国際同窓生からの声 第3回 

日本で学んだ技術・経験を活かして国作りに貢献できるようになりました

ティハさん(ミャンマー出身)
2016年9月掲載

はじめに

私は、ミャンマーのヤンゴンで生まれました。1994年9月に文部省国費留学生として来日し、日本語学校を経て95年4月、広島の国立呉高等専門学校に編入学しました。その後、1998年4月に広島大学工学部(建設系)に編入学し、同大学大学院工学研究科へ進学後、2005年同大学院で博士号(工学)取得しました。同年4月に建設系総合コンサルタント会社に入社した後は、日本のODA事業を中心に母国のミャンマーをはじめ、発展途上国のインフラ整備事業を担当しています。同時に米国、台湾、中国、タイ、香港などでの土木関係の国際会議で論文発表も行っています。

2014年3月に「広島大学ミャンマー校友会」発足の際、事務局長に就任しました。

日本語学習や日本留学のきっかけ

留学を決意したのは高校卒業後でした。当時、ミャンマーでは車や電気・電子製品の多くは日本の製品であり、子供の頃から日本の高い技術に関心がありました。そして、資源国家のミャンマーより、資源のない技術国家の日本がはるかに豊かであることを不思議に思っていました。さらに、高校生の時にボランティアで出会った日本の慰霊団や文通の日本人の友達(当時はインターネットの時代ではないので、手紙書いて、文通の友達を作っていました)も日本文化や日本語への関心を深めるきっかけになりました。私が高校を卒業した頃は、政治情勢が不安定で、大学が閉鎖されたり、再開されたりの繰り返しで、若者たちは自分たちの教育について不安を抱いていました。その中で、留学を考えるようになりました。ミャンマーでは、英語圏へ留学する人が多いのですが、私の場合は日本の高度技術が母国の発展に貢献できると考え、日本へ留学することを決めました。

日本語学習の工夫

日本留学を準備していた1993年頃のミャンマーは、現在のように日本語のブームもなく、日本語学校もまだ少数でした。数少ない参考書を本屋や古本屋で一生懸命探し、近所の日本語クラスに通いました。当時の自分の日本語能力は初歩的なレベルで、ひらがな、カタカナ、僅かばかりの漢字しか知りませんでした。しかし、国際学友会日本語学校での猛特訓と高専での日本語教育の制度もあって、日本に来て2年目で日本語能力試験1級に合格しました。特別な勉強法などはなかったように思いますが、日本語クラスでの必死の勉強と積極的に日本人の友達を作って日本語を使う機会を増やしていたことは覚えています。

日本留学の実現まで

当時は日本への留学は容易なことではなく、インターネットの時代でもないので、日本の教育関連の情報はミャンマーにほとんどない時代でした。それに直前まで社会主義国家で、国が閉鎖的だったこともあり、海外に関する情報は少なく、情報の収集には大変苦労しました。ちょうどその頃、日本政府文部省の奨学生募集を知り、それに応募しました。当時、ヤンゴンの日本大使館で奨学金の試験を受け、その年は学部生の枠は一人だけだったのですが,無事合格し、念願の日本留学が実現しました。留学を計画していた初めは、電子工学を学びたいと思っていましたが、ミャンマーは発展途上国で、インフラ整備や公共事業のために土木技術者をより必要としていると感じ、土木工学を専攻することを決心しました。

来日について

1994年9月29日にミャンマーを出発、数カ国の学生が,バンコクの空港(当時はドンムアン空港)で集合し、日本へ向けて出発しました。成田空港で文部省の関係者が迎えに来ていて、チャーターバスで駒場東大前の文部省関連の寮へ移動しました。同じプログラムでいろいろな国から60人ぐらい同じ寮に入ったと思います。

到着した時の印象

日本の都会に圧倒されました。インフラ整備もミャンマーと全然違うし、驚きの連続でした。初めて自動販売機を見ましたし、電車の切符まで機械で販売していたので驚きました。寮にあるカップメンの自動販売機も、お湯まで出て不思議でした。自分の国がこのレベルになるまであと何十年かなと、ため息も出たと思います。

