名前: ハイルル・タマン氏
出身: インドネシア
取材日: 2014年9月8日
名前: ハイルル・タマン氏
出身: インドネシア
取材日: 2014年9月8日
略歴:
1962年 インドネシア賠償留学生(第3期)として来日し,東京の国際学友会で日本語予備教育
1963年 広島大学工学部船舶工学科に入学
1967年 広島大学大学院工学研究科修士課程に入学
1969年 東京の民間企業で半年間の研修後,翌年,インドネシアに帰国
今回はインドネシア賠償留学生として広島大学に留学したハイルル・タマン氏に留学時代の思い出をお伺いしました。
タマン氏は、インドネシアの名門バンドン工科大学在学中に賠償留学生の募集の話を聞いて、1962年に日本に留学しました。賠償留学生とは、日本の戦後賠償によりインドネシアから日本の大学に派遣された留学生のことをいいます。日本で学ぶ留学生がまだ少なかった当時、約400人ものインドネシア人の若者が賠償留学生として来日しました。
タマン氏の広島での留学生活とはどのようなものだったのでしょうか?
-まず日本留学までの簡単な略歴についてお聞かせ下さい。
1940年の生まれです。1959年に高等学校を卒業しました。19歳でした。オランダとの独立戦争(※)があったので途中1年間は学校に行かなかったです。
(※)第二次世界大戦後、旧オランダ領東インドにて独立を宣言したインドネシア共和国と、宗主国オランダとの間で発生した独立戦争(1945-1949年)。
-どちらのご出身ですか?
東ジャワのボジョネゴロの出身で小学校もそこで通いました。スラバヤの近くです。私の父は裁判官で転勤がよくありました。兄弟は9人いて、私は5番目です。
幼稚園の時に日本語を習いました(※)。その名前がおもしろくてね、アサヒ幼稚園といいました。ボジョネゴロには他にも3つあってミナミ、サクラ、フジという名前でした。
(※)太平洋戦争中、日本はオランダ領東インド(現インドネシア)に侵攻し、1942年から1945年まで軍政を敷いた。
-高校はどちらに行かれたのですか?
シンガポールの近くにあった小さな島の高校に行きました。タンジュン・ピナンという町です(※)。
(※)タンジュン・ピナンは、インドネシアのリアウ諸島州における最大の都市。シンガポールやマレーシアのジョホールバルとはフェリーやスピードボートで往来できる。
-大学はどちらに行かれたのですか?
バンドン工科大学(※)に入学しました。最初は電気関係の勉強をしました。その後、2年生から3年生になる時に土木に変わりました。ちょうどその時に日本への留学の話がありました。
(※)バンドン工科大学 (ITB)は、インドネシアでトップクラスの工科系大学。前身は、オランダ領インド時代、1920年にバンドンに設立された工業高等学校(TH)。日本占 領時代には「工業大学」と日本語に改名されたが、1945年に独立戦争が起こるとインドネシア大学工学部となり、1959年にバンドン工科大学となった。
-どのような話だったのですか?
インドネシア文部省のトップの人がバンドン工科大学に来て日本留学の話をされました。日本からの賠償で派遣する400人の学生を探していると(※)。
(※)日本とインドネシアの賠償協定に基づき、留学生(賠償留学生)ならびに研修生を日本の大学に派遣した。賠償留学生は1960年から65年までに6次にわたって計385人が派遣された。ただし、第5次と第6次は少人数の派遣だった。
-留学のための試験があったのですか?
筆記試験と面接がありました。賠償留学生は主に4期に分けられますが、1期生は1960年に派遣されました。私は第2期の試験を受けましたが不合格でした。しかし第3期の試験では合格しました。
-合格した後、インドネシアで研修などはありましたか?
ボゴールの近くにあるプンチャック峠の文部省の研修所で1ヶ月間、研修がありました。
-いつ来日したのですか?
1962年3月下旬に100人が来日しました。50人ずつのグループに分けられて、私は第2グループでした。飛行機でジャカルタを出て、シンガポールで宿泊して羽田空港に到着しました。その後、追加で15人が来日したので最終的には115人になりました。
-羽田に着いた時の印象は?
寒かったのでびっくりしましたね。3月だったので。日本の生活のこともわからないでしょう。
-宿舎はどこだったのですか?
