第13回 利他心(2・終)

 試験等で最先端の学識が問われるのであれば、そのための学修は、十分に基本的な知識を理解し、それを利用でき、その応用に鋭い感覚を持った仲間との議論が不可欠でしょう。しかし、そうではなく、基礎的知識を理解しそれを使う基本的スキームが問われる試験では、じぶんがわかったつもりになっていることに気づく機会を提供してくれる仲間が貴重な存在となります。自分の思考の弱点や癖は自分ではなかなか気づきにくいものです。だから、試験でそのような盲点のない学修をできる人を選ぶのでしょう。

 最近は、基礎の理解を問いただす学生が少ないようです。こんなことも知らないのかと他の学生に思われるのが嫌なのでしょうか・・・。しかし、その学生が発する疑問は、いろいろであっても、ひとつひとつを短時間の内に探ってその疑問を解消させようとするプロセスに、回答する側の理解を深めるヒントが隠れています。それに気づくと、初心者と話す機会を求めたり、ゼミに誘ったりするようになります。もちろん、そのような機会を提供してもらえるのですから、少しばかり勉強している者は、その知識を惜しむことなく出すようになります。そのなかで新たな誤解が発見されたり、より深い理解を得たりと、楽しいと感じることが増えていきます。学ぶことの楽しさの一つかもしれません。少しずつでもゼミのレベルが上がって行きますから、自分のレベルをより高める努力も必要です。鍛えられますね。

 自分がわからないことを他人から得ようとする一心で勉強すると、自分のわからない点が受け売りでも、らしい回答を得ることで、隙間が埋められたという満足感はあるのかもしれません。でも、他人からの受け売りがその理解につながるとは一概には言えませんし、足元を見ることなく目先ばかり見ているので、躓いてこけたり、穴に落ちるかもしれないとは考えてもいないでしょう。第三者といえどもハラハラドキドキです。注意しても本人は前しか見ていないから、足元に落とし穴があると言っても聞く耳を持たないので、しばらく傍観せざるをえない。この間に大事にならないようにと祈るだけです。

 仏教の説話によると、餓鬼界では、1mほどの箸が食事に用意されていて、これを使って自分だけが食事を口に運ぼうとするために、結局食べることができず飢えの苦しみに身を焼かれるそうです。苦の世界です。菩薩界では、その長い箸を使って目の前の菩薩に食べさせてあげようとしますから、お互いに食事を進めることができます。喜びの世界です。餓鬼はガリガリ(我利我利)亡者、菩薩は利他心にあふれる存在、その違いです。

 他人を喜ばせることから「徳」が生じ、「徳」があるゆえに「運」が巡ってきます。試験は水物と言われるように、運が少しは(多いにということもある)左右すると考えているのであれば、その試験の本質をとらえてそれに合った勉学法を選択し、そのうえで他人から試験に好都合なものを得ようとばかり考えずに、自分で他人に提供できるものを増やして惜しみなく差し出すことを心がけてもよいかもしれません。他人に提供しようと思えば、そのために勉強することは自己満足のレベルにとどまらないですから。

 次回は「囲碁」です。

 


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