第1回 モハマド・ズルキフリ氏 (マレーシア) 1994-2005年在学

名前: モハマド・ズルキフリ・マット・ジュソー
出身: マレーシア
現職: マラ工科大学 上級講師(広島大学マレーシア校友会長)
取材日: 2014年5月27日

略歴:
1992年 マラヤ大学予備教育部日本留学特別コース(AAJ)入学
1994年 広島大学医学部総合薬学科 入学(マレーシア政府派遣留学生)
1998年 マレーシアに帰国
1999年 広島大学外国人研究生
2000年 広島大学医歯薬学総合研究科博士課程前期 入学
2002年 同 博士課程後期 入学
2005年 マレーシアに帰国

はじめに

母国マレーシアのマラ工科大学で薬学を教えるズルキフリ先生。今年の3月に発足した「広島大学マレーシア校友会(※)」の会長に就任しました。

マレーシア政府派遣留学生として広島大学に入学。学部卒業後、更に文部省国費留学生として広島大学大学院に入学して博士号を取得。広島大学には通算10年間も在学し、教養教育は東広島キャンパスで、専門教育及び大学院教育は霞キャンパスで勉学に励みました。

そんなズルキフリ先生にマレーシアでの予備教育時代や広島大学留学時代の思い出をお伺いしました。

(※)2014(平成26)年3月15日に設立。関連記事:http://www.hiroshima-u.ac.jp/news/show/id/19532

 

日本留学のきっかけは?

中等教育学校(※1)の時に、海外留学プログラムの紹介がありました。日本も含めてイギリス、アメリカの3つがメインでした。最終学年で実施される全国統一試験の成績によって次の進学先が決められるのですが、その試験の前に学校の先輩でAAJ(マラヤ大学予備教育部日本留学特別コース)(※2)の先輩でもあるジャミラ先生といって、今はゾライダ先生(注:広島大学同窓生、マレーシア校友会副会長)と同じAAJの先生ですが、その先輩が学校に来て、日本留学特別コースを紹介されました。全額政府負担で日本に留学して日本語と専門の勉強ができると。とても興味を持ちました。私としては、日本という国は、とてもきれいな国で、四季の美しさを表現できる国で、多分そういう国は世界の中で日本だけだと思います。春には桜があり、夏は海や山、秋は紅葉、冬は雪とかね。それから技術。日本の高い技術は評判でした。あとは文化。いろいろな日本の文化、服装の文化から食文化があり、このようなことも含めて、これはチャンスだなと思いました。その時、先輩が日本留学特別コースに入るためには最低何点は取らなければならないと言われて、それをクリアしていたので第一志望は日本留学特別コースにしました。

(※1)日本と異なりマレーシアでは中学校と高校に分かれておらず、小学校(6年間)卒業後、中等教育学校に5年間通う。

(※2)第4代首相マハティール氏が提唱したルック・イースト政策(東方政策)(後述)の一環として、1982年にマラヤ大学に日本留学のための2年間の予備教育特別コースが開設された。
 

- イギリス、アメリカといろいろある中で、日本に関心があったのですね。当時の日本のイメージはどうでしたか?

当時は、日本のドラマが流行っていました。それを見て、日本という国が当時のマレーシアとは全く違っていて、近代さというか。当時はまだ90年代の最初の頃でしたので。

- どういうドラマを?

一番覚えているのは「101回目のプロポーズ」ですね。それ以外では、もう少し前のドラマだと思うのですが、タイトルは覚えていません。確か山口百恵さんが出演されたドラマだと思います。そういうのが放送されていました。ドラマの中の日本の街の雰囲気にあこがれました。

AAJ(マラヤ大学予備教育部日本留学特別コース)の生活はどうでしたか? (1992-1994)

全寮制でマラヤ大学構内の寮で生活しました。その時にチャレンジだったのは、私のグループ20名は、ルック・イースト政策(※)による日本留学プロ グラムで初めて医学系コースに留学できるグループだったのです。私は11期なのですが、10期までは工学分野と経済分野のコースしか受けることができな かった。私の代からは医学系のコースが初めて加わったのです。医学、歯学、薬学、バイオテクノロジーとかね。それで20人。AAJの時には先輩がいなかったわけです。工学を希望する同僚は一年上に先輩がいるわけですが、私の場合は医学系の一期生。パイオニアだったわけで、それが一番のチャレンジでした。

(※)東方政策。日本や韓国の労働倫理や経営哲学などを学ぶことによって経済発展を目指していく構想。1982年の開始以来、約15,000人の留学生や研修生がマレーシアから日本に派遣された。

- はじめて日本語を勉強して苦労したことは?

最初は漢字ですね。漢字を覚えるのに苦労した。あとは文法とか。語学は得意ではなかったので、英語もまあまあ。中等教育学校の時にアラビア語を5年間習ったのですが、今は全然できません。当時は日本語の勉強もひとつのチャレンジでした。

- AAJでは毎日どんな時間割だったのですか?

