないとか、しっかり勉強しろというようなことだったと思います。

広島までの道のり

まず、みんなと一緒に沖縄から鹿児島まで船で移動しました。大勢の見送りでした。船で一泊かかりました。着いて鹿児島でさらに一泊したかどうか覚えていませんが、広島大学から2、3名先輩が迎えに来ていました。

着いてからは大変でした。身分証明書(※)が必要というのもあるけど、荷物検査がね。船は着いて動かなくなっているけど下船ができないわけですよ。検疫や税関ですかね。2時間かそこら下船できなかった。

(※)当時、沖縄から本土へ渡航する際は、日本政府総理府発行の身分証明書が必要だった。

- 鹿児島からは?

鹿児島から広島までは夜行列車で行きました。列車の中では先輩がいろいろ話してくれましたね。広島には朝、到着しました。雨が降っていたので4月だというのに寒いなと思いました。こんなに寒いのかって(笑)。

- 広島に着いてからは?

僕達の学年は8名が広島大学に進学しましたが、医学部に進学した人の中には先輩たちがすでに下宿先を手配してくれている人もいました。僕の場合は、まだ下宿先が決まっていなかったので尚志会館に2、3日間、宿泊しました。下宿先が決まるまで。

当時、新里氏が使用していた日本政府総理府発行の
身分証明書。当時、沖縄と本土を渡航するために必要だった。

身分証明書。当時、沖縄と本土を渡航するために必要だった。     
(上)那覇港からの出港スタンプ。1969年4月1日に「Departed from the Ryukyus」と記載。
(下)鹿児島港での上陸スタンプ。1969年4月2日付け。「日本国への帰国を証する」と記載。

入学式の中止と吉島公園でのオリエンテーション

- 昭和44年の入学ということですが、当時は大学紛争が起こっていて、入学式がなく、オリエンテーションも吉島公園で行われましたが。

オリエンテーションは吉島公園だったのですか。覚えていますよ。建築学科の新入生が車座になって自己紹介をしていくわけです。吉島公園に全学の新入生がい たのか、工学部の学生が全員いたのかはよく覚えていませんが、建築学科の新入生30名が輪になって、それぞれ自己紹介していたのは記憶にありますね。

- オリエンテーションは6月に行われましたが、それまでは何をされていたのですか?

遊んでいましたよ。ただね、大学からだったのか、先輩からだったのか覚えていませんが、学校がいつ始まるか分からないから沖縄に帰ったりするなと言われていました。だから7月の夏休み頃まで、いよいよもう帰ってもいいよという時まで長かったですね。

- 当時バリケード封鎖(※1)された広島大学を見に行ったりはしましたか?

見に行きましたよ。千田町の近くに下宿していたので、学食に行っていました。学食は開いていましたので。正門のピケ(※2)の中を抜けて。4月からピケやってたかな?

(※1)昭和44(1969)年2月から学生運動により東千田地区や霞地区等の建物が順次封鎖されて、広島大学での大学紛争が激しくなっていった。

(※2)ピケッティングの略。ストライキが行われている事業所等に労働者の見張りを置き、スト破りの阻止や一般人へのストライキのアピール等をする行為。

- 5月には学長が飯島学長に交代しましたが。

学長が代わったというのは覚えています。また、内容はよく覚えていませんが、当局との団交にも参加しました。遠巻きに見ていました。確か団交の先頭には同郷の先輩もいました。

- 当時の一連の出来事についてどのような感想をもたれましたか?

最初にスタートも切っていない状態で、「しまったな」と思いました。でも、当時18歳で全てのことがびっくりするようなことばかりでしたね。
それで、夏休みは沖縄に帰省しましたが、浪人している同級生はみんな次の試験に向けて一生懸命、勉強をしていました。一緒に本土の大学に進学し た友人も帰省しているのが何名かいましたが、友達同士連絡を取って遊んでました。クラス会もありました。沖縄に戻って来たら来たで、結構、退屈してたんで すよ。夏休みになって間もなく、7月の下旬に沖縄に戻ったのですが、2週間もすると退屈しました。だから、すぐに広島に帰りました。帰る前に、広島の8月 はすごく暑いから、帰らないほうがいいよって言われたのですが、帰ったんですよ。でも本当に暑かったです。

広島に帰ったら、機動隊がバリケード封鎖を解除している現場を見ました(※)。当時、舗道が石畳で、それを割っている場面とか見ました。それから間もなく、石を投げられないようにアスファルトにしていたのには驚きました。そういうのは記憶として残っています。

(※)昭和44(1969)年8月17日から18日にかけて広島大学のバリケード封鎖が機動隊によって解除された。

9月から授業が開始

- 9月から授業が始まるわけですが。

記憶にあります。多分、4、5、6月分を詰めてやるわけだから、これは大変だと思って学校に行ったのを記憶しています。

- 当時は東千田キャンパスの教養部にいたわけですよね?