来日して3ヶ月半たった頃、阪神淡路大震災が発生しました。日本人学校のクラスで、皆テレビ画面に映っている、あちらこちらの火事、横たわる高速道路、つぶれる建物などを見て唖然としていました。私自身初めて地震を経験したのです。

初めての経験と言えば、初めて雪を経験したのもこの東京でした。その日、たくさんの留学生たちは寮から外に飛び出て、雪合戦をしたり、走りまわったりして、とても楽しかった記憶があります。

東京の日本語学校

東京では1995年3月まで約半年間、日本語を中心に、数学、物理などの予備教育を受けました。学校は歴史もあり、日本語教育の名門校でもある国際学友会でした。半年間、日本語や準備教育について猛特訓を受け、毎日勉強詰めだった記憶があります。それは、私たちが半年後には全国のぞれぞれの留学先へ進学しなければならなかったためです。

広島への留学

東京での生活が慣れてきた頃、仲良くなったいろいろな国の同期達に別れを告げ、1995年3月下旬頃に悲しみ半分、期待半分で、広島へ移動することになりました。同じプログラムで広島へ移動するのは計3人で、私以外にマレーシアとカンボジアからの学生も一緒でした。私たち3人は羽田空港から飛行機で移動しましたが、初めての日本の国内線、そして学生3人だけだったので不安でしたが、広島空港に学校の先生が迎えに来ていました。

私たちは、呉工業高等専門学校の3年生に編入学しました。私は土木学科、残りの二人は機械学科と建築学科でした。私は呉高専で3年間学んだ後、広島大学工学部の3年生に編入しました。その後、博士課程前期と博士課程後期へ進学し、広島大学には7年間在学しました。折角留学するならば博士課程前期まで行きたいと思っていましたが、博士課程後期まで進学するとは思っていませんでした。しかし、研究を始めると段々と欲が出て来て、学生ライフの頂点の博士課程後期までという思いが強くなっていったと思います。

学部生の頃の生活

呉高専の土木学科から広島大学へ編入学したのは私一人だけでした。一つの高専の一つの学科から、各大学へ編入学するのは大体一名ずつです。しかし、私同様にいろいろな高専から広島大学へ編入学してきた日本人の学生も多く、一緒に行動するようになりました。高専で取った教養科目について単位を認めてもらえるものもあれば、もらえない科目もあったので、その単位の取り直しで、3年生の1年間は多忙で、大変だった覚えもあります。4年生になると授業が少し楽になったものの、今度は研究室配属、卒論の研究が始まり、またもや忙しい日々でした。

私は土木構造物が必ず地盤の上に建設されることから、インフラ整備のために地盤工学技術者が不可欠と考え、地盤工学研究室を希望しました。佐々木教授の研究室でした。研究室に配属された1999年の6月に広島で大規模土砂災害が発生し、大勢の人々が被災しました。人命も失いました。広島大学でもががら山で土石流が発生し、寮の前に止めてあった学生の車が流されるなどの被害を受けました。私も研究室の災害調査チームの一員として現場に入りましたが、このような自然災害の発生メカニズムを明らかにし、予測精度を高めることによって人命や資産を守ることを目的にして研究しました。その年、私の卒業論文は大学の土木教室の最優秀卒業論文賞に選ばれました。

大学院生の頃の生活

博士課程の前期と後期は同じ研究室で研究に励みました。学部時代とは違い後輩もできたので、後輩を指導しながら、先生方や諸先輩の指導を受けながら、研究を進めていった記憶があります。研究は忙しく、辛い時期もありましたが、土木学会中国支部で優秀発表者賞を取ったり、私の修士論文が工学研究科構造工学専攻の最優秀修士論文賞として選ばれたりして、頑張った甲斐もありました。

私は料理を作るのが好きで、この頃、研究室の仲間を時々家に招いて、ミャンマー料理を披露していました。友人たちが家で飲みつぶれ、いたずらで顔にいろいろな模様を書いたことは、今になって、戻れない学生時代の思い出として残っています。その頃磨いた、私の料理の腕は今でも健在で、作る機会こそ大分減りましたが、今でもたまに自宅で料理を作って、友人達を招いたりしています。