日本語と基礎科目に分かれていました。日本語は毎日2時間から3時間。日本語はレベル別にクラス分けされていて、一番いい時で真ん中ぐらいでした。基礎科目とは、医学系コースの場合は数学、生物、化学。また、1年生の時は基礎科目は英語で教えられましたが、2年生からは日本語で教えられました。

- 先生方はマレーシア人の先生が多かったのですか?

私の場合、1年生の時の基礎科目の先生は、現地の先生だったのですが、そのほかは日本人の先生。2年生からは基礎科目も全員日本人の先生でした。

- AAJの中では日本にいるような授業?

そうです。大変でした。あと、2年生の時に使われた教科書も、日本の高校生が使っている教科書でした。日本の高校は3年間ですよね?その3年分を私たちはたった1年だけでやりました。それぐらい大変でした。当時、マラヤ大学はマレーシアで一番の大学。つまり、日本でいうと東大。マラヤ大学で一番難しいのは 医学部ですが、二番目に難しいのは日本留学特別コースと言われていました。マラヤ大学の学生には、ちゃんと中間休みとか、学期と学期の間の長い休みがあったのですが、私たちは短かった。2年間で最終的に日本の大学入試に受かるようにとの配慮でした。

- AAJでは日本人や日本の企業などを訪問する機会はありましたか?

プログラムの中に日本人家庭訪問というのがありました。5、6人のグループで日本人のお宅を訪問して交流する。それが年に1、2回。それから盆踊り。シャーアラムにあるパナソニックの工場で。毎年あるイベントでした。そのほかは日本の工場訪問とか。

初めての日本へ

- 日本の印象はいかがでしたか?

当時クアラルンプールの国際空港はスバン空港だったのですが、みんな正装で飛行機に搭乗して、翌朝、成田に到着しました。早朝なのにもう明るかったので珍しく思いました。春は日の出が早いじゃないですか。フィジカル的な印象として、今でも忘れられないのですが、バスに乗る時に、空港の自動ドアが開いた途端に、空気が冷たいのにはとても驚きました。見た目は明るいのに実際には寒いというのが。3月下旬でしたが、初めて寒いという感覚を実感しました。また、成田空港から大使館まで高速を通ったのですが、景色がきれいで物がはっきり見えるのが珍しかったですね。暑い国だと湿度と熱気で空気がゆらいで見えるので。 街に近づくにつれて今までテレビでしか見ることができなかった風景が目の前にあらわれてきてとてもワクワクしました。最初はみんなで大使館の近くに宿泊して、2日間のオリエンテーションの後に留学先に移動しました。

- 広島にはどのようにして行きましたか?

新幹線で行きました。北海道へ行く学生はまだ飛行機で行っていると思うのですが、当時、東京から西の学生は、多分、山口までだと思うのですが、同じ新幹線に乗って集団で行きました。名古屋、京都、大阪とだんだん人数が減って、最後は広島と山口。新幹線はスピードも速く本当に珍しかったです。富士山も見ました。

東広島キャンパスでの教養教育 (1994-1995)

- 教養教育はいかがでしたか?また、日本人の学生と一緒に日本語で講義を受けるのはいかがでしたか?

教養教育は個人的にはいいと思います。もちろん専門科目に近い科目もありましたけど、化学や数学など。一番苦手だったのは古東先生の哲学。これくらいの分厚い本でした(笑)。日本人の学生と一緒に受けて、無差別というかそういう形で授業を受けて、それが一番大事なプロセスだったと思います。私たち留学生にとっては。これから先、2年、3年の専門科目に入る前に。薬学科の中で留学生は私1人だけだったのですが、一般教養の時から、常に日本人の友達と一緒に行動したので、それが大きかったと思います。

- 日本人学生とは知り合いになりましたか?

私は多分、個人としても社交的なほうだと思います。最初から声をかけて、みんなと知り合いになって。例えば、学校に着いたら、まず総合科学部の掲示板のところに行って、同じ学科の同級生を見つけて一緒に行く。そういうパターン。一緒にお昼を食べたり。

- 週末は何をしていましたか?

1年生の時は西条にいたので、週末はマレーシアの留学生と一緒に行動しました。時々は学科のみんなと行動しました。私は宮島に行くオリ エンテーションキャンプには不参加だったのですが、それに参加した人はもっと広い範囲で交流ができたのではないかと思います。学科のイベントとしては、鏡 山公園で花見をしたり、広島市内でボーリング大会をしましたね。

- 文化や習慣の違いで戸惑いはありませんでしたか?