教養部(※1)でしたが、大学改革の一環で、専門が割と入ってきましたよね。それまでは教養は教養、専門は専門できっちり分かれていたのが。たまに工学部のある千田キャンパス(※2)に行ったりしましたよ。もちろん、ほとんどが東千田キャンパスでしたが。

(※1)当時、東千田キャンパスに教養部(現在の総合科学部の前身)が置かれていた。

(※2)当時、工学部のあった千田キャンパスのこと。現在、その跡地は広島県立図書館や広島市中区スポーツセンター等が立地する千田公園一帯となっている。工学部は、1982年(昭和57年)に現在の東広島キャンパスに移転した。

- 通常ですと、9月は試験の時期ですが、授業をされていたのですか?

授業をしていましたよ。というのも、僕ら留学生の面倒を見るチューター教員がいて、その先生がたまたま僕の数学の先生だったので、授業も受けていました。よく覚えています。

当時、工学部のあった千田キャンパスの正門にて。
写真の中の門柱は現在の東広島キャンパスに移設。

沖縄での生活と比べて広島での生活はいかがでしたか?

僕もそうでしたが、あの当時は間借りが中心でした。最初は賄い付きの下宿を探しました。二食付きの。そうすると食事を決まった時間にとらない といけないし、門限もある。生活をかなりきちんとしないといけない状況でした。あと、毎日、銭湯に行ってましたね。沖縄の自宅では風呂やシャワーがありま したが。床屋さんに行くとか、食堂での食事の違いは別に気にならなかったです。

- 当時は沖縄と本土では通貨も違っていましたが。(※)

当時は為替で送ってもらって、こちらで日本円に両替して使っていました。月1回くらいで。

(※)本土復帰前、沖縄では米ドルが使用されていた。

- 広島の方言はいかがでしたか?

テレビで聞くのは関東弁ですから、広島弁には最初びっくりしました。さらに、広島の中で、もっときつい荒い言葉があるじゃないですか。でも女性が使う広島弁はとても柔らかいですね。

- 当時は沖縄学生として在学されていますが、本土の学生との扱いの違いを感じることはありましたか?

最初に感じたのは、50音順に名簿があるわけですが僕が一番最後なんですね。

- つまり、本土の学生が最初に来るわけですね。学生番号も?

そうなっていたと思います。なんで僕が30番なのかと、誰かに聞いたかもしれません。今考えれば事務の整理上でのことだと思いますが、慣れるまで違和感は ありました。自己紹介の時、同級生はびっくりしていました。同じように試験を受けて来ているものだと思っていたみたいですから。
それから、沖縄の出身ということでよく言われていたのが、今はもうないと思うけど、当時は、英語が話せるだろう、ペラペラ喋れるだろうというのと、泳ぎが達者だろうとよく言われました。

学生生活について

- 学生同士では仲良くしていましたか?

入学して友達が欲しかったし、近くにいた同じ学科や同級生と友達になりました。専門の学科が入ってきた時に、同じ建築学科だと声をかけてもらったりして、友達ができたし、それは嬉しかったですよ。

- 教養の時は、同郷の同級生や先輩との付き合いが多かったですか?

9月に授業が開始される前は、同郷の者が8名もいましたし、ずいぶん遊んだんですよ。毎日。僕は千田に住んでいたので、医学部、歯学部の彼らが住んでいる エリアに行って。4、5名が同じエリアに住んでいましたから。朝から遊んで夕方に戻ったりとか。当時はまだ麻雀を覚えていなかったので、トランプしたり花 札したり、音楽をかけたりしてましたね。たまに外に出て比治山で遊んだり。9月以降は、僕は友達ができて、それからは普通に付き合っていました。その時 に、今でもお付き合いのある友達もできましたし。

- 広島の街のほうにもでかけましたか?