小日向水道町にあった会館です。これは文部省が決めた寮です。半年後、多分9月頃ですか、幡ヶ谷に新しい会館ができたのでそちらに移りました(※)。
(※)小日向水道町は現在の東京都文京区にあった地名。インドネシア賠償留学生の宿舎は当初、分散していたが、1962年に賠償でインドネシア留学生会館(ウィスマ・インドネシア)が 建てられ、それ以降東京近辺で勉学する学生たちはこの会館に居住するようになった。幡ヶ谷は東京都渋谷区北部にある地名。
-東京では何を勉強されたのですか?
東京では1年間、日本語を勉強しました。国際学友会の日本語学校です(※)。そして日本語を勉強している間に大学に進学するための試験がありました。来日する前に分野は決まっていました。私は船舶工学でした。元々は土木を希望していましたが、分野としてなかったので船舶工学を希望しました。
(※)賠償留学生は国際学友会で1年間の予備教育を行った後、所定の選考を経て日本国内の大学に進学した。
-大学はどうやって決まったのですか?
その分野の中で日本語の学力でA、B、C、Dと4つのグループに分けられました。Aが80点以上で最も良く、以下B、Cと続きますが、Dになると大学にいくことができません。このグループ分けによって文部省が進学する大学を決めます。例えば、Aグループの学生は東京大学など良い大学に入学しています。 115人の中で東京大学に入ったのは3人だけです。私はBグループでした。造船分野の学生は大阪大学、九州大学、広島大学などに進学しました。
-Dグループはどうなるのですか?
大学には進学できないので留学生ではなく研修生となります。115人のうち、25人が研修生になりました。大学に進学した者は鹿児島から北海道までバラバラに進学します。東京と大阪が一番多かったです。
-東京ではどのような生活だったのですか?
朝から夕方まで日本語ばっかりの生活でした。食堂は会館の中にあるでしょう。部屋もあるし。一部屋に2人か3人でした。大きな部屋であれば3人か4人です。12月は寒かったですね。1月の成人式の時にみんなが着物を着るのを見たりして日本人の生活も学びました。
-日本の食事はいかがでしたか?
豚肉を食べないように気をつけていれば問題なかったです。ただ、日本の食べ物はあまり辛くないから、いつも辛い物を持ってきていました。
-お祈りはどうされていましたか?
イスラム教のモスクがあったので問題ありません。
-新しい寮はいかがでしたか?
新しくできた寮にはインドネシア人の留学生と研修生あわせて500人位いました。5階建ての大きな建物です。スカルノ大統領(※)が賠償の支払いの中から作ってくれました。でも私が帰国する前に売ってしまいました。
(※)スカルノはインドネシアの初代大統領。第2次世界大戦後ハッタとともにインドネシア独立を宣言して、オランダとの独立戦争に大きな役割を果たした。
-いつ広島に移動したのですか?
3月の下旬です。日本語学校の先生が連れて行ってくれました。当時、新幹線はなかったので寝台列車で行きました。12時間かかりました。その先生は広島大学と岡山大学への引率でした。
-広島大学には何人が行ったのですか?
2人です。私ともう一人いて、彼は電気工学の志望でしたが、広島に着いてからは毎晩泣いていました。先輩達にも相談しました。私が広島に来た時、大学には第1期と第2期の賠償留学生が5人いました。1人は途中でやめてしまいましたが(※)。
(※)広島大学には第1期から4期まで合計9人の賠償留学生が入学した(中途退学者を含む)。
-広島に着いてどこに泊まりましたか?
広島駅の近くの旅館に泊りました。先輩達の出迎えはありませんでした。翌日、日本語学校の先生と一緒に大学に行きました。
-広島の印象はいかがでしたか?
最初は、小さな町だと思いました。それまではジャカルタやバンドンや東京に住んでいたので。
-入学式には出席されましたか?
出席しました。周りの学生は黒い学生服を着ていましたが、私は知らなかったので背広を着て参加しました。それで翌日、学生服を買いました。毎日それを着て大学に行きました。
-広島ではどこに住んでいたのですか?
最初は旭町の下宿に賠償留学生3人で一緒に住んでいました。下宿には大きな部屋が2つあって好きなところに寝ていました。食事は外で食べたり自分で作ったりしていました。そこに半年間住んでいました。それから千田町にアパートを見つけて一人暮らしを始めました。6畳の部屋が一つで水洗トイレがありました。 インドネシア人にとって水洗のトイレは重要です。当時の家賃は5,000円くらいだったと思います。お風呂は銭湯に行っていました。当時の銭湯代が30円くらいだったと思います。
-教養教育はいかがでしたか?