日本の生活で印象に残ったこと

日本での生活で印象に残っていることは数え切れないぐらいあります。日本とミャンマーは似たところも多いのですが、文化、宗教観、食習慣等が大きく違うところもあると感じます。お正月、お花見、お歳暮など、ミャンマーにはない習慣や文化がたくさんあります。食文化も醤油やみそをベースにした和食と、ナンプラー(魚醤)や香辛料をベースにしたミャンマー料理では大きな違いがあります。日本に来て間もなく、日本語学校で日本の食材の授業の際、先生が教室に納豆を持ってきて、学生の多くはその独特な臭いと粘々を見て、逃げたことがありました。

文化や食習慣だけではなく、その他にも印象に残っていることがたくさんあります。初めて新幹線に乗った時のこと、瀬戸大橋の見学で巨大橋を初めて見た時のこと、初めて遊園地に行った時、初めて日本人友達の家へ泊まりで遊びに行った時のこと、24時間テレビ募金活動への参加等々です。日本で初めてスキーに行ったことも忘れられません。大学の友人たちと一緒に行きましたが、初心者の留学生が何人かいる中、私だけが転び続け、一番遅く滑れるようになった気がします。

日本に来て半年も経たないころ、阪神淡路大震災が起き、その後も芸予地震、鳥取県西部地震、火山噴火と続きました。 2014年には広島の大規模土砂災害があり、日本での自然災害の多さには驚いています。その度に日本の土木技術や都市インフラのレベルが向上していくことはとても印象的です。

そして、印象に残る事と言えば、就職試験もそうでした。日本の土木の分野は、留学生が就職するのにハードルが高いと感じました。ちょうどバブルも弾け、日本の建設業界があまり元気がなかったのもその理由の一つかもしれません。しかし、一番大きな理由は日本語の問題や日本の就職試験の難しさだったかもしれません。私も就職試験の準備が大変だった記憶があります。

今の仕事について

私は大学を卒業した後、日本の大手の建設系総合コンサルタント会社へ就職しました。この会社はアジアを中心にアフリカ、中近東、中南米など世界60カ国以上で、途上国の発展を支える多数のプロジェクトを手掛け、母国ミャンマーでもたくさんのインフラ整備のプロジェクトを手かけてきた会社です。その海外プロジェクト第一号はミャンマーの水力発電所でしたが、そのプロジェクトがミャンマーの中学校の教科書に載っていて、それを中学生の時に習ったのも、入社の大きな動機になりました。

私はいつか発展が遅れている母国も国作りの時代になり、インフラ整備や公共事業に土木技術者が多く必要になるであろうという強い思いで、日本で土木工学を専攻し、日々経験を積んできました。入社して最初の7年間は日本国内の現場で国交省等が整備している社会インフラ整備に関わり、4年前(2012年)から海外事業部へ異動し、ミャンマーを中心に発展途上国で日本政府のODAで実施する開発事業や社会インフラ整備事業に関わっています。

ミャンマーは政治的混乱もあって、開国するまで時間がかかりましたが、4年前から念願のミャンマーのインフラ整備や公共事業へ貢献できるようになりました。JICA、国土交通省、経済産業省等のプロジェクトでこれまでの都市部だけではなく、地方の少数民族の住む地域も含め、数多くのプロジェクトに関わり、日本で学んだ技術・経験を活かして国作りへの貢献がようやくできるようになりました。今年はベトナムで日本のODAで実施している開発プロジェクトを担当することになり、これから3年間程度、ベトナムを中心に発展途上国の開発事業に関わっていく予定です。

文通の日本人の友人と一緒に

修了式にて佐々木教授,森脇助教授と一緒に

広大主催の若手国際シンポジウム

大学留学生会でのミャンマー踊り

自宅で友人たちとミャンマー料理を楽しむ

スキー旅行

プロフィール

氏名:Thi Ha(ティ ハ)

広島大学での所属:
広島大学工学部(1998年編入)
広島大学工学研究科博士課程前期(2000-2002年)
広島大学工学研究科博士課程後期(2002-2005年)

現在の職業:建設系総合コンサルタント会社勤務
担当:発展途上国インフラ整備担当


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