遠いようで、実は身近な「考古学」

上田 直弥 准教授

上田直弥 准教授
人文学プログラム 考古学

「遺跡」はどこにある?

 私が専門としている「考古学」、テレビなどの影響もあって、学問分野としての知名度は高い方ではないでしょうか。しかし、皆さんのイメージと実際の「考古学」とは、おそらくかなり異なっています。例えば、皆さんは「遺跡」と聞いてどのような風景を思い浮かべるでしょうか?町から遠く離れた砂漠の中、半ば崩れた石柱が何本も林立する風景、などなど。少なくとも身近な存在として捉えている人はほとんどいないのではないでしょうか?しかし実際には、「目に見えない遺跡」があなたの足元にもたくさん存在するのです。

 下の図は、広島大学の周辺における遺跡の分布を示した地図です。赤いマークが遺跡の位置を表しています。マークがある現地にいっても、9割がたはただの道路やビルがあるだけです。実は「遺跡」は、開発などに伴って発見・発掘調査されたものがほとんどを占めています。もちろん、重要な遺跡は保護のための協議が行われますが、(残念ながら)すべてを残しておくということは現実的には難しい。そこで行われるのが発掘調査です。遺跡とは、モノや土層の堆積プロセスの履歴書のようなものですが、大なり小なり一度でも掘れば、その場所の情報が消費されてしまいます。失われるその情報を、せめて正確かつ精密に記録にとるために、事前の調整や事後の報告書作成を含めた各種の作業が日々行われているのです。土器片ひとつをとっても、それ自体の形状などだけではなく、製作や使用、流通などどのような過程を経てから埋まったのか、埋まった後にかく乱などを受けているのか…。最低限確認すべき情報だけでも膨大です。文献史料と違って直接モノを喋れない考古資料にとって、これらの情報は「ことば」であるとも言えます。

 大学の授業ではそうした基礎的な調査スキルを身につける実習を行っており、卒業・修了後に文化財の専門職に就く人も多くいます。文化財専門職は、例に漏れず深刻な人材不足です。こうした就職先があるんだ、ということだけでも広く知ってもらい、将来の選択肢の中に入れて欲しいと考えています。スキル修得には地道な努力が必要ですが、大学・大学院で学んだことを活かせる喜びもまたあなどれないものです。

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考古学の学問的役割

 考古学が扱う資料のイメージは上記のようなところです。では、その資料的、方法的な特性はどのようなものでしょうか。まず挙げるべきは、その「寡黙さ」です。土器の欠片があるとして、それを特に何も考えずに1時間眺めていても、「茶色い」「割れている」「表面に波線のような文様がある」など、物質としてのざっくりとした特徴しか認識できません。もちろん地道な観察がすべてのスタートですが、その先に進むには、「なぜ」というアクティブ・ソナーを打つ必要があります。「製作時の痕跡は残っていないか(例:下の画像にあるのは工具で埴輪の表面を整えた痕跡です。)」「断面をみれば製作の単位がみえるのではないか」「同じような文様を持つ土器はどの地域に拡がっているのか」などなど。観察者の問題意識の数がそのまま、資料を観察する視点の数になっています。これに加えて、先に触れたように、モノがどのような位置、状態で出土したのかという「文脈」(コンテクスト)も考えるヒントになります。そのため、既に多くの人が論文を書いている資料であっても、着眼点次第で新しい情報を引き出せるのです。加えて、考古学資料は、上記の発掘調査件数からも察せられるように非常に膨大な点数にのぼります。全国津々浦々、材料には事欠きません。もちろん倍率の高い、人気の資料(たとえば銅鐸、三角縁神獣鏡)もありますが…。

 もう一つ触れておきたいことは、考古資料は社会の基層へアプローチするうえで非常に有効であることです。特に古代史などでは文献に残る情報は、社会階層の上位にあたる人々にかかわるものが多く、地域的にも都とその周辺が中心にならざるをえません。一方、考古資料は人々の生活の痕跡を主に扱うものですから、たとえば食事の道具がどのように変化するのか、その調達先はどこか、住居の大きさや立地はどうか、などといった、一般的な衣食住にかかわる多くの情報を得ることができます。また一方で、巨大古墳や宮都にかかわる遺構のように、階層上位の人々に関係する資料も多くあります。研究の目的を広いレンジで設定できることは、考古学の大きな強みであるといえます。

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古墳時代の葬制研究

 最後に、私自身の研究の内容についても少し触れたいと思います。私が主たる研究対象としているのは古墳時代の埋葬遺構です。古墳時代は、最大数百mにもなる巨大なマウンドが多数つくられた日本史上でも、さらには世界史的にみても特異な時代です。古墳時代はおよそ350年続きますが、ある時期には小規模な古墳が大量につくられたり、ある地域では他を圧する少数の大規模古墳のみが築かれたりと、時空間的な様相は一定ではありません。そのダイナミクスが持つ歴史的意義に、具体的な埋葬施設の構造分析からアプローチしています。単に土を掘って埋めるだけではなく、周囲に防排水の複雑な施設を施したり、粘土で全面的にパックしたりと、埋葬施設には様々な構造があります。その構築方法が、地理的に大きく離れた古墳同士で共通していたり、逆に近距離かつ近い時期に築かれた古墳同士でも大きく異なっていたりします。加えて、埋葬施設構造の差は葬送観念の差に起因したり、あるいは階層差であったりと、複数の要因が複雑に絡み合っています。古墳時代は、墓づくりが占める社会的ウェイトがきわめて大きかったことから、埋葬にかかわる諸属性とその形成要因を分析していくことで、古墳時代の有力者間関係などにも迫ることができると考えています。

 一つ例を示しましょう。広島大学の近くにある三ツ城1号墳(下の写真)は、県下でも最大規模の前方後円墳(古墳時代中期:おおよそ4世紀後半~5世紀後半)です。葺石や埴輪を備え、くびれ部の造り出しでは最新の土器を用いた祭祀を行うなど、ヤマト政権の大王墳(大阪府百舌鳥・古市古墳群など)との強いつながりをアピールするものです。一方、その埋葬施設についてみてみると、広島などで弥生時代以来伝統的に用いられてきた箱式石棺と呼ばれる構造を採用しています。墳丘の外見からは、中央の様式に倣っていることが強烈にアピールされている。しかし、古墳の外からは見えにくく、葬送儀礼に参列した人にしか目に触れない場所では、あえて伝統的な墓制を採用している。こうした「ねじれ」は、前方後円墳の存在を、単なる中央墓制の波及として片づけられないことを端的に示しています。なぜ3世紀半ば、前方後円墳がそれまでにないほどの広域に急速に拡がるのか。この国家形成にかかわる歴史的事件の背景をひも解くためには、古墳を「複眼的」に読み解く必要があるといえます。

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掲載日 : 2026年6月24日


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