1、2年生の頃は教養の授業でいっぱいでした。東京で教えてもらった日本語とは全然違うでしょう。方言があるのでびっくりしました。
-日本語の支援をしてくれる人はいなかったのですか?
いませんでした。でも日本語は自分で努力しないと駄目ですね。広島に着いた時に日本語の勉強のためにテレビをすぐに買いました。
-日本人の友達はできましたか?
硬式テニスをしていましたので、その時友達になりました。また、柔道もやっていました。バンドン工大在学中は、市内にあった柔道の学校に通っていました。 東京にいた時も柔道の学校に通っていて初段までいきました。広島大学でも半年間ほど柔道をしましたが、その後、空手を始めました。いつも空手ばっかりやっ ていました。
-空手はずっと続けたのですか?
白帯から始めたのですが、学部から大学院まで6年間やりました。広島を離れる時には黒帯で2段でした。帰国後はインドネシア人に空手を教えました。
学生時代の写真(1964年)
帰国後の写真(1980年)
-指導教員は誰でしたか?
船体強度の専門の川上先生です。川上先生の実験や論文作成のお手伝いをしました。当時のインドネシアにとって船舶工学はとても重要でした。研究室には学生が6人いて、先輩が4人、同級生が2人いました。数年前に退官したと思いますが、広島大学工学部の高木先生は研究室の同級生です。研究室では先輩がよく面倒をみてくれました。先生がいて、先輩がいて、後輩がいて、日本のシステムですね。
-学部を卒業した後、大学院に進学されたのですね。
川上先生から大学院進学を勧められました。それで先生がインドネシア大使館に電話をしてくれました。しかし賠償留学生は学部の4年まででした。大学院進学のために10人は文部省が奨学金をだしてくれるのですが、私はその10人には入れませんでした。しかし何とか工面して私費留学生として大学院に進学しました。
工学部正門前にて
工学部での写真
-修士を修了した後はどうされましたか?
東京のP社で半年間、研修生となりました。更に半年間、東京に滞在した後でインドネシアに帰国しました。実は修士を修了した時に、広島で日本人の女性と結婚しました。
-広島で知り合われたのですか?
そうです。彼女は準ミス広島でした。彼女は大阪の大学に進学して教員免許を取得して広島に戻ってきました。その後、広島大学のキャンパスで偶然出会いました。結婚後、東京で1年間過ごした後、彼女と一緒にインドネシアに帰国しました。彼女はジャカルタで日本人学校の先生をしました。
ミス広島に選ばれた奥様(右端の女性)
結婚直後の写真(奥様とタマン氏)
-インドネシアに戻ってからどうされましたか?
ジャカルタで仕事を探しました。ちょうど先輩が船舶検査の会社をしていたので、そこで2年間働きました。その後、国に入って船舶検査の仕事をしました。日本海事協会のような仕事です。そこで更に2年間働きました。船の検査をして世界銀行にレポートを送ったりしていました。
-日本での留学時代を振り返っていかがですか?
私は、日本から4つのお土産を持って帰りました。一つ目は船舶工学の修士号で、これで仕事を得ました。二つ目は日本語で、インドネシアで日本語を教えることもありました。三つめは空手で、インドネシア人に空手を教えました。最後は私の妻で、家族を得ることができました(笑)。
タマン氏は広島大学で船舶工学の知識を身につけて、インドネシアの発展に貢献する人材として活躍されました。タマン氏の在学当時、広島大学で学ぶ留学生は十数人と大変少なく、現在のような修学上の支援もない中で日本人学生と一緒に授業を受けるのには大変なご苦労があったかと思います。
現在、広島大学の留学生数は1,157人で、インドネシア人留学生は93人に上ります(2014年11月現在)。広島大学は戦時中に南方特別留学生24人を受け入れて以来(※)、インドネシアをはじめとする東南アジアからの留学生受入の伝統があり、今後も同地域との交流が活発になることが期待されます。
(※)南方特別留学生とは、太平洋戦争中に東南アジアの各占領地区から招いた国費留学生。前身の広島高等師範学校、広島文理科大学はその主要な受け入れ先となり、現在の国でいうとイン ドネシア、マレーシア、フィリピン、ミャンマー、ブルネイから24人の南方特別留学生を受け入れた。2013年、広島大学は在学中に被爆した元南方特別留学生3人に対して名誉博士号を授与した。インドネシアではハッサン・ラハヤ氏に授与された。
(関係記事)http://www.hiroshima-u.ac.jp/news/show/id/16500
取材者: 平野 裕次
(2015.3.17 写真を追加)
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