やはりお祈りする場所を見つけることでしたね。当時は総科と工学部の間にあるサークル棟の廊下を使って昼間のお祈りをしていました。お昼のお祈りはどうしても学校でしないといけません。夕方のお祈りは4コマ目が終わってアパートに戻ってできるのですが、昼間はそこで。要するに、初めてどこかに行くとどこでお祈りをすればいいのかわからなかった。先輩にいろいろ聞きました。
また、初めて寒いところに来たので、一年中ずっと鼻水が止まらなかったんですよ(笑)。春、その次の夏も。1994(平成6)年の夏は、とても暑くて断水したり、コメが不作でタイ米が大量に輸入されていた。夏休みにプール監視のアルバイトをする予定だったのですが、断水になったのでプールが閉鎖された。私の借りたアパートは大変古かったので、暑くて暑くてたまらなかったです。御薗宇に小学校があって、その前に古いアパートがありました。二階に住んでいたのですが、部屋が8つくらいありました。一階と二階に共同トイレとキッチンはあったけど、お風呂は一階にしかなかった。二階から一階に行くには、外にある階段を利用するしかなかった。私たちの習慣では、朝、シャワーをします。それで、毎朝起きて学校に行く前にシャワーをするのに外にある階段を下りていって、 ちょうど小学生が登校する時間でした。しょっちゅう小学生たちにも「おはようございまーす!」と言いながら(笑)。ちょうど正門の前だったので大変印象に残っています。

広島大学留学生懇親会に参加

学生時代の仲間とツーリング

霞キャンパスでの専門教育 (1995-1998)  

2年生になって霞キャンパスで専門教育を受けました。その時、初めてみんなでひとつの教室で授業を受けるようになりました。教室の中では座る席が大体決まっているじゃないですか。誰の前には誰が座るとか。そこで仲間みたいなのができました。当時の仲間の関係も大きかった。授業を受けると先生が黒板に書いて、それを写す。授業が終わった後に、分からないところや書ききれなかったところは、仲間にノートを見せてもらって書いていました。みんな真面目に講義を受けていました。私が博士号を取って帰国する前には、60人の内、20人から30人近く集まってもらってお祝いしてもらいました。本当に感動しました。みんな仲がよかったですね。当時の先生たちの間では、成績的には一番心配だった学年のようでしたが(笑)。

- 当時はどのように平日を過ごしていたのですか?

当時のアパートは南区の旭町だったのですが、大学まで徒歩で5~6分くらいかな。歩いて国道2号線を越えて、当時は大学病院の看護婦寮だったかと思いますが、その中にある小さい門から病院を通って通学していました。毎日勉強で忙しかったです。2年生の前期は全部講義だったのですが、後期からは午後に実習がありました。実習はペアでやるので、相手とうまくいくように二週間過ごさないといけません。それはすごく大きかったと思います。実習によって薬学の世界の視野が更に広がりました。

研究室にて

広島市植物公園で学科の仲間と

恩師・木村榮一先生の思い出は?

木村先生(※)は、学生の教育に熱心でした。研究だけではなくて人間を育てるというか。例えば、マナー。研究室では、昼に食事会とお茶会があるのですが、昼の食事会は、学部生は必ず参加しないといけない。私たち学部4年が弁当などを買ってきて、セミナー室のようなところに木村先生が座って、学部4年生が一緒に座って食事する。先生のアメリカ留学時代の経験を聞いたりして。そういうところから人間を育てるのだなと思いました。その当時、助教授だった小池先生や青木先生も一緒に。

(※)木村榮一氏。広島大学名誉教授。元日本薬学会会頭。2014年春の叙勲で瑞宝中綬章を授与。

- 研究以外の部分でも学ばれた?

そうです。世界レベルの研究室だったので。仕事をきっちりやらないといけないとか、時間を守るとか、セミナーの準備とか。

- 日本人、留学生、分け隔てなく扱われた?

そうです。それも木村先生の思い出として印象深いですね。あなたはもう留学生として扱うのではなく、日本人の学生として扱うつもりだから、そのつもりでちゃんとして下さいと言われた。あなたは日本に来る時はマレーシアのイメージを持って来たけど、ここから帰る時はここのイメージがついているから、マレーシアに帰る時は日本のイメージを持って帰るんだよと。その通りだと思いました。

マレーシアへの帰国、そして広島大学大学院への入学 (1998-2005)

卒業後、帰国して文部省奨学金を申請しました。学部生時代に取り組んでいた研究テーマを更に深めるためです。私にとってよかったのは、渡日後すぐに研究を開始できたことでした。他の留学生だったら、半年間の日本語研修があると思うのですが、私は研究生時代からすぐに研究をすることができた。おかげで修士課程2年間にいろいろなことができました。

- 文部省奨学金を申請したのはどのような経緯でしたか?

3月末に帰国して、5月か6月頃、新聞に文部省奨学金の公募が出ていました。当時はマレーシア政府と日本大使館経由で申請しました。その時、木村先生から推薦状をいただきました。7月頃、面接に来て下さいという通知が来ました。面接と同時に簡単な日本語のテストがありました。面接では、何を研究したいか、どこの研究室に行きたいかを尋ねられました。再び広島大学の元の研究室で研究を続けることができて本当にラッキーでした。申請書を提出する時に、来年は日本に行くぞと心に決めていました。

あとがき

時間の制約もありインタビューでは大学院生時代の詳しいお話をお伺いすることができませんでした。ズルキフリ先生は、学士課程から大学院課程までの10年間、20代の大半の時期を広島大学で過ごされましたが、その時間の長さをあらためて感じさせられました。

 

取材者:平野 裕次

 


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