平和公園や縮景園にも行きましたけど。八丁堀とかは行ったことがなかったですね。コンパはありましたけどね。1月のコンパで、ぐっと同級生と近づくことができました。

- 沖縄の街並みと広島の街並みの違いは?

最初に行った時に寝具を買ったり揃えないといけないので紙屋町まで出たら、やはり広島は大都会だと思いました。那覇も人はいっぱいいましたけど。

- 那覇は当時、英語の看板が多かったとか。

そうですね。そういう違いはありますね。金武(きん)(※)とかへ行くと今でもそういう名残がありますね。

(※)金武町(きんちょう)。沖縄本島北部の東海岸に位置する自治体。金武湾に面し面積の約60%を米軍用地(キャンプ・ハンセン)が占める。

専門教育について

- 専門教育になってからは学科の仲間と付き合っていた?

エスキーテニスをしていたので、学部や学科を超えた友達ができました。2年生の前半くらいまでやったかな。9月も入学しない前に始めたような気がします。 あとは、僕は4年生まで語学を引っ張っていたから、工学部の千田キャンパスから東千田キャンパスまで自転車で戻ったりしていたわけです。第二外国語のドイ ツ語ですが。自転車で10分か15分くらいで行けましたけど。

- 建築学科での指導教員は誰でしたか?

指導教員は瀬沼先生と佐藤先生でした。瀬沼先生は建築環境の先生でしたが、授業の一環で、どこかのトンネルの前で騒音を測定しました。夏でしたから、草履 で行ったのですが、ブトだかブヨだかにやられて、傷が半年くらい残りました。僕の卒論は環境とは違うテーマでしたが、その先生を慕ってお願いしました。あ とで、テーマの中身から佐藤先生を紹介していただきました。研究室にあまり行かなかったのですが何とかなりました。

- 当時の学科の思い出は?

実は、僕は2年から3年にかけて結構遊んでいて、単位がたまっていて、4年の時に大変だったんです。遊び仲間とお互いの部屋に行っていろんなこ とを話して過ごしたのが記憶に残っています。4年になって、留学で来てるし卒業しないといけないと思いました。生活を変えないといけないと。友人の中には 切り替えがうまくいかなくて同窓会名簿を見ても名前がない人もいます。特に親しくしていた友人は、同級生にも調べてもらったけど、分からない。彼は広島県 出身で田舎に実家があると言っていましたね。今、一番彼と会いたいですね。
沖縄の本土復帰の日、昭和47年、大学の4年生になったばかりですが、その友人のアパートで復帰のお祝いというか、ちょっと違うものでしたけど、彼が酒を調達し二人ですきっ腹でウイスキー飲んで、酔っ払ったのを覚えていますね。

- アルバイトは?

1年生、2年生くらいまで運送会社の仕事を。福屋の倉庫の配送センターで。パチンコ屋さんのバイトもしました。当時は台の裏に人がいて「おーい!」って言っている時代でしたから(笑)。今はもうなくなってるけど本通りにありました。今のユニクロがある辺りです。

エスキーテニス同好会メンバーと一緒に。

湯来温泉にて。建築学科の友人と広島市内の女子大学の学生との合同ハイキング。

沖縄の本土復帰について

- 日本や沖縄が動いた節目の時期、沖縄の返還がありました。それはすでに2年前か3年前には復帰するのが分かっていたことだったと思うのですが、広島にいてどのような思いでしたか?

2、3年前に大統領と首相がその日を決めたんだと思うけど(※)、僕は広島にいて、時期としては広島で学生運動があったんですが、そっちの方が印象にありますね。沖縄の中での大きな動きというのは感じなかった。

(※)昭和44(1969)年11月、佐藤栄作首相とニクソン大統領の両首脳は昭和47(1972)年の沖縄返還に合意する共同声明を出した。

- 沖縄では、翌年(昭和45年)、コザ暴動(※1)がありましたが。

それは大きなニュースとして聞いてはいるんだろうけど、実感はなかったんでしょうね。今、ニュースを見ると、すごい事件でしたもんね。どちらかと言えば、復帰前の、教公二法の時に(※2)、与儀公園で集会があったりして。67、8年頃かな。先生たちもそうでしたけど、僕らは高校1年でしたけど、デモに参加しましたね。よく覚えているなぁ。

(※1)コザ暴動。昭和45(1970)年12月に本土返還前の沖縄のコザ市(現在の沖縄県沖縄市)で発生したアメリカ軍車両および施設に対する焼き討ち事件。

(※2)教公二法とは教師の政治活動を禁じたものであり、昭和42(1967)年2月に教公二法を阻止しようと沖縄の教職員が参加して那覇市の立法院を取り巻いた事件。

- 先程お話しのあった友人と沖縄返還の日にお酒を飲まれたということでしたが。

どちらから誘ったのか分からないけど、明日復帰だから俺の家に来いよってね。サントリーの1,000円くらいのウイスキーでした。お祝いしようってことだったと思うのだけど。二人とも酔っ払って、僕はその日帰れないくらい酔っ払って。復帰のその日に何をしていたかというと、彼と一緒だった。

学生時代に印象に残っている歌は?

当時の流行歌手の藤圭子さんのライブを見に行きましたね。広島公会堂だったかな。「圭子の夢は夜ひらく」という曲がフィーバーしている頃ですね。あと天地真理とか。同級生からはよく冷やかされたけどね。やはり藤圭子は強烈でしたね。あと瀬戸の花嫁の小柳ルミ子。歌が瀬戸内じゃないですか。男性では、3、4年生の時にあがた森魚が出てきましたね。もちろん吉田拓郎もね。

広島大学を卒業されて、沖縄に戻られてからは?

在学中に沖縄県庁の採用試験がありました。4年まで教養と専門をたくさん抱えていました。1次試験は福岡で受けたんですね。その頃から卒論や、課題の設計があってとても忙しかった。だから締め切り間際で沖縄での2次試験に行けない状況だった。県に問い合わせたら、日にちを変えて実施するということになって、4月1日の採用には間に合わなかった。そうしているうちに、復帰記念の国体(※)があって、国体を終わらせてからということになった。
ところが、二次試験もまだ受けていない段階だったけど、とりあえず人が足らないから飛行機ですぐに帰って来いと県から言われました。僕としては入学式もなかったので、できれば卒業式はちゃんと出たいんですと言いました。でも3月の末まで待てないからということで飛行機で急いで帰ってきました。結果待たされたんですけどね。何もなかったんですが(笑)。
沖縄に帰ったのは、やはり「ふるさと」という思いはありましたよ。あこがれて本土に行ったけど、「ふるさと」に仕事があればと思った。当時、工学系は引く手あまたの時代だったけど、どこも受ける気がしなかった。卒業するかどうかも迷った時期だった。こんなんで出て行っていいものかと感じながら生きていましたから。

(※)復帰記念沖縄特別国民体育大会。昭和48(1973)年5月に沖縄の本土復帰を記念して那覇市ほか9市1町で開催された。通常の国体とは違って全国の予選は行わず、各都道府県に種目と人数を割り振って選考したミニ国体であった。

新里氏ら昭和44年度入学生が幹事となって実施した沖縄出身
の45年度新入生のための歓迎コンパ

昭和47年度卒業生(沖縄出身)のための追い出しコンパ

あとがき

大学紛争や沖縄の本土復帰があった激動の時代に、広島大学で青春時代を過ごされた新里氏。沖縄返還の前日から夜通しで学科の友人とお酒を飲み交わしていたというのがとても印象的でした。
新里氏をはじめとして沖縄では多くの広島大学同窓生が活躍されており、古くは戦前の広島高等師範学校を卒業された志喜屋 孝信氏(初代沖縄民政府知事)(※1)や屋良 朝苗氏(初代沖縄県知事)(※2)がいらっしゃいました。昭和56(1981)年には「沖縄県広島大学同窓会」が発足し、沖縄県での広島大学同窓生の結束の固さを感じました。

(※1)志喜屋 孝信(しきや こうしん)。明治41年(1908年)に広島高等師範学校を卒業後、教師となる。米軍統治下の沖縄諮詢会委員長や沖縄民政府知事を務め、琉球大学の初代学長を務める。

(※2)屋良 朝苗(やら ちょうびょう)。昭和5(1930)年に広島高等師範学校を卒業後、教師となる。復帰前の沖縄で琉球政府の行政主席を務め、復帰後は沖縄県知事を2期務めた。

取材者: 平野 裕次


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